更級日記の東海道の旅をもとに平安時代の古地形や文献で平安時代日本を再現
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平安時代の遊女(あそび)とは

「遊び」はプロの芸人



 更級日記には相模の国、足柄山の麓で出会った三人の『あそび』について印象深く書かれている。 更級日記の中でも、この段は冒頭の『吾妻路のはて』と並び、高校の学習参考書にも取り上げられることが多いので、若い世代にもなじみがあるのではないだろうか。

 後世、『遊女(ゆうじょ)』と言えば、売春を主たる業(なりわい)とする女性たちの事だが、平安時代のそれは何であったか、いろいろと議論がされている。

結論を言えば、平安時代の『あそび』は近世の遊女とはかなり異なる。 「あそび」について語った平安時代の同時代和文文献は更級日記の他に、江口の「遊び」に言及した『栄花物語』がある。 男性の視点で漢文で書かれたものとして、大江以言の『見遊女』(『本朝文粋』所収)、大江匡房の『遊女記』、『傀儡子記』(以上『朝野群載』所収)の三篇の同時代文献がある。これによれば足柄、関本に現われた『あそび』は『くぐつ』呼ばれる非定住流浪民の一員であると考えられている。

『遊び』とは芸を生業(なりわい)とする女性たちと言い切って良い。更級日記の中で彼らは類(たぐい)まれな歌唱で子供であった作者をも感動させている。『髪いと長く、額いとよくかかりて、色白くきたなげなくて…』と形容される二十歳位の美貌の歌手といえば、筆者なら若き日の岩崎宏美を思い浮かべる。

 この『遊び』の年長者である五十歳ほどの女性は『昔、こはたと言ひけむが孫』と自己紹介しているように、素人芸ではなく、ちゃんと家業として歌唱、芸の訓練を受け、芸を継承してきたプロであると宣言している。つまり、『遊び』とは歌唱を演ずるプロの芸人(つまり歌手)というのが正解に近い。

 現代では遊女というと売春婦を連想してしまうが、そもそも平安時代に「売春」という概念があったかすら疑わしい。もちろん『遊び』たちが夜のお相手をしたこともあったかもしれないが、それは当時の女性であれば誰でもそういう可能性はあった。夫婦関係に固定的で倫理的な観念が持ち込まれるのは鎌倉時代、武家社会以後の話である。そのため現代人には源氏物語の世界の男女関係には理解できない部分が多い。不倫、強姦ですら「いい事」ではなかったにしても犯罪とは言えなかった。まして夫のいない女性が男と一時の関係を持ったとしても「何が問題?」という程度ではないだろうか。

 平安時代のように日本列島にたった600万人しかいない人口希薄な時代にあっては、血縁関係のない適齢期の男女が遭遇する機会は非常に少なかった。そこで、いきさつはともあれ、できた子供は授かりものとして大切に育てられた。男女関係が問題にされたのは血統や財産相続が問題になる皇族、貴族など人口のほんの一部である。「こはた」という「遊び」もおそらくは、一夜の夫で子を授かり、女の子が生まれれば芸を仕込んで、自分が習得した芸能を伝承させていったのだ。彼らにとって国司帰任の旅は、国司夫人を始め女性を伴うものであったため乱暴される心配がなく、ご祝儀もはずんでもらえる上客でもあり、持てる精一杯の芸を披露できるはれの舞台であった。

 いずれにしても、漆黒の足柄山中で開かれた、焚火の照明しかないアカペラの屋外ライブは大成功で人々を泣かせるほど感動的なものであった。『飽かず覚ゆ(もっと聞いていたい)』と言わせるほどの歌唱力とはどれほどのものであったか、読者にも想像をめぐらしていただきたい。

 さて公演が終り三人の『あそび』が真っ暗な山中に戻ってゆく姿を更級作者は不安と同情ともつかぬ気持で見送っているが、実は心配ご無用。物陰から遠巻きに見守っていた『くぐつ』仲間に守られて、そう離れていない彼らの宿営地に戻って行ったのである。

 

 

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