更級日記の東海道の旅をもとに平安時代の古地形や文献で平安時代日本を再現
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三河国西部の平安・鎌倉街道、 延喜式東海道における鷲捕(わしとり)駅家跡から二村迄

鷲取(わしとり)駅家跡から二村までの間は約13㎞で大きな起伏もないので1日の行程である。
全体の行程を尾藤『平安・鎌倉古道』に基づいて大正9年測図の2.5万分の1地形図にプロットした(大正9年地形図にプロットした三河国西部の鎌倉街道ルート)。


平安・鎌倉東海道は江戸東海道と岡崎市宇頭茶屋で交差し、北側の丘陵地を連結するように尾張に向け北西に進む。この地域は明治用水が引かれるまで灌漑用水に恵まれず、平安・鎌倉時代を通して耕地はほとんどなく一面の草原、野原であった。


(1)文献に見る三河西部の景観


上京の旅である更級日記を除けば関東下向の旅である。以下に語られているのは、もっぱら二村と八橋だけで、それ以外は、ただ野原で語るべきものがなかったことを示している。


①更級日記


八橋は名のみして、橋のかたもなく、何の見所もなし。二むらの山の中にとまりたる夜、大きなる柿の木のしたに庵を作りたれば、夜一夜、庵の上に柿の落ちかゝりたるを、人々拾ひなどす



②十六夜日記


(前泊地はおそらく萱津)、二村山を越えて行、山も野もいと遠くて、日も暮れ果てぬ。

はるばると行過ぎて猶末たどる野辺の夕闇

八橋にとゞまらんといふ。暗きに、橋も見えずなりぬ。

さゝがにの蜘蛛手危うき八橋を夕暮かけて渡りぬる哉

廿一日、八橋を出でて行くに、いとよく晴れたり。山もと遠き原野を分行く。昼つ方になりて、紅葉いと多き山に向かひて行く。風につれなき所どころ、朽葉に染め変えてけり。常盤木どもも立ちまじりて、青地の錦を見る心地す。人に問えば、宮路の山と言ふ

③みやこぢの別れ


二村山は木もなし。たゞ薄・女郎花(をみなえし)ばかり□みたてり。げに二村の錦と見ゆ。


女郎花見るに心は慰(なぐさ)まで 都のつまをなほ忍かな


矢作に泊りて、寝覚に詠み侍(り)し。


思ひ寝の都の夢路見も果てゞ 覚むれば帰る草枕かな


④春のみやま路


二村山の嵐ことに寒し。


三河の国になりぬればひとえに野をゆく。霜枯れの道芝をのみ踏みならしつゝ過ぐるもいと寂しや。 八橋は先達どもやうやうに釈したり。くもで(蜘蛛手)とは昔はいかにかありけん。今はたゞ二の橋なり。能因法師は谷の橋と申し侍けるも、なをいかゞと聞こゆ。杜若(かきつばた)も今はなし。何をか句の頭に置きて歌も詠むべき。萱津よりこの八橋の宿まで九里とかや。


  かきくらし時雨るゝまではなけれども雪げの雲や二村の山

⑤東関紀行


やがて夜の内に二村山にかゝりて、山中を過るほどに東やうやうしらみて、海の面(おもて)はるかに顕(あらは)れ渡れり。波も空も一つにて、山路につゞきたるやうに見ゆ。

玉匣(たまくしげ)二村山のほのぼのと明行くすゑは波路なりけり
ゆきゆきて三河国八橋のわたりを見れば、在原の業平が杜若(かきつばた)の歌よみたりけるに、みな人かれいゐの上に涙おとしける所よと思出られて、そのあたりを見れども、かの草とおぼしき物はなくて、稲のみぞ多く見ゆる。

華故におちし涙のかたみとや稲葉の露を残しをくらむ

源の嘉種がこの国の守にて下ける時、とまりける女のもとにつかはしける歌に、

もろともにゆかぬ三河の八橋を恋しとのみや思ひわたらむ」と読めりけるこそ、思ひ出られて哀なれ。(矢矧泊)


⑥海道記


宮地二村の山中を賖(はるか)に過ぐ。山は何れも山なれども、優興は此の山に秀(ひづ)、松は何れも松なれども、木立は此の松に作れり。翠(みどり)を含む風の音に雨をきくといえども、雲に舞鶴の声晴れの空をしる。松性しょうせい、汝は千年の貞あれば面替りせじ、再征さいせい、我は一時の命なれば後見を期し難し。

今日過ぬ帰らば又よ二村のやまぬ余波(なごり)の松の下道

山中に堺川あり。身は河上に浮で独渡れども、影は水底に沈で我と二人行。かくて参川国に至ぬ。雉鯉鮒(ちりふ)が馬場を過て数里(すり)の野原を分れば、一両の橋を名けて八橋と云。砂に眠る鴛鴦は夏を翁して去り、水に立る杜若は時を迎て開たり。花は昔の花、色もかはらずさきぬらん、橋も同じ橋なれば、いくたび造かへつらむ。相如世を恨(うらみ)しは、肥馬に昇遷に帰る、幽子身を捨る、窮鳥に類して此橋を渡る。八橋よ八橋、くもでに物思ふ人は昔も過きや、橋柱よ橋柱、おのれも朽ぬるか。空く朽ぬる物は今も又過ぬ。

住わびて過る三川の八橋を心ゆきても立つかへらばや

此橋の上に思事を誓て打渡れば、何となく心も行様に覚て、遙に過れば宮橋と云所あり。敷双(しきならべ)のわたし板は巧(くち)て跡なし。八本の柱は残て溝にあり。心中に昔を尋て、言の端に今を註す。

宮橋の残柱に事問わん巧ていく世かたえわたりぬる

今日の泊(とまり)を聞ば、先程猶遠といへども、暮の空を望ば斜脚已に酉金に近づく。日の入程に、矢矧宿におちつきぬ。



(2)三河国西部の平安・鎌倉街道の経由地


具体的踏破経路は前述の尾藤卓夫氏の『平安・鎌倉古道』によった。経由地の目印となる寺社は平安時代には存在しなかったものがほとんどであり、鎌倉時代から室町時代以降に街道沿いに建立されたものである。しかし、目印がなければ街道を辿ることができないのでそれらの寺社を以下の説明に用いる。

①鷲捕駅家跡→熊野神社→日吉神社→(東山中学)→宮橋→不乗森神社→八橋

平安時代中期には駅家制は崩壊していたが、旅の経由地として駅家跡地は有用であった。三河国西部には鷲捕(わしとり)駅があった。この現在位置は、岡崎市宇頭町新長者屋敷にあった長者屋敷と推定されている(武田勇『三河古道と鎌倉街道』)。武田氏の調査時点では畑の中にチャボ井戸という井戸も残っていたらしいが、現在その場所は福山通運岡崎支店の敷地となっていて往時を偲べるものは何もない。面する道路を北に進むと国道1号線にぶつかるが横断地下道があるので、そのまま進む。地下道を出て50~60m過ぎると左手に石仏がある。ここを左折すると道が二股に分かれる。分岐点には土地改良碑などが立ち、右方を望めば熊野神社の森(踏み分けの森)が見える。右手の道は舗装もなく農道である。この道は熊野神社の入り口近くまで続いている。これが武田氏も指摘している鎌倉街道の痕跡かと思われる。おそらく土地改良の際に廃道にするか議論ののち由緒ある熊野神社への参道部分だけが地元の配慮で残されたのだろう。熊野神社のある付近一帯は戦時中、第一岡崎海軍航空隊の用地であったが、それ以前は大正9年の地形図に見るように水田であった。熊野神社前の通り(江戸東海道)に戻ると一里塚があり、そこから入ると神社の西沿いに古道らしきものがあるが100mで尽きる。尾藤氏調査の時点ではまだ田園で農道をたどり西に進むことができたようだが、現在は耕地整理された農地がさらに工場、住宅地へと代わり古道は完全に消滅している。

 


 

この一帯は明治以前は荒涼たる原野(西野ヶ原)であった。ここが耕地となったのは明治用水完成以後のことである。このだだっ広い荒野を歩くとき、昔の旅人は何を目印に歩いたのだろうか。おそらく旅人の踏み跡を頼みに歩くしかなかった。東海道は馬も通るのでかなり踏み固められていたことは考えられる。「踏み分けの森」と呼ばれる熊野神社の森も、背丈よりも高く生い茂った草原を分け入ったところから、その名があるのだろう。
日吉神社の北を過ぎ、東山中学の敷地北西の隅をかすめたらしい古道は、七曲りの地点で猿渡川を渡る。地形、道路痕などには古道の痕跡は見いだせないが字名には痕跡らしきものがある。古代中世の官道には「大道」という字名が残ることが多く、ここにも大道山、大道畑などの字名が残っている。

 

鎌倉時代には宮橋という橋が架かっていたようだが海道記作者が通った時には、橋板が朽ち柱しか残っていなかったらしい(武田勇『三河古道と鎌倉街道』)。

 


宮橋について(現地説明碑文)

  貞応二年(1223)に著された有名な「海道紀」(著者 鴨長明・源光行)に今は耳にしない名の橋であるが、不乗森神社裏の鎌倉街道を東へ七〇〇メートル行くと猿渡川が流れている。この橋を「宮橋」と呼んだ。そして著者は

宮橋の残るはしらにこととはん  朽ちて幾世かたえわたりぬる

と歌を残した。この所が里村三景(花の瀧・不乗森・宮橋)として千年も前から連綿と伝えられていた事を後世に残して行こうと史実に基づき歴史的遺産として「宮橋」と改名しました。

平成三年三月三十日発行「里町千年史」より抜粋

猿渡川の語源について

  往古では不乗森・八幡山に猿が生息していました。その猿達が宮橋の所を行ったり来たりしていました。その情景を見た村人達が猿渡川と呼ぶようになりました。現在でも氏神である不乗森神社では猿を神様として称えています。

里町内会  石橋町内会  井畑町内会


更級日記の菅原家一行が通った時には橋もなく膝まで水に濡らし猿渡川を渡っただろう。

 

街道は不乗森(のらずのもり)神社の北側裏を通過する。この社は安和元年(968年)の創建と伝えられるので一行が通った時には侍も下馬し一同で旅の安全を祈ったことだろう。


 



この四辻には鎌倉街道を読み込んだ梅泉芳水の歌碑がある。


馬降りて神の威徳をかしこみて鎌倉街道過ぎしもののふ




 

鎌倉街道跡(案内板)

  1192年(建久3年)鎌倉に幕府が開かれると、京都と鎌倉の間に鎌倉街道が定められ、宿駅六十三ヵ所が設置された。
  安城市内では、宿駅の八ツ橋(知立市)から矢作(岡崎市)の間、里町から尾崎町、山崎地内を通過していた。
   里町では、知立市八ツ橋町からしょうぶ池のほとりを過ぎ、不乗の森に達していた。
  しょうぶ池には花の滝があり、歌にもよまれている。不乗の森神社の前は、乗馬を許されず、馬より下りて通過したと言い伝えられている。
  ほぼこの位置に、鎌倉街道があったものと推定される。

昭和五十四年十月一日    安城市教育委員会



②花の瀧→八橋→在原寺→駒場・徳念寺→(駒場小)→(東海鉄工)→(富士塗料工業所)→龍ヶ根池


鎌倉街道および花の瀧伝承地




 


(市指定史跡 昭和58年7月20日指定)

鎌倉街道(京鎌倉往還)は古代の官道をもとに源頼朝が開いた鎌倉と京都を結ぶ道です。安城市内では、八橋(知立市)から矢作(岡崎市)に向かう道のうち、里町から山崎町に至るまでの8.5㎞に及んでいたといわれます。現在は不乗森(のらずのもり)神社の北側30mと熊野神社(尾崎町)の西側約60mにその面影を残しています。

 また鎌倉街道沿いにあった菖蒲池地内の花の瀧は、寛文6年(1666)の飯尾宗祇の「名所方角鈔」に記されている八橋八景の一つでした。江戸時代中期以降、三河地方の地誌には、「新古今和歌集」の代表的歌人慈円の歌が花の瀧を詠んだ歌として伝承されています。

風渡る 花をみかはの 八橋の くもでにかかる 瀧のしらいと

《歌意》

風が吹き渡って散り乱れる落花を見に三河八橋に来てみると、八つ橋の下を蜘蛛の手のように八方に流れる川には落花が一面に散り込んで、真っ白でその様は白い瀑布がかかっているように見えることだ。

かつての花の瀧

明治14年(1881)以降は、明治用水の水が瀧口から流れていました。花の瀧や菖蒲池、八幡池は、昭和54~58(1979~1983)年ころまでありましたが、ほ場整備により姿を消しました。

安城市教育委員会



八橋は在原業平の伊勢物語で名高く、紀行文にはほとんど残らず取り上げられている。しかし杜若(かきつばた)の季節は短く、花がなければ、ただの湿地帯である。しかも管理が行き届かない平安前期であれば、一時的に橋を架けたとしても幾ばくもせず腐朽して消滅してしまったであろう。


謡曲「杜若(かきつばた)」と業平の和歌(現地案内板)

 謡曲「杜若」は、在原業平が都から東へ下る途中、三河国八橋で美しく咲く杜若を見て都に残した妻をしのび「かきつばた」の五文字を句の頭に置いて
唐衣きつつなれにし妻しあれば  はるばる来ぬる旅をしぞ思う」と詠んだと書かれている伊勢物語を典拠にして作曲されたものである。東国行脚の旅僧の前に、業平によって詠まれた杜若の精が女の姿で現れ、伊勢物語の故事を語り、業平の冠と高子の后の唐衣を身につけて舞い、業平を歌舞の菩薩の化身として賛美しながら杜若の精もその詠歌によって成仏し得たことを喜ぶという雅趣豊かな名曲である。
謡曲史跡保存会


 

 


<八橋の平安~鎌倉時代の地形>


現在無量寿寺がある場所は逢妻男(あいづまお)川の河畔だが既に湿地ではない。しかし鎌倉時代以前は低湿地であったと思われる。水が南から極めて緩く傾斜し網状に広がり流れ落ち、そのため街道を通過するときも板橋をあちこちに渡して渡る必要があったということではないだろうか。鎌倉時代にはすでに蜘蛛手ではなく2本の流れに集約されていたようだが。


 

在原寺(案内板)


臨済宗妙心寺派。在原業平の菩提を弔うために建立されたと伝えられている。業平塚は西方約300mのところにある。

寺宝

十一面観音菩薩  立像

薬師如来  坐像

在原業平  立像

釈迦涅槃の図  西阿

八橋売茶方厳  墨跡

庭園には義玄、若沙の句碑、和風の歌碑など見るべきものも多い。
<業平の竹>

在原のありし昔を伝え来て  のこる形見の竹の一ふし  
業平の女性の恋物語の故事に因んで縁結びの竹とされました。この竹の箸にて子供に食べさせれば「左ききが右ききになる」との説が昔より伝えられている。


八橋の丘陵を下り逢妻男(あいづまお)川を渡る手前左側に根上り松、右側に業平塚がある。


 

八橋伝説地


県指定文化財(名勝)昭和40年5月21日指定

 ここ八橋は、古代から中世にかけて東海道が通り、平安時代に成立した『伊勢物語』第九段に登場するところとして知られる。沢に美しく咲く「かきつばた」を見て、在原業平がこの五文字を句の上にすえて「から衣 きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもふ」と旅の心を詠んだ。以来、八橋は文学作品、能、絵画、工芸品などに取り上げられてきた。

 かつては湿地が多くカキツバタが自生していたのであろう。付近には業平ゆかりの史跡などがある。

知立市教育委員会

<業平供養塔>

 無量寿寺の寺伝によると在原業平没後に遺骨を分け、寛平四年(892)にこの地に塚を築いたといわれる。しかしこの供養塔はそれよりのちに業平をしのび建立されたものと考えられる。

 塔は全高約1mの宝篋印塔である。塔身には梵字(金剛界四仏)を刻し、基礎は上部に反花(かえりはな)を持ち四辺に格狭間を配している。全体の様式から室町時代頃の建立と推定される。

 地元では笠のくぼみにたまった水をいぼにつけると治るといい、「いぼ神さま」として信仰されている。

知立市教育委員会

<根上がりの松>

 根の部分にあった土が年月を経て流出し、現在のように根が上がったように見えることからこの名が付いた。この松は、歌川広重の浮世絵『五十三次名所図会』中に描かれている松に当たると思われ、したがって、少なくとも江戸時代後期には、既にこの地に存在していたと考えられる。

 この松の種類はクロマツで、樹皮は黒褐色、葉はアカマツより太く剛い。材質は堅固で、建築材料や薪として用いられ、樹幹から松脂をとる。アカマツの雌松に対し、雄松と呼ばれている。

  なお一説には、この松は鎌倉街道の並木の一部であったとも言われている。

知立市教育委員会



八橋を過ぎて尾張との国境の境川まではただ野原を歩くのみである。

 

 


富士塗料工業所内を抜ける鎌倉街道


駒場から西に向うと街道の左側に東海鉄工、不動寺、永田鉄工所などが見え、前方突き当りに古い工場が見えてくる(富士塗料工業所)。ここで注意すべきことは、道なりに公道を左折せず直進することである。直進方向には工場に挟まれた細い路地があるが、この私道こそが鎌倉街道である。直進せず道なりに左折すると龍ヶ根池まで大きく迂回することになる。この辻で周囲を振り返ってみていれば辻の東側に「鎌倉街道と中田」という案内板もあり、気づけたはずだが筆者は通り過ぎてしまった。旅から帰ってグーグルアースで調べるとちゃんと通り抜けられるようになっていた。


尾藤氏の著書によれば、ここまでの鎌倉街道は豊田市と刈谷市の市境ともなっていて、道がぶつかる富士塗料工業所の敷地は両方の地域をまたぐ。しかし会社のご好意で由緒ある鎌倉街道を残すために工場分断もやむなしと道を残していただいているとか。

※この会社は2018年6月に工場火災に見舞われ、その後経営的にもいろんな経緯があったのか、2021年に(株)富士開発という会社に商号変更されている。2022年現在ではまだ建物には富士塗料工業所の名称が残っているが、いづれ新しい名称に変更される可能性があるので、旅の目印としては要注意である。




 


③境川の渡り


龍ヶ根池→児(ちご)塚(富士松乳業西三河ミルクセンター)→大池→祖母神社→永福寺→酒井神社→境川渡し




龍ヶ根池を過ぎ、稚児塚のある辻を過ぎたあたりから、古道の痕跡が消失する。これは耕地整理、宅地開発、伊勢湾自動車道の建設などにより地形が一変したためであろう。富士松乳業西三河ミルクセンターの建屋に面した植栽の中に隠れるように丸っこい石碑が立てられている。この稚児塚は実際には「兒塚」と刻まれている。これがどういう意味の塚なのか、いつからここにあるのか、一切わからない。少なくとも地蔵堂とともに鎌倉街道の屈曲点を示すものとして置かれたことは疑いない。これより先は古道を追いようがないので、道なりに進み、国道54号線に下りそのままの方角で富士松図書館脇を通り県道289号に出る。祖母神社入り口の標識があるところから神社に向かう。





 

『平安・鎌倉古道』の調査された昭和40年代まではわづかな道影が残る部分もあったようだが、現在は全くないので直接、目印の寺社に向かう。祖母神社境内にはわづかにそれらしき道が残るが、外部の道には通じていない。


 

 

祖母神社から渡し場とされる酒井神社までのルートは二つの可能性が挙げられてるが尾藤卓夫氏調査の時点で既にあいまいになっていた。今となっては圃場改良工事の結果すべてが消滅しているので、いずれが本道かはわからない。時代により変化した可能性もある。



祖母神社(現地案内板)

東境村の加藤四郎左衛門が久安3年(1147)家に帰る途中白髪の老婆が現れ、「私は祖母嶽明神である。永くこの村を守ろう」と言って軸を渡した。軸を開いてみると、不動明王の尊像だったので、これを御神体として、その地を御社として、祖母大神と崇めたといわれる。嘉吉2年(1442)創立という説もある。祭神は伊邪那美命。
 鎌倉街道伝承地(市指定文化財)として境内に鎌倉街道の跡と伝えられる道が残されている。

平成14年3月  刈谷市教育委員会


 

④二村

境川渡し→大久伝八幡社→十三塚→青木地蔵→鹿島神社→皿池→豊明神社
境川を船で渡り大久伝(おおくて)八幡社に向かう。この神社は古いものではないが、池大雅の扁額があることで有名。鎌倉街道がこの社の西を通っている江戸時代の絵図があるという。

 

大久伝八幡社の扁額(市指定有形文化財)

この扁額は、池大雅(1723~1776)が大久伝の兼子源四郎家に逗留中揮毫したものを、文化五年(1808)欅板に刻し、八幡社に寄進されたものである。大雅は南画の大家で、県下にも数々の名作が残されている。

豊明市教育委員会

大久伝八幡社御由緒(豊明市大久伝町東百番地)

御祭神 応神天皇 開拓神 武門の神 素戔嗚尊 農神 疫神「牛頭天王」の神

慶安二年十月(1649)兼子平左衛門は神官土井重太夫と相談、畿内岩清水八幡宮より応神天皇の御分霊一坐を勧請、現在地森腰に創建。産土神として鎮座す。

同年字下白毛に京八坂神社より素戔嗚尊の御分霊一坐を勧請奉祀し天王社を創建す。

 古棟札に享保十七年(1732)八幡社御社殿を修復、明和3年(1764)八幡宮覆殿を寄進。安永年間(1772~80)絵師書家として著名なる池野大雅が大久伝の豪家兼子源四郎家に逗留中八幡宮と書き標し、後文化五年(1808)同家より欅の板にこれを刻し扁額として寄進され社殿に掲げ現在に伝承される。文化四年(1807)庄屋兼子庄次郎は社殿の矮小なるを遺憾と欲し御社殿の大御造営をなす。文久二年(1862)豪家中島金右ヱ門は水源である勅使池の改修に伴う完工記念として名古屋の工匠伊藤平左衛門をして現在の拝殿を御造営。明治十二年(1879)現在の御本殿を御造営、明治四一年(1908)字白毛の天王社を御本殿に合祀、昭和8年(1933)伊勢神宮第五八回式年遷宮の御用材を戴き現在の祭文殿「中殿」を御造営。



大久伝八幡社と宮大工伊藤平左衛門

大久伝(現大久伝町)中島(現新田町)吉池(現新田町)高鴨(現三崎町)川部(現沓掛町)は江戸時代初期、鬼頭景義により新田開発され、近隣各地から大勢の人が移り住み、集落を形成し、開墾開発した。寛文四年(1664)に検地を受け十九年後の天和三年(1683)に「上り地」となり「御蔵入り」している。

 大久伝の地域は、当時鎌倉街道沿いにあり境川を挟み、西三河地方との交通に便利で地の利を得て農業ばかりでなく、早くから商業活動が活発だった。また物流とともに文化交流も促進され、経済的にも恵まれて、俳人兼子義玄を始め多くの教育文化に秀れた人材を輩出した。

 氏神として祀られている大久伝八幡社は慶安二年(1649)組頭兼子平左衛門、当時神官土井重太夫と謀り、八幡社を歓請し森腰に鎮座する。その後庄屋兼子庄次郎が拝殿の小なるを遺憾とし、建物を改造する。 

 文久二年(1862)中島金右衛門は、勅使池改修記念として、拝殿造営を発起した。中殿の用材は、伊勢神宮第五十八回遷宮の払い下げ材で建てたと言われている。(市史資料編四より)

(以下略)豊明市文化財だより


境河畔から沓掛丘陵の間の水田は江戸期以降の開田であるから、平安・鎌倉時代にはまだ一面の草原であったと想像される。道は渡し場から一直線に豊明消防署のハス向かいに位置する水田中にある青木地蔵方向に向かった。大楠の下に現在お祀りされている地蔵は代わりのものだという。経緯を記した立て札の文字は完全に消えて判読できないので、沓掛に移転した現在の青木地蔵尊の案内板を下に示す。

青木地蔵尊(※沓掛の現地蔵の案内板)

古来より鎌倉街道のほとり、宿、大久伝の間の今も残る大楠の下に安置されていた。台石には今は判読できないが「仁治二」(1241)の年号が刻まれている。大正六年に現在地(豊明市沓掛町寺内)に移された。

昭和五十二年四月一日指定 豊明市教育委員会


 

そこから丘陵の縁を辿り鹿嶋神社に向かう。鹿嶋神社は古くは川島神社といわれていたという。
逢見ては心ひとつを川島の水の流れの絶えじとぞ思ふ(在原業平、伊勢物語二十二)

(この歌と鹿嶋神社が関係あるかは不明)


 

(3)二村駅について


駅制が機能していた頃、尾張国には両村駅があったとされる(倭名類聚抄)が、遺構は発見されていない。この両村駅の位置については従来から二村山のある「宿」辺りと考えられていた(古代日本の交通路Ⅰ p.112、大明堂)。その外にも候補地はいくつかある。豊明市沓掛町上高根、行者堂遺跡では8世紀と見られる丸瓦が発掘されており、駅家跡である可能性が高い。この場所は境川から一段引きあがった場所にあり東側に眺望が開ける(梶山 「古代東海道と両村駅」『名古屋市博物館紀要』23巻、2000)。
しかしながら、律令時代に設置された駅家は平安前期から条件の悪い順に廃絶に追い込まれていった。上高根に駅家が設けられたことがあったとしても、そのルートを通過した文献がないので、早期に廃絶したのではと考えられる。
一方、平安時代の寛仁4年(1020年)更級日記には『二むらの山の中にとまりたる』に続き『尾張國、鳴海浦を過ぐるに…』と鳴海方面に抜けている。その約200年後、建久元年(1190年)には源頼朝が二村山を通り、次の歌を残している。


よそに見しをささが上の白露を たもとにかくる二村の山  源頼朝

その後も多くの文人が二村山を通過している。以上の事から平安時代中期から鎌倉時代には二村山ルートが東海道の本道であったと考えてよい。この二村近傍に駅家を求めるとすれば、どこが適当だろうか。駅家位置については武田勇氏が現地調査し、宿営の為の所要平坦面積から「皿池」と「宿」の位置に候補地を絞り込んでいる。ちなみに”宿”という地名は、鎌倉時代以後に始まるものだという。この「宿」集落は開けた場所にあり、山中のイメージはない。従って平安時代鎌倉時代の宿営地はもっと二村山に近いところである。街道の宿営地となれば駅家であろうがなかろうが、馬を扱う関係上一定の面積が必要であり、現在、頼朝歌碑がある二村峠では狭すぎる。その点から考えると現在はため池となっている、「皿池」以外に適地は考えられない。「皿池」がいつ築造されたか不明だが、自然の池でないことは古墳と接していることからも明らかである。前掲の飛鳥井雅有の『みやこ路の別れ』では「二村は木もなし」とあるが、これは宿営地であるため木を切り払った広場であったことを示すものではないだろうか。画像で古墳のある側が山側の端である。

《皿池築造時期について》
前掲資料「大久伝八幡社と宮大工伊藤平左衛門」によれば江戸時代初期に新田開発が行われた。用水、ため池などの灌漑用水の確保はセットで行われる可能性が高い。とすれば池の築造は最大さかのぼっても江戸時代初期ではなかろうか。つまり戦国時代以前は草の生える平坦地であった可能性が高い。
参考『大久伝(現大久伝町)中島(現新田町)吉池(現新田町)高鴨(現三崎町)川部(現沓掛町)は江戸時代初期、鬼頭景義により新田開発され、近隣各地から大勢の人が移り住み、集落を形成し、開墾開発した。寛文四年(1664)に検地を受け十九年後の天和三年(1683)に「上り地」となり「御蔵入り」している…』
もう一つの疑問はここが、ずっと平坦地であった理由である。普通なら多少乾燥していても疎林くらいは生えていそうなものだが。池の底に何か地質的原因があるのだろうか。
 

下に示す大正9年測図の地形図中、②が推定鎌倉街道である。①は上高根に駅家があった場合の推定駅路






<関連経由地>


  • 鷲取駅家跡(長者屋敷):愛知県岡崎市宇頭町字新長者屋敷

  • 熊野神社(踏分の森):愛知県安城市尾崎町亥ノ子19

  • 日吉神社:愛知県安城市浜屋町宮西34

  • 東山中学:愛知県安城市里町東山1

  • 里町小学校(七曲り):愛知県安城市里町足取1-5

  • 不乗森(乗らずのもり)神社:愛知県安城市里町森38

  • 花の瀧:愛知県安城市里町菖蒲池38

  • 無量寿寺:愛知県知立市八橋町61-1

  • 浄教寺:愛知県知立市八橋町神戸23-1

  • 在原寺:愛知県知立市八橋高道8-1

  • 駒場小学校:愛知県豊田市駒場町新生58

  • 児(ちご)塚:富士松乳業西三河ミルクセンター愛知県刈谷市東境町住吉60

  • 大池:刈谷市立富士松北保育園の南、愛知県刈谷市東境町大池、池は現存せず

  • 祖母神社:愛知県刈谷市東境町町尾52-1

  • 永福寺:愛知県刈谷市西境町御宮91

  • 酒井神社:愛知県刈谷市西境町本郷7-1

  • 大久伝(おおくて)神社:愛知県豊明市大久伝町東100

  • 青木地蔵尊:豊明消防署(豊明市沓掛町宿234)ハス向かいの田んぼの中

  • 鹿嶋(川島)神社:愛知県豊明市沓掛町宿75

  • 皿池:愛知県豊明市二村台7-41-3

  • 豊明神社:愛知県豊明市沓掛町峠前21-116(この社は昭和の創建で歴史的神社ではない)

  • 二村峠:愛知県豊明市沓掛町峠前・皿池上
 

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