更級日記の東海道の旅をもとに平安時代の古地形や文献で平安時代日本を再現
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いのはなのさか(猪鼻の坂)とはどこか

浜名の橋(実際には壊れてなかったが)までやって来て上った坂だから、橋のすぐ近くにある坂である。この地には、古くから猪鼻駅が置かれていた。平安前期までは興廃を繰り返しながらもなんとか存続したが、中期には完全に廃絶したようだ。しかしそれでも清少納言の枕草子にみられるように『いのはな駅』という名称は都人の記憶に確実に残った。浜名地方が景勝の地としてあまりに名高かったからである。



猪鼻駅の現在地



平安・鎌倉時代の浜名地域推定地図を見れば、イノシシの鼻のように見える砂州に気づくだろう。『はな』というのは『細くとがった先端』という意味で人間の鼻、岬の突端などを指す。地名としては現在も『長崎鼻』が有名で鹿児島県、長崎県、千葉県に同じ名前の岬がある。猪鼻というのは『イノシシの鼻先のような岬』である。そこから浜名橋を渡ったところに猪鼻駅があった。それは現在の静岡県湖西市新居町浜名地域で、具体的な位置は発掘調査を待たなければわからないが、おそらく鎌倉時代に繁栄した橋本宿と変わらないので、橋に程近い、教恩寺がある辺りであった可能性が考えられる。



浜名の橋の位置



浜名の橋の長さは約170mとわかっている(三代実録)。橋は普通は一番川幅が狭くなっている場所にかけるものである。そうすると現在の橋本交差点先の少し南にある(静岡県湖西市新居町浜名)諏訪上下神社先と対岸の現在弁当屋さんがある辺りにかけられていたと考えられる。浜名の橋跡の石碑と案内板はそこより少し西200mの水路脇にあるが、これは立てる場所がなかったのか、あるいは何か文献記録があってのことかわからない。江戸時代に描かれた鎌倉時代の橋本宿の推定図(新居町教育委員会:地名が語る新居、p26)では石碑近くに橋のたもとの小松茶屋があった。平安時代から鎌倉時代にかけて何度も架け替えられているので位置も変遷した可能性は否定できない。



いのはなのさか(猪鼻の坂)の位置



猪鼻坂の位置について書かれた史料として、江戸時代後期に描かれた、時代別に描かれたこの地域の6葉の地図が存在する。それは浜松市舞阪図書館・郷土資料館に展示してある(本物か、複製かはわからない)。資料にすべく望遠モードで撮影してみたたが、照明が暗くまったく解像できなかった。同じものは前記文献(新居町教育委員会:地名が語る新居、p24)にも掲載してあるが見開き2ぺージで6葉全部を印刷しているので字が不鮮明ではっきりとは分からない。しかし目を凝らしてみると高師山山中の峠辺りに描かれていることが分かる。なお、この資料が少なくとも鎌倉平安時代について史料的価値があるかには注意が必要である。

以上を勘案すると『猪鼻坂』は猪鼻駅から発する300m位の坂、あるいはその先の高師山の峠辺り(平治ヶ谷、現在の新居ごみ焼却場)までの登り道を含めた全体を指すものと考えられる。登り口は天神社(湖西市新居町浜名1301)脇の坂道である。現在の坂は勾配も緩やかで特に名のつくほどの坂道ではない。しかし、当時もそうでなかったことは容易に想像される。第一にこの地域は何度も地震に見舞われ、軟弱な崖が崩壊している。さらに、人の手でも切り通されて勾配が緩くなっている形跡がある。車社会になって舗装された時にも、かなり手が加えられただろう。もちろん、更級日記に険しい坂とは書かれているわけではなく、『いとわびしきを登りぬれば』と、うっそうとした森に分け入る情景を描写している。現在の猪鼻坂の上り口の両サイドは自然崩落か宅地造成のためかは分からないが、崖はなく、住宅が建ち並び明るく開けていて陰鬱な雰囲気はない。

※メイン画像は猪鼻坂の上り口推定地、現在は緩やかで明るい坂道である。平安時代には両脇の山に挟まれたうっそうとした森の小道であったと想像される。

浜名の橋跡

背景の川が浜名川。平安時代の浜名の入江であった名残である。浜名の橋は平安時代から鎌倉時代にかけ何度も架け替えられたのでこの位置が、更級一行が上総赴任の際にあった黒木の橋の位置かどうかはわからない。 現地案内板には以下のように書いてある。
浜名橋跡
浜名橋は、浜名湖から太平洋にそそぐ浜名川に、平安時代の貞観4年(862)にかけられた。
長さ167m、幅4m、高さ5mほどで、当時としては大きな橋であったが、災害によって幾度も架け替えられた。
浜名橋は東海道を往来した貴人の日記や和歌にも登場するなど風光明媚であった。
平成22年3月 
湖西市教育委員会


 

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