更級日記の東海道の旅をもとに平安時代の古地形や文献で平安時代日本を再現
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東山道篠原駅家の所在地は野洲市小篠原か大篠原か

  東山道篠原駅は近江国野洲郡にあった。ところが現在、野洲市には篠原という地名には小篠原と大篠原があり、どちらに駅家が置かれたのか二説に分かれている。これまでに言及された文献を以下に上げる。


足利健亮:日本古代地理研究p.338

黒坂周平:東山道の実証的研究p.94

武部健一:完全踏査古代の道p.103

桑原幸徳:古代日本の交通路Ⅱp.2


(1)両説の論拠


A.大篠原説

  その典拠は鎌倉時代に書かれた『東関紀行』である。まず原文を見ると、

『 篠原といふ所を見れば、東へはるかに長き堤あり。北には里人栖をしめ、南には池のおもて遠く見えわたる。むかへのみぎり、みどりふかき松のむらだち、波の色もひとつなり。南山のかげをひたさねば、青くして滉瀁(こうよう)たり。洲崎所々に入違て、芦かつみなど生渡れる中に、鴛鴨の打むれて、飛びちがふさま、足手をかけるやうなり。都を立旅人、此の宿にこそ泊まりけるが、今は打過るたぐひおほくて、家居もまばらに成行など聞こそ、かはりゆく世の習、飛鳥の川の渕瀬にはかぎらざりけめとおぼゆ。


ゆく人のとまらぬ里と成しよりあれのみまさる野路の篠原


(作者はここには泊まらず約2㎞先の鏡の宿に宿泊した)

多くの歴史地理の研究家は東山道、篠原駅家は大篠原にあったと考えている。足利健亮氏、黒坂周平氏、武部健一氏等。典拠は東関紀行である。

*武部氏は小篠原を駅家とされているが、その説明内容は大篠原であり、勘違いされているようである。

B.小篠原説

一方、桑原氏は駅家は小篠原であると考えている。その根拠は



①駅間距離は小篠原の方が自然

勢多ー小篠原ー清水-鳥籠

②倭名類聚抄記載の野洲郡郷名が篠原、駅家の順

篠原郷が大篠原で駅家郷が小篠原に対応すると考えられる

③小篠原には郡衙と見られる遺構(小篠原遺跡)がある

駅家は郡衙や交通の分岐点など重要施設の近くにある。

  平治物語には「篠原」はそこにある溜池「篠原堤」という名称で登場し、それは近江名所図会の説明のように「小堤」と同義である。
『三上山を見て野径をつたひ、小篠原てふ中へ出でて顧れば、比叡の山三つの峯に見えて、富士の俤(おもかげ)に似たり。三ッ坂を越えて砂川あり。右の方にからかさ松とて、傘に似たる古松あり。それより桜はざま・辻町むらを過ぎて矢棟(やのむね)川あり。矢のむね村は火うちの金を作りて売る。小堤といふは篠原堤成。大篠原に産土神(うぶすな)あり。又糯(もちごめ)の名物なり。』(近江名所図会p.288(柳原書店))


(2)両説の検証


大篠原説(二通りの考え方が可能)


(その1)
  大篠原を篠原駅家とする説は『東関紀行』の記述に依っている。描写されている風景は確かに大篠原である。そして以前は都からくる旅人はここに泊まったということは事実かもしれない。しかし、鎌倉時代から見てその時期がいつのことかについて述べられてはいない。そもそも宿営地が律令時代から一足飛びに鎌倉時代の宿制度迄変わらなかったということは考えられない。鎌倉時代には奈良時代は、相当な知識人でなければ知らない観念上の世界である。東関紀行の作者が言う「大篠原が宿泊地とされた時代」はせいぜい平安末期頃の話ではないだろうか。大篠原の集落は街道から多少東の丘陵側に入ったところで不便であったし、”野路の篠原”というごとく枯野の笹原の中に数軒の農家がある程度だったのだろう。そこをパスし2㎞程頑張れば、街道沿いに古くから製陶業を業とする鏡集落があるので、旅人はそこに宿を借りるようになったのではないだろうか。

(その2)
  東関紀行の作者は野洲郡に小篠原と大篠原があることを知らず、篠原堤に差しかかった時、枯野の奥に見える大篠原の集落を見て「ああ、これが延喜式にある篠原駅家のあった篠原の集落だ」と早合点し、「往古は駅馬を15匹も置いていたのに、今は何とみすぼらしい農家の有様よ」と勝手に哀れを感じたのではないか。


小篠原説


①駅間距離

明治時代の五万分の一地形図上で、江戸時代の中山道に沿って各駅間距離を測定した。
京都東南部:明治42年測図、京都東北部:明治42年、八幡町:明治25年、多景嶋:明治26年、彦根町:明治24年

駅家の現在地を以下のように仮定した。


  • 勢多駅:大津市神領3-6(堂の上遺跡)

  • 篠原駅(小篠原):野洲市小篠原字池田1284(小篠原遺跡)

  • 篠原駅(大篠原):野洲市大篠原100

  • 清水駅:東近江市五個荘山本町

  • 鳥籠駅:彦根市原町244

  • <駅間距離(小篠原の場合)>
    勢多ー小篠原 16.7㎞

    小篠原ー五個荘山本町 17.9

    五個荘山本町ー彦根市原町 15.9


    <駅間距離(大篠原の場合)>

    勢多ー大篠原 20.2㎞

    大篠原ー五個荘山本町 14.4

    五個荘山本町ー彦根市原町 15.9



    以上のように小篠原の場合は、ほぼ駅間は均等で、大篠原の場合は不均等になる。


    ②倭名類聚抄の郷名


    近江国野洲郡には以下七つの郷が挙げられている。


    三上、敷智、服部、明見、邇保、篠原、駅家


    篠原郷と駅家は別の集落であることがわかる。篠原郷、駅家郷の領域は不明だが、おそらく大きいほうに篠原名を冠するであろうから大篠原が中心集落であろう。とすれば小篠原が駅家郷となる。


    ③小篠原遺跡は郡衙遺構か?


    この遺跡は飛鳥時代から中世迄多くの時代の遺構が含まれる複合遺跡であることが明らかになっている。裏返せばこの土地にはそれだけ人が生活するための条件を備えていたということである。又現在も野洲市役所があるように統治の中心地でもあった。この地に郡衙があった可能性は高く駅家もこのような場所の周辺にあるのが自然である。


    ④篠原に大と小が着く二つの郷の起源


    篠原という地名から想像される土地は笹などで埋め尽くされた原野である。おそらく人の手が加わらない往古にはそのような景観が広がっていたのだろう。いずれにせよ両篠原は同じような植生の土地だった。ササ(篠)はイネ科の植物で河川の氾濫で土砂や水をかぶっても、逞しく根付いてしまう植物である。琵琶湖東岸は大雨の度に山地から花崗岩が風化した砂礫や水が流れ出し、他の植物はなかなか根付けないが、ササは他の植物より優勢的に繁茂できた。このような野洲郡の原野を古代人が開拓する際、まず東山道となる道路と砂防を兼ねたダム(盛土)をつくり原野と水田を営む地域を区切ったのではないだろうか。湖岸側は条里区割りの耕地が開かれ、山側に残った東側の原野が大篠原、西側の規模が小さいほうが小篠原として残った。時代が下り開拓が進むにつれ篠原と呼んでいた原野も農耕地に変わり、地名となった。


    (3)結論、篠原駅家は小篠原にあった


      筆者は桑原幸徳氏の、篠原駅家、小篠原説が妥当と考える。大篠原説は東関紀行の作者が500年前の歴史事実について正確な知識を持っていることを前提としている。しかし、実際には作者は小篠原、大篠原の区別もしていないし、篠原堤の名から単に篠原駅家を連想したに過ぎない可能性がある。従って紀行文の内容をもって篠原駅家を大篠原に比定するには根拠に乏しい。


    篠原駅家の想定地


      篠原駅家が仮に小篠原にあったとすると、その候補地としてどのような場所が考えられるだろうか。野洲郡衙として小篠原遺跡が有力候補となっているが、その近傍に駅家もあったと考えられる。調査が行れた小篠原遺跡は小篠原上池田地区が中心である。その領域は現在まだ確定されていないが東端は「堂ノ前」の字が残る、養専寺辺りまであった可能性がある。そこから程遠くないところに稲荷神社がある(野洲市小篠原768-1)。中山道に面する一ノ鳥居からは想像できないが、この神社は境内図のように奥が深く元々は一辺が150mほどもあったのではないかと思わせる。東山道(中山道)沿いでこのくらいの面積があれば駅家としては申し分ない。何の根拠もないが、この神社の由緒は古そうで、気になる場所である。


     


    稲荷神社

      神社縁起書によれば、天武天皇壬申の乱に野洲川原で戦死した人々の供養及び鎮護国家を祈願し、石域村主宿禰が福林寺を建立。その守護神として天暦2年(948年)伏見稲荷大明神を寺域小篠原志礼の地に勧請したといいます。


    (https://omairi.club/spots/91370/point)

     

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