更級日記の東海道の旅をもとに平安時代の古地形や文献で平安時代日本を再現
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平安時代の「清見の関(きよみのせき)」はどんな場所か

平安時代の「清見の関」はどんな場所か



清見が関は崖が海に迫る清見潟(静岡県清水市)に律令時代に蝦夷の侵入を防ぐために設けられたといわれるが、平安時代中期にはその必要もなく廃止されていた筈である。にも拘わらず、更級日記に「きよみのせき」という言葉が出てくるのは清見潟の風景と、かつてあった清見関が一体となった形で歌枕として都人の記憶になっていたからだろうか。その場合、「関」といっても実際に関所があったという意味ではなく地名としての「清見の関」である。山口県「下関(しものせき)」は現在、関所がなくても下関と呼ばれる。

 



(1)清見の関の言葉上の解釈



「きよみのせきはかたつかたは海なるに関屋どもあまたありてうみまでくきぬきしたり」とある。従来の解釈によれば、「清見関は片側が海で関屋(検問所)がたくさんあって海まで柵をしてあった」である。この通りなら、何のための関所であろうか。この当時、交通検問が必要な事件はなかった筈だから、室町、戦国時代のように関銭を取っていたのだろうか。それは違法行為だし、仮に現地の役人が金品を強要しても通行する側にも武士がいるのだから、返り討ちにあっただろう。

結局、機能としての関所ではなく、「清見の関という場所には、多くの建物があり海に柱を立て横棒を通してその上に建物を張り出していました」と解釈するしかない。崖がせまった狭い場所なので潟の上に木組みを張出し建物を建てるしかない状況が見て取れる。

 では具体的には、その場所はどんな風景だったのだろうか。現在の清見寺を訪ねても往時の風景は何も残っていない。既にこの辺りは大規模な埋め立てが行われ、海側には高速道路(清新バイパス)、国道1号、JR線、流通団地があり往時をしのばせるものは何もない。



(2)清見潟の地理的景観の再現



多くの和歌に詠まれた清見潟のテーマは海、波、岩など磯の風景である。平安時代に近い2首の短歌を見てみよう。



庵原の浄見の崎の三保の浦 ゆたけきみつつ物思いもなし 上野守 田口益人(万葉集)

清見がた沖の岩こす白波に 光をかはす秋の夜の月 西行法師



この風景は現存しないが明治20年測量の5万分の一地形図と、幸運にも清見寺に残された清見寺に残された6枚の古写真から往時の風景を想像することができる。撮影年代は不明だが走っている機関車の形から明治時代には違いないだろう。写真では清見の崎(海に出っ張った部分)はそれほど海が迫っておらず、集落も結構大きい。しかし実はこの地域の海岸線は幕末の安政大地震(1854年)の後かなり隆起したそうである。おそらく江戸時代の東海道のラインが平安時代の満潮時の波打ち際ではなかったかと想像される。潟というのは干潮時には広大な砂浜が出現する。おそらく、そういう場所なら魚介、海藻など海産物が豊富である。しかもこの場所は東海道の隘路で、国司など富裕な旅行者が必ず通るので、いい商売ができる。だから海まで小屋を張り出して多くの商売屋が立ち並んで賑わっていたのである。そして清見寺も身分のある旅行者の宿泊所として機能し存続することが容易であった。まさにこの場所は、食よし、景色良し、交通よしの三拍子そろった平安時代の観光地であったから歌枕にも使われ都人の記憶に残ることになった。


(3)「くきぬきしたり」の考察


「くき」は草の茎というように植物の棒状の部分、幹、茎を指す。従って「くき」という言葉に「釘」という漢字を当てるのは適当でない。書くとすれば「茎貫き」である。「ぬき」は「貫く」の名詞形で「くきぬき」は柱に横棒を貫き通した「柵」とか「木組み」を指すと思われる。たとえば清水寺の舞台の床を支える木組みも「くきぬき」ではなかろうか。少なくとも「くぎぬき」と読んでは意味が変わってしまう。ちなみに「くきぬき」を小学館の古語辞典で引くと蜻蛉日記とこの更級日記の2例しかない。

清見潟、清見寺周辺の地形図

五万分の一地形図吉原町(陸軍参謀本部陸地測量部)明治20年測量、明治28年発行から一部切り出し。タイトル画像地図

清見寺から見た現代の清見潟の跡地

静岡県清水市の清見寺から南側の海を臨む。沖合まで埋め立てられ清見潟の痕跡はない。


 

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