平安時代東海道、走って渡る鳴海潟(尾張国)
尾張国鳴海から熱田間は平安・鎌倉時代にはまだ陸地ではなく潟であった。陸地伝いに行く道はあったが干潮時に砂浜を直線的に渡った方が距離が短縮されるので、この近道が多くの場合利用された。熱田は古くからの港で式内社である熱田社を中心とする集落があった。
タイトル画像はもうすぐ潮が満ちるので、慌てて鳴海潟を走る人々の想像図である。下に現在の名古屋市南部に当たる、平安時代の推定地形(満潮時)模式図を示している。模式図中には目印となる寺社が多数記入されているが、熱田社以外は殆ど鎌倉時代以降の創建である。古鳴海と熱田の中間に松炬島(現代の笠寺台地)があり、この島を経由し熱田に至る街道を鎌倉時代には浜街道(A)と呼んでいた。一方松炬島から北上し井戸田に向かう道もあった。
このルートを利用するためには干潮の時間帯を利用する必要があるが、当時、一般の旅人は潮汐情報に通じてはいないので、もし潮が満ちていれば、そこで潮待ちするか、遠回りでも陸路(B)を行くしかなかった。
更級日記の一行が、現在の古鳴海に到着した時、まだ陽は高かったと思われるが既に潮は満ち始めていた。その場所で宿泊するのは時間的に中途半端だし、急ぎ潟を渡ることになったようだ。この場合、熱田ではなく井戸田に向かう選択肢もあったはずだが、おそらく熱田に向かった。この数日一行は野営が続きまともな所には宿泊していない。もし古鳴海で宿泊すれば翌日、熱田は素通りとなる。つまり、この日はどうしても熱田に泊まりたかったのではないかと思われる。
平安時代東海道(名古屋市南部)推定コース
タイトル画像に見るように、平安時代、二村山を経て現在の豊明市から名古屋市に出てくると、そこには海が広がっていた。鳴海浦とか鳴海潟と呼ばれ満潮時には海となるが干潮時には洲となり歩くことが出来た。平安、鎌倉時代にはここを通過するルートとして干潮時は松炬島を経て熱田神宮か井戸田方面に向かった(Aコース)。一方満潮時には遠回りにはなるが入海の岸伝いに井戸田向かった(Bコース)。松炬島は現在の笠寺台地である。
下図には目印となる寺社が多数記入してあるが多くは鎌倉時代以降の創建で平安時代中期に存在したものは熱田社だけである。
図引用:『平安鎌倉古道』(尾藤卓男)p.255(中日出版社)
名古屋市南部地質図
茶色で示した部分が台地で地盤がしっかりしている部分である。平安時代東海道は赤線で示した台地をまたぐ形で設けられている。この線がおそらく当時の干潮時の汀線であろう。
図引用:大矢雅彦『開発と平野』、掲載図の一部に編集。
明治24年測図地形図(熱田町5万分の一)に見る名古屋南部
明治24年の地形図には陸化、干拓が進み、海面は全く後退している。しかし、かつての水面は水田となり、かろうじて原地形の痕跡をとどめている。
現代の地形図に見る名古屋南部
現代の地形図には古地形の痕跡は全く認められない。完全に市街地化して、歩く場合は、古い寺社を目印に現地確認するしかない。