更級日記の東海道の旅をもとに平安時代の古地形や文献で平安時代日本を再現
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扶桑略記における孝標中傷記事の検証

藤原道長は治安3年(1023年)10月17日に多くの貴族達を伴い、南都、吉野方面の寺社巡拝の旅に出かけます。十大寺をはじめ金剛峯寺まで沿道の吉野の諸寺を訪れます。東大寺、興福寺、元興寺、大安寺、法蓮寺、山田寺、本元興寺、橘寺、龍門寺、高野政所、金剛峯寺、法隆寺、道明寺、天王寺を巡り11月1日に帰京しています。この旅の記録は扶桑略記に残されました。

19日には吉野にある深山幽谷の気配漂う龍門寺を訪れています。
菅原孝標の人物像を語る際にこの時の扶桑略記の記事が取り上げられ、漢籍の才がなく空気も読めない凡愚の人物と評される決定的証拠として定着しました。しかし、そのような評価を下した他の同時代文献はなく、現代で流布されている孝標像はほとんど扶桑略記の2次資料に依っていると思われます。ここでは、改めて扶桑略記の原史料を以下の点に留意して読んでみましょう。


この文の作者はどんな人物か。内容は菅原孝標に対する悪意に満ちていないか。そもそも、何のために孝標に言及したのかなど。



(1)南都吉野巡拝記の作者


この記録を書いた人物は明らかに漢学者です。風景、寺社の形容は流麗(大げさ)で対句を多用し中身よりも文の体裁を第一に書かれています。このようなことができるのは、平安時代中期には漢学を家業とする者に限ります。一般貴族なら、孝標を前上総介というところをわざわざ前総州刺史などと漢風の職名で呼んでいます。更に地方官とは言え、大国の国司を務めた者を孝標朝臣とも呼ばず呼び捨てにしています。このことから、作者は正五位以上で菅原家以外の儒家であると推測されます。


(2)菅原孝標に対する露骨な敵意


孝標のことを折桂之身と為っている(文章生合格)のに、滄花之才がないとこき下ろしています。滄花之才について更級日記研究者の池田利夫氏は意味不明とされていますが、要するに美しい漢文を書く才能がないと言いたいのでしょう。さらに孝標が仮名で道真の文に添え書きをしたことを心無い落書き扱いし、壁粉で消したといっています。最後に孝標のことを皮肉を込めて、この儒胤成業之者は下手な詩文を道真公の真筆の脇に書き並べ、みんなはこれを嘲けり笑ったと伝えています。以上は事実を伝えるというより、明らかな個人攻撃です。



(3)孝標添え書き事件の真相


孝標が添え書きした理由は、おそらく平安中期に漢文能力を失っていた貴族仲間のために、菅原家に伝わっていた正しい読み下し文をサービス精神で書いたのではないでしょうか。いくら道真公の妙句であろうと読めなくては仕方ありません。添え書きなしで感嘆できるのは漢学の専門家です。平安時代の貴族の多くは漢文で日記を書いていましたが、それは擬漢文で、道真公が書いていたような正統唐語ではないのです。まして詩文の良しあしは一般貴族にわかるわけがありません。従って孝標が道真の神筆の脇に書いた文を下手だと評価できる者は居たとしても、この記事を書いた漢学者しかありません。つまり衆人が孝標を嘲るということはあり得ず、嘲ったのはこの漢学者一人でしょう。

では、なぜこの漢学者はそこまで、孝標を貶めるのでしょうか。それは学者の嫉妬です。漢学者はこの龍門寺で道長をはじめお歴々の前で漢文解釈しようと内心期待していたのに、孝標にお株を奪われ頭にきたのです。それに学者の家なのに受領に転進して、上総で財を成し豪邸に住み経済的にも羽振りがよかった孝標のことが妬ましかった。学者の家は直幹申文でも述べたように経済的には貧しいのが普通です。


とはいえ、この漢学者はそれを口に出して、孝標と事を構える勇気はなく、その代わり、殆ど誰も見ない巡拝記録に、さりげなくなく書き込み、後世、孝標を笑い者にしてやろうと企みます。この観点から『各妙句を詠み、徘徊去り難し』を読み直すと、この漢学者は人が立ち去るまで、そこにうろうろしていて、人がいなくなってから、こっそり孝標が書いた添え書きを壁粉で消したと推測されます。

現代の人達はまんまとその企みに引っ掛かり、孝標を凡愚だと決めつけています。しかも杉本苑子さんは『更級日記を旅しよう』でこの事件を取り上げ、原文にもない、『道長はじめ公卿、殿上人の失笑を買った』と話を盛っています。実際には、『さすが、上総前司殿、道真公のご子孫じゃ』と並みいる人に感心されたのではないでしょうか。



以下、巡拝記のうち龍門寺の部分を書き下して見ました。風景事物の形容は浅学のためよくわからないところが多いのですが、孝標に対する悪口、非難部分には関係ありませんのでご容赦ください。原文はこちらです。扶桑略記 p.277 国史大系12(吉川弘文館)


藤原道長、南都、吉野巡遊(扶桑略記)(書き下し)



治安3年10月19日(1023年12月10日グレゴリオ暦)



山田寺の堂塔を覧るに堂中奇偉荘厳を以て言語云黙し心眼及ばず。御馬一疋権大僧都都扶公に給ふ。次いで本元興寺に御す。(中略)
次いで漸く晩頭に向かい、龍門寺に次(と)まる。時に仙洞雲深し。峡天日暮れ青苔厳尖す。曝布泉飛ぶ。其の勝絶を見て殆ど帰るを忘れむと欲す。礼仏の後、上房に留宿す。霜鐘の声屡驚き、露枕の夢結び難し。昔、宇多法皇卅一字を仙室に於いて詠む。今、禅定相国仏台に於いて五千燈に挑む。今を以て古を思ふ。随喜猶前に同じ。岫下方丈の室有り。之を謂う仙房と。大伴安曇両仙の處其の碑有り。菅丞相、都良香之眞跡、両扉に書けり。白玉之匣を盈すが如く紅錦之機在り。各妙句を詠み、徘徊去り難し。前総州刺史孝標は菅家末葉也。折桂之身に為ると雖も、敢えて滄花之才に非ず。假手之文を以て神筆之上に添え書きす。其の無心を悪み壁粉を以て消す。其の外に儒胤成業之者又拙草を並ぶ。衆人之を嘲る。


<現代語訳>


山田寺の堂塔拝観では堂の中が見たこともなくあまりの荘厳さに言葉も出ず判断力が働かなくなった。御馬一疋を権僧都都扶公に給わった。次に本元興寺(飛鳥寺)に足をお止めになった。(中略)


そろそろ日も傾きかかった頃、龍門寺に着いた。時刻的に仙洞(神仙の山)に雲が深くなり渓谷の空も暮れかかり、青い苔は黒く光っていた。瀧からは水がほとばしり飛び、その絶景には立ち去りがたい思いがあった。仏さまを拝んだ後、上房に宿泊する。夕暮れの鐘が何度も響き、旅寝の夢も見れそうにない。


昔、宇多法皇は卅一文字(和歌)を仙室で詠まれたそうだが、今、禅定相国(藤原道長)様は佛台の前で五千燈に挑まれた。今行われていることで古の事を想像すると、その感激は今も同じである。岫(洞穴)の下に方丈の部屋がある。これを仙房というそうだ。大伴安曇という二人の仙人がいたところに其の碑がある。菅丞相(菅原道真)、都良香の真筆が扉の両方に書かれている。白玉(真珠?)が箱からあふれるように、紅い錦を織る機(はた)がある。それぞれ妙句を詠んでいるので、その前を行ったり来たり、去り難かった。前の上総の介、菅原孝標は菅原家の子孫である。学者の家の者だが、滄花之才はないようだ。仮名の文で(道真の)神筆の上に添え書きをしてしまった。心無いことをすると壁粉で消した。その外にこの儒者の家の成業者(孝標のこと)はつまらない文句を書き並べた。人々はこれを笑った。

 

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