更級日記の東海道の旅をもとに平安時代の古地形や文献で平安時代日本を再現
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三河国西部の平安・鎌倉街道、 延喜式東海道における鷲捕(わしとり)駅家跡から二村迄

鷲取(わしとり)駅家跡から二村までの間は約13㎞で大きな起伏もないので1日の行程である。
全体の行程を尾藤『平安・鎌倉古道』に基づいて9年測図の2.5万分の1地形図にプロットした(大正9年地形図にプロットした三河国西部の鎌倉街道ルート)。


平安・鎌倉東海道は江戸東海道と岡崎市宇頭茶屋で交差し、北側の丘陵地を連結するように尾張に向け北西に進む。この地域は明治用水が引かれるまで灌漑用水に恵まれず、平安・鎌倉時代を通して耕地はほとんどなく一面の草原、野原であった。


(1)文献に見る三河西部の景観


上京の旅である更級日記を除けば関東下向の旅である。以下に語られているのは、もっぱら二村と八橋だけで、それ以外は、ただ野原で語るべきものがなかったことを示している。


①更級日記


八橋は名のみして、橋のかたもなく、何の見所もなし。二むらの山の中にとまりたる夜、大きなる柿の木のしたに庵を作りたれば、夜一夜、庵の上に柿の落ちかゝりたるを、人々拾ひなどす



②十六夜日記


(前泊地はおそらく萱津)、二村山を越えて行、山も野もいと遠くて、日も暮れ果てぬ。

はるばると行過ぎて猶末たどる野辺の夕闇

八橋にとゞまらんといふ。暗きに、橋も見えずなりぬ。

さゝがにの蜘蛛手危うき八橋を夕暮かけて渡りぬる哉

廿一日、八橋を出でて行くに、いとよく晴れたり。山もと遠き原野を分行く。昼つ方になりて、紅葉いと多き山に向かひて行く。風につれなき所どころ、朽葉に染め変えてけり。常盤木どもも立ちまじりて、青地の錦を見る心地す。人に問えば、宮路の山と言ふ

③みやこぢの別れ


二村山は木もなし。たゞ薄・女郎花(をみなえし)ばかり□みたてり。げに二村の錦と見ゆ。


女郎花見るに心は慰(なぐさ)まで 都のつまをなほ忍かな


矢作に泊りて、寝覚に詠み侍(り)し。


思ひ寝の都の夢路見も果てゞ 覚むれば帰る草枕かな


④春のみやま路


二村山の嵐ことに寒し。


三河の国になりぬればひとえに野をゆく。霜枯れの道芝をのみ踏みならしつゝ過ぐるもいと寂しや。 八橋は先達どもやうやうに釈したり。くもで(蜘蛛手)とは昔はいかにかありけん。今はたゞ二の橋なり。能因法師は谷の橋と申し侍けるも、なをいかゞと聞こゆ。杜若(かきつばた)も今はなし。何をか句の頭に置きて歌も詠むべき。萱津よりこの八橋の宿まで九里とかや。


  かきくらし時雨るゝまではなけれども雪げの雲や二村の山

⑤東関紀行


やがて夜の内に二村山にかゝりて、山中を過るほどに東やうやうしらみて、海の面(おもて)はるかに顕(あらは)れ渡れり。波も空も一つにて、山路につゞきたるやうに見ゆ。

玉匣(たまくしげ)二村山のほのぼのと明行くすゑは波路なりけり
ゆきゆきて三河国八橋のわたりを見れば、在原の業平が杜若(かきつばた)の歌よみたりけるに、みな人かれいゐの上に涙おとしける所よと思出られて、そのあたりを見れども、かの草とおぼしき物はなくて、稲のみぞ多く見ゆる。

華故におちし涙のかたみとや稲葉の露を残しをくらむ

源の嘉種がこの国の守にて下ける時、とまりける女のもとにつかはしける歌に、

もろともにゆかぬ三河の八橋を恋しとのみや思ひわたらむ」と読めりけるこそ、思ひ出られて哀なれ。(矢矧泊)


⑥海道記


宮地二村の山中を賖(はるか)に過ぐ。山は何れも山なれども、優興は此の山に秀(ひづ)、松は何れも松なれども、木立は此の松に作れり。翠(みどり)を含む風の音に雨をきくといえども、雲に舞鶴の声晴れの空をしる。松性しょうせい、汝は千年の貞あれば面替りせじ、再征さいせい、我は一時の命なれば後見を期し難し。

今日過ぬ帰らば又よ二村のやまぬ余波(なごり)の松の下道

山中に堺川あり。身は河上に浮で独渡れども、影は水底に沈で我と二人行。かくて参川国に至ぬ。雉鯉鮒(ちりふ)が馬場を過て数里(すり)の野原を分れば、一両の橋を名けて八橋と云。砂に眠る鴛鴦は夏を翁して去り、水に立る杜若は時を迎て開たり。花は昔の花、色もかはらずさきぬらん、橋も同じ橋なれば、いくたび造かへつらむ。相如世を恨(うらみ)しは、肥馬に昇遷に帰る、幽子身を捨る、窮鳥に類して此橋を渡る。八橋よ八橋、くもでに物思ふ人は昔も過きや、橋柱よ橋柱、おのれも朽ぬるか。空く朽ぬる物は今も又過ぬ。

住わびて過る三川の八橋を心ゆきても立つかへらばや

此橋の上に思事を誓て打渡れば、何となく心も行様に覚て、遙に過れば宮橋と云所あり。敷双(しきならべ)のわたし板は巧(くち)て跡なし。八本の柱は残て溝にあり。心中に昔を尋て、言の端に今を註す。

宮橋の残柱に事問わん巧ていく世かたえわたりぬる

今日の泊(とまり)を聞ば、先程猶遠といへども、暮の空を望ば斜脚已に酉金に近づく。日の入程に、矢矧宿におちつきぬ。



(2)三河国西部の平安・鎌倉街道の経由地


具体的踏破経路は前述の尾藤卓夫氏の『平安・鎌倉古道』によった。経由地の目印となる寺社は平安時代には存在しなかったものがほとんどであり、鎌倉時代から室町時代以降に街道沿いに建立されたものである。しかし、目印がなければ街道を辿ることができないのでそれらの寺社を以下の説明に用いる。

①鷲捕駅家跡→熊野神社→日吉神社→(東山中学)→宮橋→不乗森神社→八橋

平安時代中期には駅家制は崩壊していたが、旅の経由地として駅家跡地は有用であった。三河国西部には鷲捕(わしとり)駅があった。この現在位置は、岡崎市宇頭町にある新長者屋敷にあった長者屋敷と推定されている。ここで宿泊した一行は現在、熊野神社を経由し北西に進路を取る。この地域は戦時中、第一岡崎海軍航空隊の用地であったが、それ以前は大正9年の地形図に見るように水田であった。更に遡れば明治用水建設以前の江戸時代までは荒涼たる原野(西野ヶ原)であった。この平坦な荒野を歩くとき、昔の旅人は何を目印に歩いたのだろうか。おそらく旅人の踏み跡を頼みに歩くしかなかった。東海道は馬も通るのでかなり踏み固められていたことは考えられる。日吉神社の北を過ぎ七曲りの地点で猿渡川を渡る。鎌倉時代には宮橋という橋が架かっていたようだが海道記作者が通った時には、橋板が朽ち柱しか残っていなかったらしい(武田勇『三河古道と鎌倉街道』)。更級日記の菅原家一行が通った時には橋もなく膝まで水に濡らし猿渡川を渡っただろう。街道は不乗森(乗らずのもり)神社の北側裏を通過する。この社は安和元年(968年)の創建と伝えられるので一行が通った時には侍も下馬し一同で旅の安全を祈ったことだろう。

この四辻には鎌倉街道を読み込んだ梅泉芳水の歌碑がある。

馬降りて神の威徳をかしこみて鎌倉街道過ぎしもののふ

②八橋→在原寺→駒場・徳念寺→(駒場小)→(東海鉄工)→(富士塗料工業所)→龍ヶ池

八橋は在原業平の伊勢物語で名高く、紀行文にはほとんど残らず取り上げられている。しかし杜若(かきつばた)の季節は短く、花がなければ、ただの湿地帯である。しかも管理が行き届かない平安前期であれば、一時的に橋を架けたとしても幾ばくもせず腐朽して消滅してしまったであろう。

<八橋の平安~鎌倉時代の地形>

現在無量寿寺がある場所は逢妻男(あいづまお)川の河畔だが既に湿地ではない。しかし鎌倉時代以前は低湿地であったと思われる。水が南斜面から網状に広がり流れ落ち、そのため街道を通過するときも板橋をあちこちに渡して渡る必要があったということではないだろうか。


八橋を過ぎて尾張との国境の境川まではただ野原を歩くのみである。

但し、龍ヶ池を過ぎたあたりから、古道が消失する。これは伊勢湾自動車道の建設により地形が一変したためである。

③境川の渡り

龍ヶ池→児(ちご)塚(富士松乳販西三河ミルクセンター)→大池→祖母神社→(刈谷生きがい楽農センター)→永福寺→酒井神社→境川渡し

龍ヶ池から境川河畔迄の古道は不明瞭である。『平安・鎌倉古道』の調査された昭和40年代まではわづかな道影が残る部分もあったようだが、現在は全く痕跡がない。やむなく寺社を目印に進む。祖母神社境内内にはわづかにそれらしき道が残る。ここから境川までのルートは二通りあり、酒井神社脇と、その北東、約200mの河岸である。いずれが本道かはわからない。時代により変化した可能性もある。


④二村

境川渡し→大久伝八幡社→十三塚→青木地蔵→鹿島神社→皿池→豊明神社
境川を船で渡り大久伝八幡社に向かう。この神社は古いものではないが、池大雅の扁額があることで有名。鎌倉街道がこの社の西を通っている江戸時代の絵図があるという。

境河畔から沓掛の丘陵に至る間は平安・鎌倉時代には一面の草原であったと想像される。道は渡し場から一直線に豊明消防署、ハス向かいの水田中にある青木地蔵に向かった。そこから丘陵の縁を辿り鹿嶋神社に向かう。鹿嶋神社は古くは川島神社といわれていたという。
逢見ては心ひとつを川島の水の流れの絶えじとぞ思ふ(在原業平、伊勢物語二十二)

(この歌と鹿嶋神社が関係あるかは不明)



(3)二村駅について


駅制が機能していた頃、尾張国には両村駅があったとされる(倭名類聚抄)が、遺構は発見されていない。この両村駅の位置については従来から二村山のある「宿」辺りと考えられていた(古代日本の交通路Ⅰ p.112、大明堂)。その外にも候補地はいくつかある。豊明市沓掛町上高根、行者堂遺跡では8世紀と見られる丸瓦が発掘されており、駅家跡である可能性が高い。この場所は境川から一段引きあがった場所にあり東側に眺望が開ける(梶山 「古代東海道と両村駅」『名古屋市博物館紀要』23巻、2000)。
しかしながら、律令時代に設置された駅家は平安前期から条件の悪い順に廃絶に追い込まれていった。上高根に駅家が設けられたことがあったとしても、そのルートを通過した文献がないので、早期に廃絶したのではと考えられる。
一方、平安時代の寛仁4年(1020年)更級日記には『二むらの山の中にとまりたる』に続き『尾張國、鳴海浦を過ぐるに…』と鳴海方面に抜けている。その約200年後、建久元年(1190年)には源頼朝が二村山を通り、次の歌を残している。


よそに見しをささが上の白露を たもとにかくる二村の山  源頼朝

その後も多くの文人が二村山を通過している。以上の事から平安時代中期から鎌倉時代には二村山ルートが東海道の本道であったと考えてよい。この二村近傍に駅家を求めるとすれば、どこが適当だろうか。駅家位置については武田勇氏が現地調査し、宿営の為の所要平坦面積から「皿池」と「宿」の位置に候補地を絞り込んでいる。ちなみに”宿”という地名は、鎌倉時代以後に始まるものだという。この「宿」集落は開けた場所にあり、山中のイメージはない。従って平安時代鎌倉時代の宿営地はもっと二村山に近いところである。街道の宿営地となれば駅家であろうがなかろうが、馬を扱う関係上一定の面積が必要であり、現在、頼朝歌碑がある二村峠では狭すぎる。その点から考えると現在はため池となっている、「皿池」以外に適地は考えられない。「皿池」がいつ築造されたか不明だが、自然の池でないことは古墳と接していることからも明らかである。前掲の飛鳥井雅有の『みやこじの別れ』では「二村は木もなし」とあるが、これは宿営地であるため木を切り払った広場であったことを示すものではないだろうか。下に示す大正9年測図の地形図中、②が推定鎌倉街道である。①は上高根に駅家があった場合の推定駅路





<関連経由地>


  • 鷲取駅家跡(長者屋敷):愛知県岡崎市宇頭町字新長者屋敷

  • 熊野神社(踏分の森):愛知県安城市尾崎町亥ノ子19

  • 日吉神社:愛知県安城市浜屋町宮西34

  • 東山中学:愛知県安城市里町東山1

  • 里町小学校(七曲り):愛知県安城市里町足取1-5

  • 不乗森(乗らずのもり)神社:愛知県安城市里町森38

  • 花の瀧:愛知県安城市里町菖蒲池38

  • 無量寿寺:愛知県知立市八橋町61-1

  • 浄教寺:愛知県知立市八橋町神戸23-1

  • 在原寺:愛知県知立市八橋高道8-1

  • 駒場小学校:愛知県豊田市駒場町新生58

  • 児(ちご)塚:富士松乳業西三河ミルクセンター愛知県刈谷市東境町住吉60

  • 大池:刈谷市立富士松北保育園の南、愛知県刈谷市東境町大池、池は現存せず

  • 祖母神社:愛知県刈谷市東境町町尾52-1

  • 永福寺:愛知県刈谷市西境町御宮91

  • 酒井神社:愛知県刈谷市西境町本郷7-1

  • 大久伝(おおくて)神社:愛知県豊明市大久伝町東100

  • 青木地蔵尊:豊明消防署(豊明市沓掛町宿234)ハス向かいの田んぼの中

  • 鹿嶋(川島)神社:愛知県豊明市沓掛町宿75

  • 皿池:愛知県豊明市二村台7-41-3

  • 豊明神社:愛知県豊明市沓掛町峠前21-116(この社は昭和の創建で歴史的神社ではない)

  • 二村峠:愛知県豊明市沓掛町峠前・皿池上
 

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