更級日記の東海道の旅をもとに平安時代の古地形や文献で平安時代日本を再現
文字サイズ

清見寺古写真に見る昭和初期の清見潟とその周辺

静岡県清水市にある清見寺は、拝観者に配布されるしおり『清見寺略記』によれば律令時代に蝦夷の侵入を防ぐため東海道の隘路である清見が崎に清見関(きよみがせき)を設けた際、関所の鎮護として設けられた関寺が始まりと伝えられている。鎌倉時代中ごろ(弘長2年1262年)に関聖上人が清見寺を再興し、京都の東福寺開山の聖一国師を招き講堂の落成式を上げたことで現代に続く清見寺の基礎が定まった。再興なったこの寺は当初清見関寺(きよみがせきじ)と称していたが、その後足利尊氏の崇敬を得たことで、康永2年(1343年)には日本十刹の7位に叙せられ、利生塔の建立がなるなど、この地の名刹として現代に至っている。
現在清見寺の前の海岸は埋め立てられて昔の面影は全くない。ただ幸いなことに、まだ清見潟があった昭和初期の写真が残されていた。これにより平安時代の歌枕にもなった風光明媚な清見潟の姿を多少は想像することができる。
前ページに戻る


昭和初期と思われる古写真6葉

昭和初期の清見寺と清見潟
↑清見寺と清見潟の位置関係がよくわかる。清見潟は清見寺の沖に広がる。寺の下には集落が見えるがこれは安政大地震の結果隆起して陸地ができたためであり、それ以前は崖と海の間には狭い土地しかなかったと思われる。

昭和初期の清見潟
↑清見潟の沖から陸地側を見た写真。干潮時と思われ水底が見える。

昭和初期の清見潟と人々
↑清見潟にはこの写真にみられるような大岩があちこちにあり満潮時には波がこれに当たって砕け散ったのであろう。
清見がた沖の岩こす白波に 光をかはす秋の夜の月  西行法師


明治の清見潟と富士山
↑清見潟から北東方向に富士山が見える。

昭和初期の清見寺
↑現在の東海道本線の前身の鉄道が清見寺の下を走っていた。既に複線である

昭和初期の清見寺からの眺望
↑南西方向の三保の松原方面を見た眺望ではないだろうか。

平安時代の「清見の関(きよみのせき)」はどんな場所かに戻る

 

カテゴリ一覧

ページトップへ