更級日記の東海道の旅をもとに平安時代の古地形や文献で平安時代日本を再現
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二村から熱田に向かう平安・鎌倉街道

  この区間の考証は尾藤卓夫『平安鎌倉街道』に加え、池田誠一『なごやの鎌倉街道をさがす』を参考にさせていただいた。この区間は尾藤氏により踏査されているが、記述からすでに半世紀を経て、その間の地形、街並みの変化は著しく古道の痕跡どころか目印となる施設、祠、寺社すら消滅している箇所がある。
本稿の関連地形図(明治24年測図五万分の一地形図、熱田町)はこちら


(1)二村から古鳴海まで


二村宿営地(皿池か)→二村峠(地蔵尊)→濁池→聖観音(おひじりさま)→
(大清水第二公園)→(義経鎧掛松)→(八ツ尾八幡社)八ツ松と蔵王権現→
扇川→諏訪神社(熊野神社)→浄蓮寺→宿地→新海池→古鳴海

 
皿池と推定される二村駅家跡を出て二村山に向かう。しかし山には登らず、二村峠で山を下り濁池に向かう。峠には建久元年(1190年)10月源頼朝が上洛の途上通過し、次の歌を残した。

よそに見しをささが上の白露を たもとにかくるふたむらの山 源頼朝 (続古今和歌集)

<現地案内板>
源頼朝がこの地を通ったのは建久元年(1190)十月、露の季節であった。初めての出京に歌枕として名高い二村山は印象に深かったと思われる。珍しく頼朝の詠歌として続古今和歌集に残っている。この時の上洛で後白河法皇、後鳥羽天皇に拝謁して、右近衛の大将に任ぜられた。豊明市観光協会

 



峠を下ると濁池に至る。上記図面は現地の豊明市都市計画説明版である(推定平安古道追記)。この池は鎌倉時代にはまだ池ではなく谷間であったという(『なごやの鎌倉街道をさがす』p.118)。この池は大正9年測図二.五万分の一地形図によれば南側に水田があり、池の南側をふさいで灌漑用ため池としたことがわかる。尾藤氏は街道は池の北側の山沿いを迂回していると考えているが、池田氏は池の南側を直線的に通過する道筋を考えている。おそらく古くは雨の季節にも水没することのない山側コースを選んでいたが、時代とともに築堤技術が進み、堤沿いの道が安定し南側に街道が変更になったのだろう。
池を過ぎ八ツ松の丘陵に上がる道沿いに聖観音(おひじり様)という石仏(天保7年)があったが、道路改修の際に現在の位置に移されている。
 
ここから道は大清水第二公園の中をつっきり丘の上の道を八ツ尾八幡社に向かって歩く。尾藤氏は蔵王権現を通過点としているが、現在その名の社はない。このあたりは標高42mで丘のほぼ最高所に近い。この一帯にはかつて形の良い松があり、そのことから八ツ松という地名がついたといわれる。さらに史実ではないだろうが義経がこの地を通過したとき、鎧を懸けた松があったといわれる(義経鎧掛松)。蔵王権現は現在八ツ尾八幡社に合祀されていた。八ツ尾八幡社に隣接する八ツ松公園の東側に蔵王ビレッジというテラスハウスがあるが、蔵王権現の故地に因んだものなのだろうか?

 
街道はこのあたりから丘を下り扇川を渡って県道36号線の鴻仏目の交差点に出る。かつてはこの辺に水車があったらしいが、水車どころか、かつての水路も直線状に改修変更されている。八ツ松から扇川に至る一帯は、土地開発により過去の道路は完全に失われ、古道を辿ることはできない。

県道を西に約1kmたどると諏訪神社前に出る。
 
尾藤氏の著書にある庚申堂はここから東に150mほど戻った脇道の入り口にある喫茶”菊”の隣にある。諏訪社には熊野神社が合祀されている。この神社の約300m西に浄蓮寺がある。

 
この寺がある相原郷は、丘陵の端にあり、平安・鎌倉街道は諏訪社境内を通り抜け、浄蓮寺裏の路地を丘陵の縁を等高線沿いに北上するように新海池に向かう。

新海池は江戸時代に作られた灌漑用の池でそれ以前には谷間であった。江戸時代には古道は新海池の西側を通っていたと伝えられているようだが、尾藤氏によれば源頼朝は東側を通過したという。平安・鎌倉の古い時代にはなるべく低地を通らないという原則から東側コースを取ったものと思われる。現在宅地開発で丘陵は完全に住宅地化しているので、古道の痕跡はない。古道を現代の地図にプロットすれば、おおよそ次のようなコースとなる。浄蓮寺裏から作の山公園→朝日出公園→豊藤稲荷下→新海池東を経由し池上台信号に出る。そこから新海池の北岸に沿って、嫁が茶屋、鳴海製陶構内、長根台小学校を経て古鳴海に達する。
 
目ざすところは古鳴海公園である。この辺りに船着き場があったという。多くの旅人は舟を利用せず干潮時に歩いて熱田に向かった。



<関連寺社・目印>

二村峠:愛知県豊明市沓掛町皿池上・峠前

濁池:愛知県豊明市間米町峠下

聖観世音菩薩の石仏(おひじり様):愛知県名古屋市緑区大清水5-1312先


(大清水第二公園):

八ツ尾八幡社:愛知県名古屋市緑区鳴海町八ツ松1-934

蔵王権現社:上記八幡社に合祀

庚申堂:愛知県名古屋市緑区相原郷1-2415 喫茶菊隣

諏訪社(熊野神社):愛知県名古屋市緑区相原郷1-1706

浄蓮寺:愛知県名古屋市緑区相原郷1-302

新海池:

(鳴海製陶㈱):愛知県名古屋市緑区鳴海町字伝治山3

(長根台小学校):愛知県名古屋市緑区古鳴海2-161-1

古鳴海公園:名古屋市緑区古鳴海1丁目



(2)古鳴海から熱田宮


  古鳴海から熱田までは基本的に海岸の砂浜を歩く。そこは潮の干満により通行できる時間帯が制約される。満潮で通行できない場合には、距離は長くなるが古鳴海から北上し鳴海潟を迂回する道もあった。しかし更級日記をはじめ鎌倉時代の紀行文はすべて浜道(浜海道)を経由しているので、その浜海道について述べる。鳴海の集落は元々鎌倉街道沿いの古鳴海にあったが、安土桃山時代の頃から近世東海道沿いに移転して、それが現在の鳴海の町になったのだという(池田誠一『なごやの鎌倉街道をさがす』p.117)。つまり、近世東海道は江戸幕府、開府以後に建設されたのではなく、それ以前から徐々にその原型となる道路はできつつあったことがわかる。

古鳴海と熱田の間(約4.5㎞)には既に述べたように鎌倉時代以前には松炬(まつこ)島があり、全区間が潮の満ちる浜道であったわけではない(『平安時代東海道、走って渡る鳴海潟』参照)、地図中に薄茶色で松炬島の輪郭を示している。

古鳴海→(2㎞)→村上神社→(松炬島 1.3㎞)→白毫寺→(1.2㎞)→熱田社

鳴海(現在の古鳴海)で満潮を迎えたら陸路を行くか、そこで宿営するしかない。更級日記では、浜海道を通過する際、浜に着いたときは既に潮が満ち始めていた。この作品で最もドラマチックな部分である。

『尾張國、鳴海浦を過ぐるに、夕汐たゞ満ちに満ちて、今宵宿らむも、中間に汐満ち來なば、こゝをも過ぎじと、あるかぎり走りまどひ過ぎぬ』

(現代語訳)

尾張、鳴海の浦を過ぎる際に、夕潮はただ満ちるばかりで、「今夜(熱田に)泊まろうにも途中で潮が満ちてしまったら、ここ(鳴海)すら通過できないぞ」、と力の限り大慌てで走り過ぎた。
古鳴海と松炬島の間の鳴海潟は風光明媚で万葉時代から年魚千(あゆち)潟とも呼ばれていた。村上社にはそれを詠んだ高市黒人の歌碑がある。
 

村上社のクスノキ(現地案内板)
 クスノキはクスノキ科の常緑高木で、関東以南から台湾、中国、東南アジアまで広く分布している。
 この樹は根回り約13.2メートル、地上1.5メートルの幹回り約10.8メートル、樹高約20メートル、南北約20メートル、樹齢約千年といわれ、樹勢なお旺盛である。市内ではその巨大さと根張りにおいて屈指のものであり、昭和62年名古屋市天然記念物に指定された。名古屋市教育委員会



松炬島には村上社がある辺りに上陸して、白毫寺の辺りから再び浜に下りて熱田まで走る。二つの寺社は平安時代にはたぶん存在しなかった。現在の松炬島は低い丘陵でかつて海に囲まれていたことを思わせるものはない。
 
一行はひたすら走った。この古鳴海-熱田区間をおそらく最大1時間20分くらいで駆け抜けたと思われる。熱田半島に着いたとき水深は既に30cm近くになっていただろうか。いやはや、大変な旅であった。
 

浜海道における潮の干満に関する疑問

一つの疑問だが熱田に着いたとき水深30cmは通行するには危険すぎるレベルである。作者らが鳴海の海岸に着いたとき、既に潮が満ち始めていたというのだが、これは誇張ではないだろうか。本当は「もうすぐ満ち始めるよ」と言われたのではないか。


あるいは別解釈として「鳴海の浦を過ぐるに」は鳴海の集落ではなく”浜海道を過ぐるに”という意味であり、潮が満ちに満ちてきたのは松炬島から浜に下りた時の事だとも考えられる。そうすれば浜を走る時間は20分程度である。この場合潮の深さはくるぶし程度だろう。





<関連寺社>

村上神社:愛知県名古屋市南区楠町17

白毫寺:愛知県名古屋市南区岩戸町7-19

熱田神宮:愛知県名古屋市熱田区神宮1丁目1-1

 

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