更級日記の東海道の旅をもとに平安時代の古地形や文献で平安時代日本を再現
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平安時代における東京湾の海上交通

古代東京湾の名称は不明





 東京湾は平安時代どう呼ばれていたか不明である。不思議なことに江戸時代に至っても湾全体を指す名称はなかったらしい。平安時代までは湾内航路しかなかったと思われるので単に「海」としか呼ばれていなくても不思議はない。しかし鎌倉時代以降、東京湾外の地域からの航路が開け、太平洋と区別する意味でも東京湾を意味する呼称があったはずである。しかし、今のところ文献には発見されていない。船乗りたちがあまり文字を使う人たちでなかったこともあろうし、東京湾沿岸の住民にとっては「海」で十分だったので記録されなかったのかもしれない。


 古代において東海道が現在の横須賀市辺りから舟で浦賀水道を渡って上総に至った時代にはその海域を示す名称として日本武尊の東征伝説にみられる「馳水海」がある。しかし、それはあくまで現代の「浦賀水道」にあたる言葉である。





平安時代の東京湾内の航路





 平安時代の東京湾内の水運について書かれた文献は知らないが、ここでは活発な湾内交易がおこなわれたはずである。東京湾は湾口部を除けば瀬戸内海より波静かな静水面である。現在の東京湾の潮流に関しては「MIRC潮流予測」というサイトで公表されている。


同サイトでは潮流の速さを日時ごとに動画で表示している。東京湾の北半分は台風や低気圧、大潮がなければ常時0.5kn(093km/h)以下でたとえば上総から弘明寺までは南西に向かう緩い潮流があるだけである。この更級日記のサイトでは上総(市原市)から相模国、弘明寺(横浜市)まで物資の海上運搬があったのではないかと想定している。平安時代の上総の湊はおそらく養老川の河口、五井辺りであろうと思われるので、一番考えやすい航路は市原市五井から真西に向かい潮流で多少南に流されて、ちょうど多摩川河口に達する。そこから多摩川の流出による沿岸流に乗り陸沿いに南下すれば弘明寺のある洲干し湊に達する。行程は約60kmで手漕ぎでも朝、出発すれば明るいうちに到着できる距離である。もし東風があれば帆走してもっと到着は早くなるが、逆に西風なら少し苦労するだろう。


  以上のように天候が平穏な日を選べば、平安時代の脆弱な船でも重量物の輸送は容易であったと想像できる。


*ノット:毎時1海里(1852m/h)

 

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