更級日記の東海道の旅をもとに平安時代の古地形や文献で平安時代日本を再現
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竹芝寺から西富にはどのような経路をたどったか?

鎌倉街道下ノ道の原道が平安時代東海道



竹芝寺の次に現れる地名は『にしとみ』である。にしとみ比定候補地は二つある。現在の藤沢市の西富と箱根山中とする説である。「にしとみ」の次に「もろこしが原」を通るので、後者は論外である。これにも異論があるが、あとで言及する。



 さて、竹芝寺のある、東京都港区三田から相模、西富(藤沢市)にいたる経路は四つ考えられる。




  • a.延喜式に見られる平安時代の古代東海道(駅路)

  • b.中世中原街道

  • c.近世(江戸時代)東海道

  • d.鎌倉街道下ノ道


 

距離的には駅を結ぶ古代東海道がもっとも道のりが長い。この時代、東国では駅制はほとんど機能していなかったと考えられるので、何のサービスも期待できないのに、距離が長いそのような経路をたどるとは考えられない。常識的に相模に出るだけならb.の中原街道がもっとも可能性が高い。中原街道が平安中期までさかのぼれるかが問題だが、たぶん可能だろう。この道はかなりしっかりした道らしく、徳川家康の江戸入府の際にもこの道をたどっている。ところが困った問題は相模の入り口、西富の位置がまさに近世の藤沢宿であることである。ここに出てくるには近世東海道をたどらなければならない。cの近世東海道はもちろん平安時代にさかのぼることは出来ない。多摩川デルタは現代より大きく内陸に入り込んでいたから、しっかりした道はなかった。現在のJR川崎駅はまだ海の中である。

したがって当時、中原街道を通らず相模国に出るには、丸子で渡河し、現在の上小田中辺りから南下し、駒林、片倉、帷子(かたびら)を経て、太田から蒔田(当時のあすだ?)に渡り、弘明寺にいたるというコースが考えられる(dの後の鎌倉街道下ノ道)。これは後で述べる武内説である。このコースでは険しくはないが丘陵を二つ越えなければならない。弘明寺から藤沢も相武国境の丘陵の尾根道(七里堀)を越えなければならない。現代は住宅が立ち並ぶ、たいした丘ではないが、当時の道、車の構造を想像すれば車は使えなかったであろう。輸送は馬と人の背によるほかなかった。

  具体的には次のような経路を暫定仮説として提示する。

竹芝ー丸子ー弘明寺ー藤沢(西富)

竹芝ー丸子間は中原街道、丸子ー弘明寺は鎌倉街道下ノ道原道、 弘明寺ー西富間は大化改新以前から存在したという郷戸道を経由する。

※写真は鎌倉街道下ノ道、七里堀(横浜市)から大船方面に下る途中。一部にはまだ鎌倉街道の面影がわずかに残っている。

 

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