更級日記の東海道の旅をもとに平安時代の古地形や文献で平安時代日本を再現
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東山道鳥籠(とこ)駅、鳥籠の山、床の山について

近江国の古代東山道には篠原、清水、鳥籠(とこ)、横川の4駅が置かれていた。ここでは鳥籠駅の現在地を探り、歌枕ともなった『とこ』あるいは『とこの山』との関係を考察する。


(1)『鳥籠の山』の引用例


『鳥籠の山』という地名は日本書紀、天武天皇、上巻に初出する。壬申の乱で大海人軍が大友軍を追い、近江の犬神郡で敵を討つ場面である。(武田祐吉校注『日本書紀六』p.31、朝日新聞社)


『戊戌の日(九日)、(村国連)男依ら、近江の将秦友足を鳥籠の山に討ちて斬りき』

ここに記される『鳥籠の山』は明確な地名である。村国連男依(村国のむらじおより)らは息長の横河で勝利し、その勢いで近江軍を追撃してきた。時は7月9日、西暦(グレゴリオ)672年8月10日である。近江軍は地元の豪族秦氏を将として鳥籠山に立て籠り、梅雨が終わり増水した芹川を防衛線として抵抗したのであろう。その場所としては、下の写真の旭ヶ森(別名トコヤマ)が最も適当である。


その後、万葉集には次の二首が現れる。

  近江路の鳥籠の山なるいさや川 けのころごろは恋ひつつもあらむ (巻四 487)

(意訳)
「近江路の鳥籠の山にある不知哉(いさや)川だよね、さあねーと良い返事もないが、もうすこしばかり、じれったいが待ってみよう」

  犬上の鳥籠の山なるいさや川 いさとを聞こせ我が名告らすな (巻十一 2710)

<意訳>

「犬上郡の鳥籠の山にある不知哉川だな、さあねーと言ってらっしゃい、私の名をバラさないでね」

上の二つの歌は「いさや(さあどうなんでしょうね)」という語を引き出すために、不知哉川を引き合いに出したものである。それはともかく、その不知哉川は鳥籠の山のすぐそばを流れていたのである。不知哉川と考えられているのは現在の芹川である。

一方、平安時代以降には「とこ」、「鳥籠」、「床」などの形で歌枕となり歌に詠まれていたが、現地での作歌とか現地を思い浮かべてのものではなく修辞的用法に過ぎず、ここから、鳥籠の山の地理的手がかりは得られない。

※鎌倉時代には地元でも不知哉川の名は忘れられていたようである。『春の深山路』(飛鳥井正有)で不知哉川について地元民に尋ねる場面があるが、知らなかったと言ってがっかりしている。


  あだに散る露の枕に伏しわびて 鶉(うずら)鳴くなり床の山風 (藤原俊成孫女、新古今和歌集、巻五 514)
この歌は近江百人一首にも収録され、そこでは「床の山」が「鳥籠の山」と書かれている。歌の内容を見れば「枕」と「床」、「鶉」と「鳥籠」が縁語なだけで実際の鳥籠山とは何の関係もない。
次に東関紀行の歌を見てみると、

都出て幾日もあらぬ今宵だに片舗(かたしき)わびぬ床の秋かぜ
 これは武佐寺(長光寺、近江八幡市長光寺町)の近くに宿泊した際に詠まれた歌である。作者は長光寺の裏山を鳥籠の山と勘違いしている。鎌倉時代には都で歌をひねっている歌人ばかりでなく、実際に旅する人にも鳥籠の山がどこだかわからなくなっていたようである。



 


(2)鳥籠駅の位置は東山道建設プランからわかる


駅路は地形が許す限り直線的に引かれた。平地が多い近江国湖東地域はその原則に従い、いくつかの直線を組み合わせ、その結節点に駅家が置かれた。そこから、少なくとも当初の鳥籠駅の位置は明瞭で、犬神郡正法寺町あたりにあったと推定できる。(東山道路線図)


下に鳥籠の山推定地の地形図と概念図を示す(黒坂周平『東山道の実証的研究』p104、吉川弘文館)。地形図は明治24年測図で、名神高速道路、新幹線が建設以前の原地形がわかる。


『完全踏査 古代の道』p.105(武部健一、吉川弘文館)で解説されているように湖東の東山道は伊吹山を目ざすように篠原ー清水、清水ー鳥籠間は建設されている。

 
清水駅を出て直線部分が尽きる地点は上記概念図で中山道(古代東山道)、新幹線、名神高速が収束する隘路部分である。駅家はその手前に設けられると考えられるので、その場所は中山道沿いの彦根市原町の原八幡宮か、その東側のお向かいの浄琳寺あたりが候補地となる。特に中山道の東方の方が少し開けているので適地に思える。ただし、現在この地域は名神高速道路のインターへの進入道路敷地となっており、相当な地形変更が加えられているので、駅家遺構が発見されるかは期待薄である。


次に、仮にここが鳥籠駅家とした場合、諸解説書は鳥籠山は旧正法寺(現、慶光院。山号:鳥籠山(ちょうろうざん)のあった山であるとしているものが多い。しかしそれだけで、この山を”鳥籠(とこ)の山”と呼んでいいものであろうか。


(3)鳥籠(とこ)はこの地域の広域地名か


尾藤卓夫氏は鳥籠はこの地域の広域地名とする考えもあるとしている(『平安鎌倉古道』p.357)。

前掲した万葉集の歌により鳥籠の山と不知哉(いさや)川が近接していることは確実である。とすれば、正法寺山は不知哉川から約1.5~2km北にあるので鳥籠の山とはいえない。しかしながら不知哉川(芹川)沿岸から地峡部に至る低地部が「鳥籠(とこ)」と呼ばれていたとすれば解消する。そのおおよその領域を概念図にピンクの線で示した。
ここで考えておきたいのは明治24年の地形図ですら既に平安時代の状態ではなくなっている可能性が高い。この辺の中山道を歩くと、土砂崩れを警告する看板が所々にある。この辺の地質は元々、堅固ではなく、大雨や地震で崩壊した斜面が多かったのではないだろうか。既に述べた鳥籠駅家の推定位置は現在では緩い斜面の中腹上にあるが、往時はかなり平坦な崖下であったが、土砂崩れで埋まってしまったのかもしれない。大日本地名辞書(吉田東吾)では鳥籠駅家は鎌倉時代の小野宿の位置であったとしている。もし奈良時代に土砂災害で鳥籠駅が埋没したのであれば、当然安全な丘陵上に移転していたことはあり得る。

 

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