更級日記の東海道の旅をもとに平安時代の古地形や文献で平安時代日本を再現
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更級日記、宮路山の段に残る壬申の乱の記憶

更級日記の一行は三河の宮路山を通過した。その時、作者は次の歌を詠んだ。

嵐こそ吹き来ざりけれ宮路山 まだもみぢ葉の散らで残れる

現代人には、風景を描写しただけの歌に見えるが、当時の貴族なら日本史上の大事件『壬申の乱』(672年)を思い浮かべたのではないだろうか。既に大乱から350年を経ていたが、現代で言えば関ヶ原の合戦のようなもので、忘却されていた訳ではなかった。歌のポイントは『嵐こそ』の”こそ”にある。

これを踏まえて歌意をとると、

(怖れ多くて)嵐だって吹いて来ないのね(宮様のお通りになった)宮路山には! それで、まだもみぢの葉が散らないで残っているんだ



この理解につき、「いや、単に『宮ぢ』という言葉を受けているに過ぎない」という解釈も可能だろう。しかし、豊川市御津町から赤坂町に残る持統太上天皇の行幸に関する多くの伝承を考え合わせると、御幸は地元に晴れがましい慶事として伝えられ、宮路という地名もこの時に出来たものと考えられる。作者ら旅の一行も宮路山の由来を地元民から聞かされたのではないだろうか。


 
では宮様とは一体どなたであろうか。


持統太上天皇の三河行幸


続日本紀によれば大宝2年(702年)10月10日から11月25日の期間、持統太上天皇が伊賀、伊勢、美濃、尾張、三河に御幸された。夫、大海人皇子(天武天皇)とともに命を懸けて戦った壬申の乱の思い出を辿る旅であったといわれる。この御幸は歴史的事実である。しかし上記五ヶ国のうち壬申の乱の関係国は三河を除く四ヶ国である。なのに、持統太上天皇はなぜ三河国を訪れたのであろうか。これについては、諸説あるが想像の域を出ない。


正史が語らない草壁皇子


以下はサイト管理人の仮説である。

宮様とは持統上皇の息子、草壁皇子である。伝承によれば草壁皇子は、ここ赤坂の地に住まわれていた時期があったという。(※二葉松)。仮に草壁皇子が宮路山の麓、赤坂に居住していたのであれば、自分の愛する息子が幼い時期を過ごした場所を見てみたいというのは、母親として自然な感情ではないだろうか。自らも老い、波乱の人生に幕が下りようとする時、病弱で即位することなく母親に先だった息子への思慕から、無理をして三河迄やってきたのである。

日本書紀など正史は何も伝えないが、皇子は乱の前に三河の草鹿砥(くさかべ)氏に預けられ養育されていた可能性がある。皇子の通称は母の実家や、後見人となった氏族に因んでつけられることが多い。例えば大友皇子は当初、母方の氏に因んで伊賀皇子と呼ばれていたが、大津遷都に伴い大友氏との関係で大友皇子と称されるようになったという。であれば草壁皇子が何らかの理由で三河の草鹿砥(くさかべ)氏の後見を受けていたら、その縁で草壁皇子と呼ばれても当然である。

日本書紀によれば6月24日、壬申の乱勃発に際して、大海人皇子に従い鸕野讃良(後の持統天皇)と草壁皇子、忍壁皇子はともに吉野を脱出している。その後、27日大海人皇子は不破に向かったが鸕野讃良は桑名にとどまった。しかし二人の皇子の消息については言及されていない。この時、草壁皇子は父とともに東国に入り、不破の前線では危険なので、かつて預けられていた三河まで避難していたと考えることは可能だろう。大事な後継者なのだから。

草壁皇子が大海人皇子と行動を共にしていたことは以下の日本書紀の記事からも推察される。

壬申6月27日、大海人皇子は不破に入り野上に到った。ここで高市皇子と合流し今後の方針を協議した。『天皇、高市の皇子に謂りて曰ひしく、「それ近江の朝(みかど)には、左右の大臣、また智謀(さか)しき群臣、共に議(はかりごと)を定む。今朕、輿(とも)に事を計る者なし。ただ幼少(おさな)き孺子あるのみ。奈之何(いかに)かせむ」と宣りたまひき。皇子、臂を攘ひ、剱を按でて、「近江の群臣多しといへども、何ぞ敢えて天皇の霊(みたま)に逆はめや。天皇は独りのみといへども、臣、高市、神祇の霊に頼(よ)り、天皇の命を請けて、諸将を引き率て征討たば、あに距ぐものあらめや」と奏言しき』(以下略)読み下し文:日本書紀六、p.22日本古典全書(朝日新聞)

これは大海人皇子が大友皇子率いる近江朝と対決するための作戦を相談するにも、ここには小さな子供しかいない。高市よ頼んだぞ、という場面である。つまり草壁皇子など子供たちは、大海人皇子とともに野上の本営迄来ていた可能性が高い。


※)二葉松(ふたばのまつ)佐野知尭著(1740年刊)江戸時代の三河地方の地誌

原文は下から閲覧可能

https://websv.aichi-pref-library.jp/wahon/detail/23.html

関係部分を書き下すと以下のようである。嶽ヶ城は宮路山の事。後世の山城名かもしれない。伝承では遠州(遠江)鹿沼、信州(信濃)を回り兵を募って三州(三河)宮路山に戻ったといっている。しかし、乱発生当時、草壁皇子は10歳の子供で、自身が兵を募りに行く訳はないので、草鹿砥氏が草壁皇子の名代として募兵したのであろう。

『赤坂嶽ヶ城

或は云う。古代草壁王子皇居の地也と云ふ。天武天王の皇子也。大友の乱に(おいて)遠州鹿沼に赴き信濃に移り、また三州宮路山に移られ御座と云ふ。軍勢を催し賜ふ。』

 

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