更級日記の東海道の旅をもとに平安時代の古地形や文献で平安時代日本を再現
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三河国矢作川西岸の平安・鎌倉街道

  三河国矢作川西岸から尾張国境の境川に到る平坦な地域は、現在では豊かな田園地帯であるが、江戸時代までは荒涼たる原野であった。明治維新後、明治用水建設によりこの地域は初めて生産性の高い農村地帯に変貌した。一方、矢作川西岸流域の沖積地は築堤などの治水工事が行われる様になっても、大規模な出水があれば冠水し、安定した稲作を営むことが難しかった。この根本原因は矢作川上流にある山地から流出する真砂の堆積による天井川化であるといわれる。


(1)矢作川西岸の地理的環境


歴史時代の矢作川上流域の流路は現在と大きく変わらないが、築堤工事が行われるようになる室町時代以後も大災害が頻発していた。記録のある江戸時代以降に限っても度々大きな水害に見舞われている。宝暦7年(1757)5月4日の『北野切れ』の状況を示す。この時の水害について『矢作川水系の流域及び河川の概要』から引用する。



<矢作川流域の水害史>


  江戸時代以前はよくわからないが江戸時代以降の主な洪水を挙げると

・宝暦7年(1757年)5月4日

・明和4年(1767年)

・安永8年(1779年)

・嘉永3年(1850年)

・明治15年(1882年)

・昭和7年(1932年)7月1日

・昭和34年(1959年)9月26日

このように、治水工事が行われるようになっても20-30年に一度くらいは大水害が起こっているので、ほとんど無防備だった室町以前には矢作川西岸流域は浸水被害の常襲地域だったと想像される。図に示すように、宝暦の大洪水は現豊田市の右岸中島の破堤から始まり下流の数か所で堤防が決壊し北野~村高間がショートカットしてその一帯が湖水と化したという。この時には、鎌倉街道経路候補地でもある、筒針や妙原寺なども水没した可能性がある。街道についていえば、このような大規模災害は稀なので、一時的に不通となっても多少コースを変更しながらも存続した可能性が高い。一方、宿場については、この水害常襲地域では安定した存続は難しかったと考えられる。



(定本矢作川―母なる川--その悠久の歴史と文化)



(2)矢作川西岸の平安・鎌倉街道


  鎌倉時代以前に大規模治水工事は行われなかったので、十分に地理的条件を考慮した街道でなければ安全な旅行はできなかった。洪水時の越水を考えれば、渡し場は矢作川と菅生川合流点からかなり南に下がったところにならざるを得なかった。平安時代中期の更級日記は矢作の渡りについて何も語っていない。時代を下り中世の紀行文ではどう記述しているだろうか。

①中世紀行文に見る矢作川渡河


<みやこぢの別れ>飛鳥井雅有:矢作に泊りて、寝覚に詠み侍(り)し。

思ひ寝の都の夢路見も果てゞ 覚むれば帰る草枕かな

<海道記>:此橋(八橋)の上に思事を誓て打渡れば、何となく心も行様に覚て、遙に過れば宮橋と云所あり。敷双(しきならべ)のわたし板は朽て跡なし、八本の柱は残て溝にあり。心中に昔を尋て、言の端に今を註す。

宮橋の残柱に事問ん 朽ていく世かたえわたりぬる

今日の泊を聞ば、前程猶遠といえども、暮れのそらを望めば、斜脚已に酉金に近づく。日の入程に、矢矯(はぎ)宿におちつきぬ。

九日、矢矯を立て赤坂の宿を過ぐ。

<東関紀行>:矢矧といふ所を立て、宮路山越え過るほどに、赤坂と云宿あり。

<十六夜日記>:記述なし。「山もと遠き原野を分けゆく」とあるのみ。


中世紀行文には矢作に宿泊したことは言及されているが、旅人の関心はもっぱら歌枕で有名な八橋の故事にあり、矢作川渡河には言及していない。矢作で宿泊したことは述べているが特に東宿と言及していないところを見れば、川の西岸にあったといわれる矢作西宿は紀行文作者が通過したときには存在していなかったのではなかろうか。

②西三河地方、矢作川西岸における鎌倉街道コースの特異性


  江戸時代東海道は距離的に最も短いコースを取って橋で矢作川を渡る。鎌倉街道は大きく南方に迂回するコースを取る。これは矢作川の氾濫により西岸部が水害の常襲地帯となっていて、JR東海道線のラインまで下がらなければ、安定した地盤がなかったことを示している。

このような地理的条件の下で、鎌倉街道も大きく影響を受けた。タイトル画像には武田勇氏の『三河古道と鎌倉街道』より各時代の東海道の概略図を示した。
 
上図の中に桜街道という裏街道がある。根拠として、平家物語に矢作川に橋が架かり合戦したことを挙げているが、それが合戦当時の事か、物語が書かれた時期(鎌倉~室町時代)の状況を基に書かれた創作なのか不明である。矢作川の橋は太平記に初めて登場するので、鎌倉末期以降に架橋されたと考えられる。従って、この桜街道は常設的な道でなく、動乱期の臨時的軍道である可能性が高いという。


③『平安鎌倉古道』、『三河古道と鎌倉街道』に見る経由地


  <渡から新堀>

渡(わたり)八幡宮

岡崎市渡地区は近世東海道に橋が架かるまでは、長い間、その名の通り対岸の六ツ名からの矢作川渡船場であった。当時から微高地であったと思われるが、度々水害に襲われている。現在の高い堤防から降りると、渡八幡宮がある。現在の社殿はそれほど古いものではなさそうだが、創建は鎌倉時代初め頃に遡り、紀州熊野から流れてきた鳥居重氏が奉斎してきたものという。鳥居氏は以後、矢作川の氾濫で荒廃した沖積地や河原を開拓し、この地に根を下ろす土豪となった。建武の動乱期には新田義貞に仕えたり、戦国時代に入って松平氏に仕え、戦功により江戸時代には大名に取り立てられた。近くに鳥居氏発祥の地の碑がある。(武田勇『三河古道と鎌倉街道』p.134)

この八幡宮には室町時代制作と見られる懸仏が伝えられている。

平安・鎌倉街道はこの神社周辺から再スタートしたものと思われる。

岡崎市指定文化財(現地案内板)
工芸 懸仏(かけぼとけ)大日如来 一面
銅板二枚をつなぎ合わせて、木製円板の上に貼り、その上に蓮華座に乗り頭に五仏冠をいただき、唐草透彫の光背を持った智挙印金剛大日如来像を置く。
 木板の上に薄銅板を貼り、その上の中央に高肉の仏像を貼り、上部に天蓋、左右に花瓶を配する形式では室町時代に盛行する懸仏の形式である。一般的な形式であるが、この地方に残る数少ない懸仏の一つである。
室町時代
昭和36年3月31日指定 岡崎市教育委員会



尾藤氏は矢作川を渡ったのち新堀に到る二つのコースの可能性を考えている。

(A)妙源寺コース

渡ー安養寺ー善国寺ー能光廃寺跡西ー白鳥(熊野)神社ー妙源寺ー院庭天神社(新堀)

(B)渡ー字沓市場ー安藤氏屋敷跡ー院庭天神社(新堀)

Aコースは能光廃寺、妙源寺を経由することを重視している。ただ能光廃寺は相当古い時代に廃絶していた可能性がある。また妙源寺は正嘉2年(1258年)創建なので鎌倉時代後半の話となる。


善国寺

浄土宗西山禅林寺派

家康が岡崎に在住の頃連歌の会を催したことがある。鎌倉時代の木造坐像と木造来迎阿弥陀如来立像あり。(『平安鎌倉古道』p.231)

現地案内板
岡崎市指定文化財
刻 木造地蔵菩薩像 一躯
檜材寄木造、彫刻、、彫眼、素木の像。像高47.8cm。面容は流麗で右手に錫杖、左手に宝珠を持つ。鎌倉期以降の通行の地蔵菩薩像の形を示す。制作時期は鎌倉末期と考えられる。
彫刻 木造来迎阿弥陀如来立像 一躯
寄木造で玉眼嵌入の彩色の像、像高は52.5cm肉身部は金泥彩、衣部は金泥地に胡粉の盛上げとし、これに切金文で麻の裳、卍字崩し、絹目文などを画いている。鎌倉(室町という説もある)時代に制作されたものと思われる。
昭和三十六年三月三十日指定       岡崎市教育委員会


  妙源寺は安藤氏により勧請され、当初は小規模な道場から始まったと考えられている。従って鎌倉街道が当初から、わざわざ北側に迂回する必要はなかった。では安藤氏、妙源寺がこの地にやってくる前、この低湿地に浮かぶ微高地には何があったのか?小規模の集落があったかもしれないが、市が立っていた可能性は高い。


妙源寺(現地案内板)
国指定重要文化財
建造物 妙源寺柳堂(附厨子一基、須弥壇一具、棟札)
 妙源寺は、三河真宗最初の道場といわれる。正嘉二年(1258)の創建で、開基は河内国阿倍野から移り在地領主となった安藤薩摩守信平である。
 柳堂は安藤氏が奉持した聖徳太子御直作の尊像を安置した太子堂と伝わる。堂前に柳の大樹があったので柳堂と称した。建立年代は明らかではないが、残存する棟札によると、現在の堂は正和三年(1314)から慶長十八年(1613)までの再建と考えられる。三間四方、寄棟造、檜皮葺、向拝一間付で、内部は仏壇表に禅宗様須弥壇を置き、その上に一間入母屋造の厨子を安置し、簡素な棹縁天井が低く張られている。様式的には十五世紀前半(室町時代)のものであり、浄土真宗寺院の初期の建築様式がよく残る、きわめて貴重な建造物である。
 明治三十六年四月十五日指定
絵画 絹本著色善光寺如来絵伝 山幅
  絹本著色法然上人絵伝
  絹本著色親鸞上人絵伝
  各絵伝とも大和絵の画風を伝え、霞の巧みな表現など優れた描写を見せる。鎌倉時代の制作と推定される。
大正七年四月八日指定
絵画 絹本著色光明本尊 三幅
  鎌倉時代の作。後世の光明本尊は一幅構成を定型とするが、本図は三幅構成をとっており、初期的様相をうかがわせる点で貴重である。
平成二十六年八月二十一日指定
他に岡崎市指定文化財十三件
岡崎市教育委員会

現在は妙源寺の住所も沓市場であるが、古くはやや南側に字沓市場という字があった(Bコースの字沓市場)。矢作の沓市場は催馬楽“貫川”にも登場する街道筋で開かれたと思われる市である。ややこしいが、これは妙源寺が盛んになった時、押し出されて沓市場が南に移転したものだと思われる。住宅地となった現在の岡崎市大和町沓市場には字名のみが残り、過去の様子を偲べるものは何もない。



Bコースは単純に距離が短いルートで、これが自然な街道ルートだと考えられる。とりわけ平安時代には沿道にさしたる寺社もなく、立ち寄るべきものもなかった。


白鳥神社跡地

  神社跡地は現在児童公園となっているがその一隅に跡地の石碑が立つ。白鳥神社は岡崎市大和町川原にあったが、大正14年4月熊野神社と合祀され現在地、大和町字平野に移った。昭和21年2月には桑子神社(犬頭神社)もそこに合祀されている。元の白鳥神社の位置は鎌倉街道がここに近い場所を通っていたことを示唆する。


院庭神社(現地説明碑文)
由緒
 三河国神名帳に正五位前庭天神、同正五位下院庭天神と記載してあり、前庭天神は豊受比売大神を院庭天神は天照皇大神を奉祀しともに大庭の地に鎮座されていた。この地は古く三河が西三河のみの呼び名であった大化以前の国衙の跡と伝えられ、現在その地に廰院塚と言う古塚がありまた、伊勢両宮の河内神領の司庁と神倉があったことから、前庭・院庭両宮をこの地に奉祀したものと考えられる。
其の後、神領の地は廃絶したが前庭天神は村民の本田又左衛門重友の家で、院庭天神は尾張源氏の裔として称する山田氏の家で奉祀してきたが、宝暦年中一時大岡村白山社内へ遷座し、明治元年に本村に奉遷し同八年一月村社に列せられ同四十一年十月神饌幣帛料供進神社に指定された。而して大正二年九月に末社神明社を本社に合祀した。(岡崎市史より抜粋)


下に大正9年測図の2.5万分の1地形図(安城)を示すが、この時点ですでに過去の条里に基づく古道の痕跡はない。注:この時期にはまだ名鉄線は開通していない。妙源寺を出て平地上をJR東海道線沿いに西に向かい、新堀を経て台地の端に日長(ひなが)神社に到る。



<日長神社から長者屋敷まで>

日長神社は延喜式式内社で、文徳実録に当社を含む三河国の十一神社に従五位下授位の記述がある(仁寿元年10月、851年)。鎌倉街道はここから台地の縁を北上する。

日長神社ー高木城趾ー市杵嶋姫神社(別郷廃寺跡、薬王寺
市杵嶋姫神社から街道は武田氏によれば新、旧のルート二つの経路があったという。
C:北山崎ーしし山ー長者屋敷
D:市杵嶋姫神社ー大行日吉法印墓ー慈恵幼稚園ー庚申塚ー長者屋敷

このうち、Dコースが平安時代の古い街道でCが鎌倉街道の本道ではないかという。残念なことに、Dコースはかなり古道をたどれるが、Cコースはほとんど大正時代測図の地形図にも痕跡がない。Cコースは概ね台地の上、あるいは辺縁を通ると思われ、恒久的な街道としてはこちらが自然である。残念なことに伝承によるため、正確な経由地、道影の消失原因はわからない。おそらく明治用水完成後の耕地整理で消滅したと思われる。更級日記ではもちろんDコースを歩いたであろう。但し、あくまで推定である。下の現代地図に平安時代の推定経路をプロットした。但し、慈恵幼稚園、庚申塚は低地にあるので、そこは通らず東寄りの丘陵裾を迂回したコースを示している。

日長神社(現地案内板)

由緒

祭神天照大御神(旧大日孁貴尊おおひるめむちのみこと)
 創建は天長年中(824-834)と伝う。当神社は往古より式内社として村民の崇敬殊に篤く天正十二年(1584)小牧長久手の戦いに高木善次郎清秀当神社に武運長久を祈願し池田勝久を討ちたり。慶安二年(1649)水野和泉守の検地帳に当時の高木村小字名として鳥居、日宝前、日長田、神子田、御用米、油田、半崎など当神社にゆかり深き地名の存するは信仰の深きを偲ぶことができる。寛文七年(1667)水野監物への万書上帳に創建当時は境内十八間四方とあり。明和六年(1769)天草太郎左ヱ門及び明治四年(1871)額田県への書状にも同様に記す。明治の初め村民延喜式内の日長神社なりと具申したが教部省より式内未定社※注の通達を受ける。

 明治五年(1872)十月村社に列格し同四十二年(1909)九月一日供進指定社となる。

明治九年九月 社殿再建

昭和五十一年十月 社務所改築

昭和五十四年四月 拝殿再建

平成十三年十二月 本殿 幣殿  修復

平成十六年二月 手水舎竣工


※注  日長神社は上記現地案内板にあるように明治初年に式内社指定を棚上げされているが、武田勇氏はその式内社棚上げの経緯と反対派の論拠がないことを指摘している。日長神社は平安初期に創建された式内社でいいのではないか。少し長くなるが、その部分を下に引用する。

以下引用
 
  『街道台地下降地の「南山崎」境界近くに、高木村の日長神社と云うのがあり、社標に延喜式内と記されている。

社の前面は最近新しい区画に変わってしまったが、それ迄鎌倉街道の旧形と思われるものが、先の台地の「下りと」迄長く続き残っていた。

  それが調査当時残っていたのは、神社の西辺をかすめる僅かだけである。その社前の社標は維新の土地の勤王家、新堀村の深見篤慶と言う人の筆になるという。

  この社は記録の上に碧海郡となっていて、文徳実録に「仁寿元年(851)冬十月乙巳参河国日長ノ神授従五位下」とあり、延喜式内の古社である。ところがこの社は早くより所在不明とされ、幕末頃には矢作川東岸額田郡の日名神社に比定する説があった。

  その理由は、ひなーひながーの通音と、「日名、大門の両村は元碧海郡の地であった」と云う伝承に拠るものらしいが、これは矢作東岸青木川条里復元のうえからは、真実性がない。

 若しその郡界異動があったとしても、それはよくある中世の一時的なものではないだろうか。

  こうして深見氏が何によって、高木村のこの社に日長神社を比定された、と言う事情はよくわからないが、当時碧海郡の内には、日長神社を名乗る社は外になかったようである。』(武田勇『三河古道と鎌倉街道』p.125、私家版)引用終り


高木城跡:下の説明文にもあるように高木氏の館跡または砦であり城と言うほどの規模ではない。石碑は丘陵裾の水田に面する道路わきに立てられているが、道を挟んだ丘陵側が館跡である。鎌倉街道はこの道路とほぼ重なる。

高木氏発祥の地(市指定史跡)現地案内板

高木氏は、室町時代に現在の安城市高木町一帯をもとにしていた一族と考えられます。
  高木清秀は、大永六年(1526)に三河国牧内(現岡崎市大和町・牧内町)に生まれました。永禄六年(1563)の三河一向一揆の際には、徳川家康に加勢した刈谷城主の水野信元の家臣として一揆鎮圧の功績をあげ、家康から先祖の土地(高木)を与えられました。

  清秀は、天正十年(1582)家康と主従関係を結び、高木を含めた一千石の領地を得ることになります。その後、天正十八年(1590)の家康の関東移封にともない、関東地方に五千石を与えられてこの地を去りました。清秀の子正次は、河内国丹南藩(現大阪府松原市)一万石の藩主となり、大名として明治維新まで続きました。

安城市教育委員会


市杵嶋姫神社と別郷廃寺
神社の境内北側で発見された廃寺は三河薬王寺か?薬王寺であれば平安時代に東海道がここを通っていた有力証拠になる。



市指定史跡 別郷廃寺跡(現地案内板)

  舌状にのびた洪積台地の端、別郷町油石一帯に位置しています。伽藍配置及び境内の境内の規模は不明ですが、現在の別郷町の集落のなかに約100メ-トル四方にわたっていると思われます。市杵嶋姫神社に礎石一個が運ばれていますが、風化の激しい花崗岩で平坦な面に、径63cmの突出した柱座が残っています。

 出土遺物としてはおびただしい量の布目瓦と北野廃寺(岡崎市)と同形式の六葉素弁文軒丸瓦と八葉素弁文軒丸瓦(ともに白鳳様式)と八葉複弁文軒丸瓦(奈良時代)、それに経石、須恵器、山茶碗などの破片があります。

  「本朝文粋」(平安時代)の漢詩によまれた「三州薬王寺」はこの寺とみる説もあります。

  昭和43年4月1日指定 安城市教育委員会

大行日吉法印は安土桃山時代頃の三河万歳の指導者・元締であった。三河万歳は応仁の乱ののち矢よけの祈祷として始まったが、だんだん戦場で兵士を楽しませる余興として価値を認められようになった。徳川氏から奨励され関東地方、全国に広がった。この東別所の地に堂趾(上の画像)、200mほど北西に墓(西別所町中新田42)がある。いずれも鎌倉街道の沿道にあった。


集落から出ると整然と整理された耕地となり、古道は消滅している。鎌倉街道は慈恵幼稚園の東北角をかすめ庚申堂に向かう。

 

『平安鎌倉古道』によれば、耕地整理の前まで古道は庚申堂の東の水田側を通っていたらしい。しかしその道は今はなく、面する道路がなくなってしまった。現在は住宅の隙間の路地からおまいりする。しかし、庚申堂や境内はきちんと手入れがなされ、地元で手厚くお祀りされていた。

 

古道は庚申堂から名鉄線沿線の長者屋敷方向に向かう。現在は水田となっているので舗装道路で迂回する。





<関連経由地住所>

渡城趾:愛知県岡崎市渡町東浦

安養寺:岡崎市渡町荒居15

善国寺:岡崎市渡町善国寺35

筒針天徳院:愛知県筒針町池田233

白鳥(熊野)神社:岡崎市大和町字平野135

白鳥神社跡地:岡崎市大和町川原221の隣地

妙源寺:岡崎市大和町沓市場65

光善寺:岡崎市新堀町本郷27

院庭天神社:岡崎市新堀町中野21

妓楼
福地
日長神社:安城市高木町鳥居13

高木城趾:安城市高木町下屋敷28の隣地

市杵島姫(いちきじまひめ)神社(別郷廃寺跡):安城市別郷町油石54

薬王廃寺跡:安城市別郷町油石53

大行日吉法印堂:安城市東別所町中新田42

大行日吉法印墓:安城市西別所町本郷15-1の隣地

慈恵幼稚園:安城市西別所町中新田18

庚申塚:安城市西別所町中新田1

蓮華寺:愛知県岡崎市西本郷町和志山93

しし(楮)山:楮の字は猪の誤りではないかと言われている。下記工場の構内に所在。
UACJ押出加工安城製造所:愛知県安城市北山崎町築地1

 

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