更級日記の東海道の旅をもとに平安時代の古地形や文献で平安時代日本を再現
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平安・鎌倉街道は三河国、矢作の市(沓市場)を通ったか

※タイトル画像:年中行事絵巻、紫野の今宮祭の一場面。着彩。田んぼを前に男が名調子で謡い、仲間たちが、合いの手を入れる。謡われているのは催馬楽だろうか。

催馬楽『貫川』に見える矢矧の市は岡崎市の沓市場か


平安・鎌倉街道を探るとき、矢矧の市を読み込んだ催馬楽『貫川』が引用されることが少なくない。矢作の市が岡崎市大和町の沓市場なら、市は街道沿いに立つから、そこが重要な経由ポイントとなる。催馬楽『貫川』の歌詞については万葉集に類句を含む歌があり、元歌は奈良時代からあったようだ。その時代には地方に絹沓のようなものを自由に売買する市はなかっただろうが、『貫川』が源氏物語、常夏で、以下のように謡われていることから、世につれ当世(一条帝の御代)風に変化したはやり歌と考えてもいいのかもしれない。


”「貫川の瀬々のやはらた」と、いとなつかしく謡ひたまふ。「親避くるつま」はすこしうち笑ひつつ、わざともなく掻きなしたまひたる菅掻きのほど、いひ知らずおもしろく聞こゆ。

上の例から、貫川は源氏物語執筆時、誰もが知る、はやり歌であったことが伺える。『貫川』には矢矧、市、沓の三語が含まれることから、「市」は三河の矢作川西岸の沓市場と考えても無理はない。また平安・鎌倉街道の通過点と考えても著しく迂回という程でもない。市が開かれていれば立寄ることがあったかもしれない。


市が開かれた場所の現在地は妙源寺か


岡崎市大和町沓市場という地域はほとんど低地で標高12-13mである。ただ妙源寺の境内地内には約20m微高地もある。市が常設でないことを考えれば、ここで問題はない。

しかし、宿のような半恒久的施設はについては宝暦7年の水害でもわかる様に、この一帯は矢作川のショートカットで冠水する地域であり、一説にあるような矢矧西宿をここに比定するのは難しい。仮に設けられたことがあったにしても長くは続かなかったに違いない。更級日記の一行がこの地を経由したかと言われれば、おそらく立ち寄らず、渡(わたり)から日長神社のある台地に直行したと言わざるを得ない。


催馬楽『貫川(ぬきがは)』

貫河の 瀬々の柔ら手枕 柔らかに 寝る夜は


なくて 親放(さ)くる夫


親放くる 妻は ましてるはし しかさらば


矢矧の市に 沓買ひにかむ


沓買はば 線鞋(せんがい)の細底を買へ さし履きて 


上裳とり着て 宮路通はむ



奴支可波乃 世々乃也波良多末久良 也波良加爾

奴留与波名久天 於也左久留川末

於也左久留 川末波 末之天留波之 之加沙良波

也波支乃伊知爾 久川加比爾可牟

久川加波々 千加伊乃保曾之支乎加戸 左之波支天

宇波毛止利支天 美也知加与波牟


<現代語訳>

貫河(ぬきかわ)の柔らかな菅(すげ)ではないが、私の腕を枕にして、いとしいあなたと柔らかに寝ぐあいよく共寝する夜はない。母親が逢わせてくれない夫よ」

「母親が逢わせてくれぬ妻は、いっそうかわいい、それほど思ってくれるならば、

矢矧の市に沓を買いに行こうよ」

「沓を買うなら、線鞋の細底を買ってよ

それを履いて、上裳をつけて、あなたのいる宮地に通うよ※」

※別解釈として、宮路とは官道、すなわち東海道の事であるという見方もある。そしたら「きれいな沓を履いて上裳もつけ、おしゃれをしたら、高貴な人も通る東海道を通れるもん」と解釈できないだろうか。そもそも、女の方から、男の家に通うということはあり得ない。とはいえ、所詮、はやり歌の文句なので現実の事をうたっている必要はないのだが。

 

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