更級日記の東海道の旅をもとに平安時代の古地形や文献で平安時代日本を再現
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上総から帰って住んだ京都三条の菅原邸は現在の住所でどこか?

京都三条という菅原邸の位置を推測



 さて菅原一家が帰り着いた京都三条の家は庭木の手入れもされず都の内とも思えぬほど草木が生い茂っていたといいますが、それはどこなのでしょう?これについては角田文衛博士が詳細な考証を行い、三条天皇の譲位後の住まいで、亡くなった後、売リに出された旧三条院であったと結論付けています(「王朝の映像」p.431、東京堂出版)。これは1町四方のかなりの豪邸ですが、上総での受領の収益をもってすれば、それ程無理な買い物ではなかったということを示しています。京に入る前に粟津で逗留したのは、家探しのためだったということになります。その場所は、今の住居表示では中京区仲保利町塗師屋町から船屋町西部あたりということです。このことから、家の所有者は当然、孝標ということになります。この家に孝標は妻子と共に暮らすわけですから、現代と変わらぬ家庭生活といえます。


 

 角田博士の考証は実に緻密で、さすが学究の仕事と思わせるものです。要点を紹介しておきましょう。

 「更級日記」中には手がかりが二箇所あります。


 


  1. 『いと暗くなりて、三条の宮の西なるところに着きぬ。』

  2. 『春ごとに、この一品の宮をながめやりつつ、咲くと待ち散りぬと嘆く春はただ わが宿がほに花を見るかな』



 定家の注によれば、当時三条の宮とは一条天皇の第一皇女一品脩子(しゅうし)内親王のことであり、その住まいは竹三条の宮と呼ばれていました。『小右記』にも三条の宮の竣工と内親王の引越しの記事(長和2年2月27日)があります。この三条の宮の位置については言及がありませんが、『御堂関白記』に見える火災記事(長和5年8月28日)により、押小路南、東洞院東にあったことが分かるということです。蛇足ですが三条の宮は3年半で焼亡したことになり、莫大な費用をかけて造営しただろうに、もったいないことです。



 2の意味は、「春になるたびに、お隣の一品の宮を眺めながら、『まだ咲かないかな、もう散ってしまったのと一喜一憂する春にはただ、自分の家の桜のように花ばかり見ているんですよ』」

 この歌から、隣が一品の宮邸であったことが分かります。この一品の宮とは誰かというと、三条天皇の第三皇女禎子内親王(母、道長次女)でのちに後三条天皇の生母で陽明門院と称される方です。この宮は作者が桜を見ていた当時は、一条院に住まわれて、後、陽明門院となられてから住まわれたようです。しかし、既に内親王の財産として管理されていたと思われます。陽明門院邸の位置は『百錬抄』にある承暦4年の火災記事(1080)に三条坊門、室町と記してあることから推定できます(三条三坊十町)。禎子内親王が一品に序せられたのは治安3年(1023)であり作者が隣家の桜を愛でていたとき(治安2年)には、まだ無品でそこには住まわれていませんでした。にもかかわらず、一品の宮と書いているのは後年、少女時代の記憶をたどって書いているため、多少混乱しているためです。

 いずれにせよ孝標一家が京都で落ち着いた家は東隣が脩子内親王邸、西隣が禎子内親王邸ということになり、そこは三条天皇の退位後の住まい、旧三条院なのです。三条天皇は寛仁元年に亡くなられていたので、空家を放って置くわけにも行かず売りに出されたのでしょう。元々広大な屋敷で、3、4年も主がない状態が続けば庭木が森のようになっていたことは想像に難くありません。

 

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