平安時代東海道に蒲原(かんばら)駅家と息津(おきつ)駅家を探る
更級日記一行は永倉(長倉)駅家跡地に宿営したのち富士川を渡河し清見の関に向かう。 この時の宿営地も旧駅家跡地が有力候補になる。倭名類聚抄によれば蒲原、息津駅が示されている。
平安時代東海道、蒲原駅
律令時代、東海道駿河路、駿河郡には三つの駅家(横走、永倉、柏原)があった。 駅家は平安時代前期までに多くが廃絶したが、駅家の敷地そのものは宿営地として利用され続けたことは想像に難くない。 駅家の位置は平安時代東海道のルートを知るために重要である。蒲原駅は長倉(永倉)駅の西に位置する。
近世東海道の蒲原宿(現在の静岡市清水区)は富士川西岸にあるが、 平安時代には西岸から東岸に移転したことが記録に残されている(『三代実録』貞観6年864年)。 その経緯は民の負担を減らすため蒲原駅と永倉駅の間にあった柏原駅を廃止し蒲原駅を富士川東岸に移転して息津駅ー蒲原駅ー永倉駅の距離を均等化したというものである。移転後の蒲原駅が現在の富知六所浅間神社あたりと考えれば駅間距離は20㎞強となり標準距離16㎞より長いが、殆ど起伏がないので許容の範囲内である。『三代実録』文献解説は古代日本の交通路Ⅰ、p.142(藤岡謙二郎編、大明社、昭和53年)に詳しい(更級資料室『蒲原駅と富士川の渡河』に収録)。
距離的に永倉、息津駅からほぼ等距離の位置には富士の宮(現在の富知六所浅間神社)がある。 富知六所浅間神社は式内社であるから平安初期には存在した。 この神社の周辺には東平(ひがしだいら)遺跡、三日市廃寺跡等古代遺跡が多い。 つまり、このこの地域は奈良時代から平安時代前期に於いては交通の要衝であった可能性がある。 浅間神社より北に位置する東平遺跡は平安初期迄で終わっているというが、東海道が延暦の富士山噴火以降、 十里木峠経由から愛鷹山南麓迂回コースに変更になったことに関係があるかもしれない。交通集落は人の流れが変わればいとも簡単に衰亡する。
具体的な蒲原駅家の位置は存続期間が短かったこともあり、 現在の地名に痕跡を残しておらず推定困難である。浅間神社の西側には鎌倉時代以降であろうが市が立ち三日市と呼ばれていた。この場所は交通の要衝で水没しない平坦地という駅家の条件を備えている。
平安時代東海道、息津(おきつ)駅
富士川を渡った後、河口に沿って海岸沿いに進み山が海岸に迫ったところを通るので経路の大きな変化は考えられない。 息津駅は、おおむね安倍川を渡ったところにある江戸時代の東海道、興津宿の周辺と考えてよいだろう。
清見の関は興津宿から西へ約1㎞である。ここの地形は山が海に迫り関所には好適であるが、 駅家の立地には不適当である。現代の地形は埋め立て地を除外しても多少海岸との距離があるように見えるが、 これは江戸時代の安政地震により隆起した結果であると見られる。以上から 更級日記一行は息津駅家跡地に庵(テント)を張って宿営し、主人の孝標一家は清見寺か清見関にあった関屋に宿泊したのではないかと想像される。 この時期、清見の関は実際に関所として運用機能していたとは考えられないので 「関屋」というのは清見関(地名)にある宿泊施設と考えるのが適当である。 清見の関は東海道を通る身分の高い人たちが利用する当時の保養地であった可能性も考えられる。