湖西市新居町にある平次ヶ谷(へいじがや)の歴史地理的意味
静岡県湖西市新居町内山に平次ヶ谷(へいじがや)という場所がある。新居町ごみ焼却場正門前の道路を挟んで向かいに平次ヶ谷の石碑がある。案内板には次のような説明がある。すぐ近くにその名に因んだ「平次ヶ谷公園」もある。
『平次ヶ谷』の位置と意味を明確にすることは、鎌倉時代以前の東海道ルートを明確にするために重要である。
平次ヶ谷(へいじがや)現地案内板
ここは、新居地内で最も高く見晴らしのよい場所である。
建久元年(1190年)、源頼朝が上洛の途中、橋本に滞在した折に家臣の梶原平三景時の二男、平次景高がここの大松に登り、平家方の動静を監視したことから、この辺りを平次ヶ谷と呼んだという。
平成22年3月 湖西市教育委員会
平次ヶ谷の地理的歴史的意味
上記の案内板を見ても、全く何のことかわからない。 現在「平次ヶ谷」の碑が立っている場所は谷ではなく峠で、見通しも全くない。では、どうしてこんな現状に合わないことが書かれているのだろうか。
碑が立っている地点から南に少し登った丘陵の頂上がこの辺での最高地点(大正6年測量時標高71m)である。仮に、そこに生えていた松の大木に登って周囲を見渡したのなら確かに周囲の監視はできると想像される(木に登らなければ密生する樹木で何も何も見えない)。特に下の谷を通る東海道の人の動きは手に取るように分かる筈である。
さて、建久元年とは、平家が滅亡し、謀反の疑いをかけられ奥州平泉に匿われていた義経も討たれ、更に奥州藤原氏も滅ぼされ、源頼朝にとって、やっと一段落がついた時期であった。そんな小康状態ともいえる時期での上洛であったが、まだ平家の残党があちこちに残っていて警戒は怠れなかった。10月18日に投宿した橋本宿は景勝の地であった反面、軍事的には三河側から攻められれば、狭い砂州でつながっていた遠州側には逃げ道が狭く、海に追い落とされる危険があった。そのため三河方面の動きを監視する必要があったのである。監視する場所は当時の東海道が通っていた谷である。ここを監視し伏兵を置いておけば侵入する敵は袋のネズミで討ち取れる。平次は単に見張りをしていただけでなく、この谷の警備指揮者と考えられる。見張りだけなら梶原景時の息子をわざわざ松の木に登らせるようなことをするはずがない。
平次景高が監視した谷だから「平次ヶ谷」という地名が生まれたが、室町時代、応永の地震津波災害を経て平次ヶ谷自体も埋没し、東海道ルートも変遷し、地名の語源も忘れ去られたのであろう。大正時代の地図でも谷というより盆地のような幅があるが、室町時代の応永大地震以前は深い切り立った谷であったと考えられる。ちなみに、平次が登ったと思われる地点からは、潮見坂を通る近世東海道ルートは樹木に視界を遮られ監視できない。
※平次ヶ谷の意味するところ:現地では「へいじがや」と読まれているが、本来は「へいじがやつ」と読むべきではないだろうか。というのは鎌倉の地名では亀谷、扇谷は「かめがやつ」「おうぎがやつ」である。亀谷は源義朝の旧宅があったところであるが、「やつ」の意味は山の尾根と尾根に挟まれた谷にある狭い土地である。
※『平次ヶ谷』についてのエピソードの出典は不明。
頼朝が建久元年に上洛時、橋本に宿泊したことは『吾妻鏡』に書かれているが、平次景高の監視活動には触れられていない。『平次ヶ谷』のエピソードは中世以前の東海道がこの谷を通っていたということの証明になるので、重要である。出典の確定が望まれる。参考までに、下記の文献には史実ではないという否定的見解が述べられている。
※『地名が語る新居』(新居町教育委員会)の解説を以下に引用
p.36内山
もっとも話題の多いのは、内山奥の代名詞でもある平次ヶ谷であろう。 正確には大沢一帯の山をいい、谷といってもこの山が新居で一番高いと言われた(海抜72メートル。実は新居町で一番高いところは検校ヶ谷である)。 ここが明治以来の新居の名物のようにいわれたのは、平次物見の松という巨松があったからだが、その松は、戦時中に軍の監視塔が建てられた時切られ、今は根だけ残っている。 ところで、この平次物見の松が本当に鎌倉時代の梶原平次景高ゆかりの場所だったかどうかは記録にない。 新居町源太山の源太物見の松があまりにも有名で遠江国浜名橋記に記されたのをはじめ諸書に紹介されているのと対照的である。松自体は源太の松と負けず劣らずであったことは確かで、大沢の西にある地名与平治があることから、 源太物見の松と対をなす平次物見の松が後年提唱された疑いがある。 もともと源太と平次というのは呼びやすいという点でペアをなす人名で、古来何かのたとえ話に用いられることがあった。 源平合戦とは関係なく。
地図:陸地測量部、大正6年測図25000分の1地形図、新居から一部切り取り、加筆。
地図中赤い点で示すルートが古代から鎌倉時代にかけてのの東海道である。鎌倉時代にはピンクの点で示すルートもあった可能性がある。平次が監視した丘の最高点は図中黄緑で示している。平次ヶ谷は水色の部分の谷である。
平次ヶ谷碑
建久元(1190)年に源頼朝が上洛のおり橋本宿に宿泊した(吾妻鏡)。その際警備のためこの地にあった大松に登り、平家側の監視をしたという。
少なくとも現在、この場所からの眺望はない。道をなだらかにするために切り通されている事を考慮しても、見通しのきく場所ではない。この碑の裏の崖を登れば、丘陵の最高点がある。
平次ヶ谷碑前の道路(平安鎌倉東海道)
猪鼻坂を上ってきた平次ヶ谷碑前の峠道。この道は古代から鎌倉時代までの東海道と考えられる。右側に新居町ごみ焼却場がある。道の左側の丘陵にこの地域の最高標高(71m)がある。
新居ごみ焼却場
新居ごみ焼却場峠を越えて振り返り新居ごみ焼却場を見る。平次ヶ谷碑は道の右側にある。右側の山に丘陵の最高地点がある