更級日記の東海道の旅をもとに平安時代の古地形や文献で平安時代日本を再現
文字サイズ

平安貴族の記憶に残る『末の松山』から貞観大地震・津波(1156年前の東北大震災・津波)の惨禍を辿る

  現代人は『末の松山』などと言われてもピンとこないが、平安貴族なら、「あー、あの津波にも呑まれなかった山のことね」というイメージがあった。 この貞観大地震・津波の記憶は日本人の頭から完全に失なわれていたが、1156年を経て再び東北地方を襲った。歴史は繰り返されたのである。

※タイトル画像は陸奥国府、多賀城の足元まで押し寄せた貞観大津波の想像図。耕地は一面の海となり、末の松山だけがかろうじて水に呑まれず頭を出している。



更級日記に残る貞観大地震・津波に関する記憶の痕跡



さて更級日記、浜名の入江の段には、これに関するの記述がある。



『外の海はいと、いみじくあしく浪高くて、入り江のいたづらなる洲どもに、ことものもなく松原の茂れる中より浪の寄せかへるも、いろいろの玉のやうに見えて、まことに松の末より浪は越ゆるやう見えて、いみじくおもしろし』



  上の文で『松の末より浪は越ゆるように見えて』は「松のてっぺんから波が越えるように見えて」という意味だが、これは当時の『末の松山は浪も絶対越えられない』という一般認識に反するので面白がっているのである。



平安貴族は『末の松山』の事を次の歌で知っていたと思われる。



  『君をおきてあだし心をわが持たば 末の松山波もこえなむ』(古今集 東歌 詠み人知らず)



  『契りきな形見に袖を絞りつつ 末の松山浪こさじとは』(後拾遺集 清原元輔)



  一つ目の古今集、東歌の作者は大津波から五十年にも満たない時代であったため、自分が体験せずとも、近親者からその恐ろしい体験を繰り返し聞かされていた可能性が高い。

二つ目の歌は清少納言の父親である清原元輔の歌であるが、百人一首にも採られているので現代人にもよく知られている。

しかし、災害から百年以上たった平安中期の貴族は男女の契りが固いことを末の松山を波が越えないことに懸けた、この歌枕が大津波の大惨事につながることを知らなかった可能性は高い。


<和泉式部日記に見る末の松山>


和泉式部の愛人であった帥の宮が式部邸を訪れた際、屋敷に車が止まっていたのを、ほかの男が通ってきていると勘違いし、気まずくなった時の場面である。

「よべは参り来たりとは聞ゝたまひけんや。それもえ知り給はざりしにやと思ふにこそいといみじけれ」とて

(宮)まつ山に浪たかしとは見てしかどけふのながめはたゞならぬかな

とあり。雨ふるほどなり。あやしかりけることかな、人のそら事を聞こえたりけるにやとおもひて

(式)君をこそすゑの松とは聞ゝわたれひとしなみには誰か越ゆべき
と聞えつ。宮は一(ひと)夜のことをなま心うくおぼされて、久しくのたまはせで、かくぞ

(宮)つらしともまた恋しともさまざまにおもふ事こそひまなかりけれ


現代語訳(拙訳)

「昨夜私が来たとはお聞きになりませんでしたか。そのこともお知りになることができないとは悲しいです。

(宮)松山に浪が押し寄せている(あなたに男が言い寄ってきている)とは知っていましたが、今日の御様子は只事ではありませんね

とあった。雨が降っているときだった。おかしなことだ、誰かのでたらめを真に受けていらっしゃるのではと思って、


(式)あなた様こそ末の松と言われていますよ。あなたと同じような浪に誰が越えられるものですか(わたしは心変わりはしていません)

とお伝えした。宮様はあの夜のことをすっきりしない気分でおられ、しばらく何もおっしゃられなかったが、こう言ってこられた

(宮)つらいとも恋しいとも様々に思うことばかりで心がいっぱいです

※『土佐日記 かげろふ日記 和泉式部日記 更級日記』p.411、日本古典文学大系20(岩波書店)


正史、日本三代実録に残された貞観大地震・津波の記録



  この『末の松山』は現在も宮城県にある。寶国寺(多賀城市八幡2-8-28)境内の小山に生える松の木がそれである。もちろん木は何度も生え変わっているだろうが、問題は木が生えている標高20m位の小山である。貞観11年(864年)に起こった貞観大地震に続く大津浪で周囲は大海原になってしまったが、この末の松山だけは水没しなかったという。

この時の貞観大地震・津波の様子は正史、日本三代実禄に収録され、後世に伝えられた。



大地震記事、書下し文



  『貞観十一年5月26日、陸奥国の地、大いに震動す。流光昼の如く穏映す。人民叫呼し伏して起つ能わず。或いは屋仆れ圧死す。或いは地裂け埋殪す。馬牛駭き奔り、或いは相に昇ね踏む。城槨、倉庫、門櫓、牆壁は頽れ落ち、顚覆するもの、其の数を知らず。海口は哮吼し、聲は雷霆に似たり。驚濤潮を涌かし泝廻し長きを漲り忽ち城下に至る。海を去ること数十百里、浩々として其涯を弁ぜず。原野道路忽ち滄溟となり舟に乗ること遑非ず。山に登ること及び難し。溺死者は千許り。資産、苗稼は殆ど孑遺なし。』



<現代語訳>

  貞観十一年(864年)5月26日(グレゴリオ暦7月7日)、陸奥国で大地震があった。稲妻が走り昼間のようになり、暗がりを照らした。人々は叫びちらし、地に伏して立ち上がることができなかった。或る者は家屋がつぶれて圧死し、或る者は地面が裂け生き埋めになって死んだ。牛馬は驚いて走り出し、互いに跳ねて踏み合うものもあった。城郭、倉庫、門や櫓、高楼の壁は崩れ落ち、倒壊するものが数知れなかった。海岸では大きな吼えるような声がして、その音は雷鳴のようだった。巨大な浪が涌き上がり川に溢れ遡り、あっという間に(多賀)城下にやってきた。海から相当な距離があるのか、白々とした水はどこが果てかも分からないほどだった。原野や道路はあっという間に青い大海原になり、船に乗る余裕もなく、山に登ることもできなかった。溺死者は約千人に上った。資産、野菜の苗、穀物(稲)は殆ど何も残らなかった。

 

カテゴリ一覧

ページトップへ

この記事のレビュー ☆☆☆☆☆ (0)

レビューはありません。

レビューを投稿