更級日記の東海道の旅をもとに平安時代の古地形や文献で平安時代日本を再現
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「まつさと」の現在地はどこか?

「まつさと」の地理的探究はなされず語呂合わせのまま



「まつさと」の現在地について、すべての更級日記注釈書で現在の松戸市であるとされている。しかし根拠はなく、単に『まつさと』から『さ』が脱落して松戸になったのだろうと考えられているようである。一方、考古学者の間では『まつさと』=市川(国府台下)説がささやかれている(『古代末期の葛飾郡』崙書房p.202)。確かに実証的に考えれば松戸説にはかなりの無理がある。結論を言えば、『まつさと』は現在の市川市市川地区である。「まつさと」の実際の発音は「まつざと」であろうがそれから想像される土地は松里、つまり松原の中の里、集落である。国道14号を船橋市の方から東京に向かって進むと西船橋辺りから沿道にちらりほらり松の大木があるのに気づく。実はこの辺から、江戸川にぶつかるまで国道14号は市川砂洲という少し高くなった砂洲の上を走っており、この道筋は古代から変わらない。砂洲の上には松原があり、少なくとも戦前まで市川市の中心部は松原の中にあった。つまり景観から見ても市川が松里というにふさわしい。ちなみに市川市のシンボルツリーは黒松である。都市化が進んだ現在でも沿道の神社の境内や住宅の間にはかなりの松が残っている。

但し、現在残る松原の起源は確かなところでは、江戸時代に防風林として砂洲の周辺部に植林したものであるという。それ以前に市川砂洲上に松原が存在したかどうかは定かではない。植生的に自然林として松が生えていても不自然な環境ではないが、いま少しこれについては科学的検証が必要である。



 さて松里が松戸市であり得ないわけはいくつも上げられる。

①前泊地くろどの濱(船橋市本町)から松戸市まで時間的に車や荷駄を引き連れた行列が十分余裕をもって松戸の川岸に着くことは難しい。なぜなら、市川から松戸に向かうには下総国府のある国府台の丘に登り、松戸で下らなければならない。直線距離で約7kmの行程だが、今と違って国府台の坂は狭くてかなりきつかったので、かなりの労力が必要である(現在のなだらかで広いバス通りは明治20年頃、国府台が陸軍の駐屯地となったときに崖を開削して作られたものである)。川を渡るだけのために、そんな余計な移動をするとは考えにくい。市川に渡しが無かったとすれば別だが、そんなことはなかった。

②更級日記に真間の継橋を渡った形跡が無い。

 国道14号を上ってきて松戸に向かうには市川から北に向かい下総国府のある国府台という丘に登らなければならない。その手前には真間の手子奈が入水したという伝説のある真間の入り江が奈良時代には既に川になっていたが、これを渡らなければならない。そこには真間の継橋がかかっていた。160年後、源頼朝が上総から下総国府にやってきた時にその橋を渡ったことが、源平闘錚録(平家物語の異本)に記されている(講談社学術文庫)。菅原家の一行がやって来たときも当然、継橋があったであろう。もし更級日記の作者がそれを渡ったのなら、この有名な悲しい真間の手子奈伝説にまつわる真間の継橋のことを書かぬ訳はない。つまり作者は市川まで来て下総国府を通らなかったのである。

③松戸市から東京方面に向かう当時の道が明らかになっていない。

 松戸市の江戸川の沿岸部は河川の氾濫による湿地帯が多く昭和に至るまで治水対策に苦労している地域である。このため古代には沿岸部に人の集まる渡し場、もしくは市の立つような場所はでき難かったと思われる。平安時代に松戸から東京方面に向かう車が通れるような道はおそらくなかったと考える。



※江戸川は江戸時代初期の利根川東遷事業で大幅に水量は減った。更に大正期に掘られた荒川放水路により、東京低地の洪水の危険は大幅に減った。しかし、近年台風の大型化、発生数の増加により、過去に行われた治水対策では追い付かなくなってきている。 下の図は現代の東京低地のハザードマップである(2019.11.13日、日経新聞より)。これはまさに江戸期以前の東京低地の状態である。この図に江戸時代の江戸川の渡し場の位置を赤い〇で記入した。松戸渡し、矢切渡し(地元の百姓のための非公式渡し)、市川渡しの三つの渡しのうち洪水時水没しない渡しは市川渡しのみである。市川渡しは平安時代以前の井上駅である。ここには承和2年(836年)の太政官符により4艘の渡船を置くことが定められている。

大規模水害時、東京東部5区はほとんどが浸水するとされる

④「まつさと」あるいは「まつざと」は短縮形となっても「まつど」にはならず、「まさと」または「まざと」となると思われる。素人考えだがどうだろうか。

⑤『太井川の上が瀬』は松戸市を意味しない 太井川(現江戸川)の上流の瀬は起点をどこにするかで変わるので松戸市あたりを指すとは限らない。川幅が狭い場所を渡るために上流に回ったのではないかと考える人も居るようだが、徒歩渡りならいざ知らず、舟で渡る場合に川幅が10mや20m狭くても関係ない。むしろ浅瀬があると舟はそれを避けながら渡るのでかえって渡りにくい。その点、下流の方が水深が深く渡り易い。



ちなみに「まつど」の文献初出は嘉吉元年(1441)松戸市本土寺の過去帳に「マツト」として見られるという。同寺過去帳には以後、松戸、末渡、松渡として現われ「と」は「戸」あるい「渡し」を思わせる。ひょっとしたら松戸の意味は「馬の戸」つまり「馬の渡し場」が語源ではないだろうか?このあたりは奈良時代から馬の放牧場があり、その出荷のための渡しがあった、という想像も可能だろう。


大日本地名辞書に見る『マツト』の語源および、まつさと、松戸説の起源


古くから、まつさと=松戸説が言われてきたが、その出所を確認しておきたい。明治時代の出版になる吉田東吾著、大日本地名辞書、p.3266には、下総国東葛飾郡『馬津郷』に以下の説明がある。更級日記に登場する『まつさと』の現在地について松戸としたものは、この地名辞書の記述がもとになっている。しかし、以下の引用を見れば、それが根拠に乏しい、こじつけに近いものであることが明らかである。



<以下引用>

和名抄、葛飾郡駅家郷。延喜式、下総国駅馬、茜津、於賦、各十疋。〇原書駅家は、本郡に井上、茜津の二所なれば、二駅を挙ぐべきに其事なきは省筆に従へる也。又延喜式、茜津とあるは、蓋馬津の魯魚に出づ。茜、馬の筆画相疑似せり。其馬津は即後の松戸にして、古訓ウマトなるが、急呼して頭音ウを脱しマツトと為りしのみ。今もMattoと云ふは、原語の其文字の如く、マツドに非ざるを証す。また更級日記に見ゆる松里(マツノサト)も馬津郷にて、マツノサトとききひがめたるならん。


<現代語訳>

和名抄では葛飾郡駅家郷。延喜式では下総国の駅馬として茜津、於賦各十疋があげられている。

〇原書の駅家は本郡(東葛飾郡)には井上、茜津の二ケ所なので、その二駅を挙げるべきなのにそれがないのは、省略したのだろうか。又、延喜式に茜津とあるのは馬津の書き誤りではないだろうか。茜と馬の筆画はよく似ている。その馬津は後の松戸であって、古くはウマトであったが、早口でいうと頭のウが抜けてマットになったに過ぎない。今もMattoというのは原語の文字のようにマツドではないことを証明している。また更級日記に出てくる松里(マツノサト)も馬津郷でマツツノサトと聞き間違えたものであろう。


<引用終わり>

 

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この記事のレビュー ★★★★★ (1)

  • 2022/04/30 浜田@松戸 さん ★★★★★

    「上総からの帰京」

    松田太夫さん、お久しぶりです。更科日記に関しては、時として思わぬ考証に出会うものです。この度は、荒井秀規氏の『古代の東国③覚醒する<関東>平安時代』(吉川弘文館、2017年6月20日発行)の考証を紹介させて頂きます。同書の246~259頁には、「平安文学にさぐる<関東>」と題して「『更級日記』の世界」が書かれています。
     荒井氏は、「まつさとの渡りの津」について『異説もあるが、ひとまず千葉県松戸市としておこう。東海道の駅路を離れて、太井川の上流に向かうのは、家族・従者ふくめて数十人となろう大所帯が多くの荷物ともども川を渡るのには「まつさとの渡りの津」が渡河しやすかったからと考えられる。』と書いています。
     荒井氏は古代史の専門家であるとともに、文学史方面にも大変に造詣の深い方であることは、上書を読むとよく分かります。(「東海道の駅路を離れて」下総台地の松戸に向かうという「順路」は、「現地に住む」ものにとっては、「不可思議」としか思えないのですが、)同書には、竹芝寺の位置についての記述もありますので、松田太夫さんには興味深いものではないでしょうか。勝手ながら、ご紹介させて頂きました。それでは。
    2018/08/09 10:14

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