更級日記の東海道の旅をもとに平安時代の古地形や文献で平安時代日本を再現
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鎌倉街道、青墓宿の現在地はどこか

  鎌倉街道の青墓宿は美濃路と平安東山道の連結点として繁栄し、鎌倉時代に古代東山道ルートが復活するとともに、その存在理由が消滅し衰微した、という事は別ページで述べた。青墓宿が大垣市青墓町にあったことは間違いないが、現在地でどこかを絞り込んでみたい。
*平安東山道とは青墓から北方の円興寺のある丘陵を迂回して野上に至る迂回道路。このサイトでの仮称。平安時代から鎌倉時代まで使われたようだ(当時の鎌倉街道の一部)。

青墓宿は平安時代から鎌倉時代初期まで繁栄した交通集落であった。駅家、宿の立地条件は一般的に


  • 東山道の沿道

  • 冠水のおそれがない

  • 水利がある

  • 広場がある(馬のとりまわしの為)


  •   更に青墓宿の場合、『平治物語』に敗北した義朝がいったん落ち延びた青墓宿から逃れる場面での風景描写が参考になる。

    物語の記述から、”宿の北に程近く、山があった”ことがわかる。

    以上の条件から、鎌倉時代初頭までの青墓宿はタイトル画像の地形図(大正9年)に赤線で囲んだ部分が最も条件に合致する。しかも隣接して粉糠山古墳があり、”遊女”との縁語で平安時代頃、古墳がそう呼ばれるようになった可能性がある。


    現代地図にプロットした平安東山道



    平治物語 青墓宿


      美濃国青墓の宿と申所に、大炊と申遊君は、頭殿の年来の御宿の主也、其腹に姫御前一人まします、此屋へつかせ給ひぬ。鎌田兵衛も、今様うたひの延寿がもとへつき候ぬ。此遊女共、さまざまにもてなしまいらせ候し最中に在地の者供、「此宿に落人あり。さがしとれ」と、ひしめき候しに、頭殿、「いかゞはせん」と仰られ候ひしを、佐渡式部太夫重成殿、「御命にかはりまいらせん」とて、頭殿の錦の御直垂をとってめし、馬にひたとのらせ給ひて、宿より北の山ぎはへ馳のぼり給ひしほどに、宿の人、追懸奉りしほどに、式部太夫殿、金作の太刀をぬいて、きやつばらを追つぱらひ、「をのれらが手には、かゝるまじきぞ。われをば誰とか思ふ、源氏の大将、左馬頭義朝」となのり、御自害候ぬ。宿人等、「左馬頭義朝、うちとゞめたり」と悦て、大炊が後苑の倉屋に頭殿、かくれてましますをば知らず。
    (平治物語 中、金王丸尾張より馳せ上り、義朝の最後を語る事、p.227、新日本古典文学大系、岩波)


    <現代語訳>


      大炊(おおい)という遊女は、以前から頭殿(義朝)が定宿にしておられた宿の(女)主人でした。頭殿との間には姫様がおありになりましたが、その家に着かれたのです。鎌田兵衛も今様の歌い手の延寿の許へ着きました。ここの遊女達がいろいろとおもてなしている最中に、村人たちが「この宿場に落人がいるぞ。探して捕まえよ」と大騒ぎになりました。頭殿が「どうしたものか」と仰っていると佐渡式部太夫重成殿が「お身代わりになります」と頭殿の錦の直垂(ひたたれ)脱がせて自分が着たのです。馬にさっと乗り、宿から北にある山の麓へ駆け上がっていくと、宿場の者たちが追っかけてゆきました。式部太夫殿は黄金(こがね)づくりの太刀を抜いて、奴らを追い払い「お前らの手には懸らんぞ。わしを誰だと思っている。源氏の大将、左馬頭義朝だ」と名乗り、自害されました。宿場の者たちは「左馬頭義朝を討ち取ったぞ」と喜び、大炊の家の裏庭にあった倉に隠れていらっしゃるのに気づきませんでした。

     

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