美濃国西部における東山道、鎌倉街道の変遷と野上、青墓の衰微
関ケ原以西の平安時代東山道は野上辺りまで、ほぼ江戸時代中山道と同じ経路を取ることが知られているが、野上から美濃方面に向かうコースははっきりしない。そして鎌倉時代の紀行文には青墓宿、野上宿と入れ替わるように赤坂宿(不破郡、現在は大垣市)が登場する。鎌倉時代に入りこの地域に大きな交通路変更があったと想像され、その原因が何であったかを考察する。
(1)美濃西部地域の基本街道の概略
①東山道の駅家
倭名類聚抄によればこの地域の駅家は以下の通りである。(倭名類聚抄、高山寺本、p.852、臨川書店)
不破駅→大野駅→方縣駅→各務駅→可児駅
各駅の現在地は解明されていないが、古代日本の交通路Ⅱ(大明堂)で上げられた候補地を以下にあげる。
・不破駅:垂井、青墓
・大野駅:呂久(現神戸町)、現大野町大野、現大野町南部
・方縣駅:岐阜市合渡、岐阜市長良
・各務駅:各務原市鵜沼
駅家位置が不明なので正確な駅間距離を求められないが、大まかな距離(km)を示す。
垂井ー13ー大野ー20-各務原
垂井ー10.5-呂久ー18.4ー各務原
大野経由の方が行程が長くなるが、東山道建設時点で、どうしても地形的に上流に迂回しないと渡河できない事情があった可能性もあり不合理とは言い切れない。
②中山道(江戸時代)
中山道の美濃西部の宿場は以下の通りである。
関ケ原→赤坂→美江寺→河渡(ごうど)→加納→鵜沼
③古代中世美濃路の通過点
「美濃路」とは美濃東山道と尾張東海道を連絡する重要道路であるが時代によってコースは変遷している。ここでは鎌倉時代以前のいわゆる「平安鎌倉街道」について論じている。美濃西部地域の平安鎌倉街道には不明確な点が多いが、尾藤卓夫氏の『平安鎌倉古道』の調査結果では概略以下のように提案している。
不破→野上→府中→円興寺→青墓→與市新田(杭瀬川)→笠縫→澤渡→墨俣
江戸時代の美濃路は垂井町追分から南東方向に最短距離で揖斐川渡河点を目指している。ところが古代中世美濃路は地形図に示したように低地を避けるように「青墓」から丘陵部をつなぐように南東方向に向かう。
下の概念図は三本の歴史的街道の位置を現代地図に書き込んだものである。
※注意:図中「平安東山道」、「古代中世美濃路」という街道名はこのHPだけでの便宜的用語である。
(2)『春の深山路』から探る鎌倉時代の不破郡通過コース
以上述べた三本の街道は相互に関連しているが、そこを実際に旅した人の記録があれば、その実態が明らかになる。
鎌倉時代の貴族、飛鳥井雅有は六十年の生涯において何度も京と鎌倉の間を往復し紀行文を残している。そのうち『春の深山路』には不破郡における通過地点間の里程が書き残されている。この紀行文は彼がどこを通って尾張の萱津に向かったかを里程とともに示している。あくまで、ざっくりとした値だが、以下の表に示すように、意外と納得のゆく数字である。これから次のことがわかる。
①鎌倉時代の1里は4.0㎞で江戸時代の1里に等しい
②飛鳥井雅有の宿泊地は、番場、野上、墨俣であり宿間距離は中山道ルートを取ると、それぞれ20.1、20.0㎞である。
飛鳥井正有は馬に乗って旅をし、替馬もつれていた。しかし供の者は徒歩で荷物を担いでいたので、それ程長い距離を歩けたわけではなかった。
尚、距離は明治24年5万分の1と大正13年2.5万分の1の地形図上でデバイダを使って計測した(カーブの部分があるので誤差は含む)。各宿の位置は以下のように仮定した。
番場:旧東番場会館(滋賀県米原市番場714)
醒井:中山道醒井宿の石柱(滋賀県米原市醒井428、いさめ橋たもと)
不破の関:不破の関跡(岐阜県不破郡関ケ原町大字松尾149-1)
野上:真念寺先(岐阜県不破郡関ケ原町野上1280)
墨俣:不破神社(岐阜県大垣市墨俣町上宿348)
表.『春の深山路』に見る不破郡通過地間の里程
区間 | 里程(里) | 地図上距離(km) | 経由コース |
番場(泊)ー醒井 | 1 | 3.5 | 中山道 |
醒井ー不破関 | 3 | 12.4 | 中山道 |
不破関ー野上(泊) | 1 | 4.1 | 中山道 |
野上ー墨俣(泊) | 5 | 20.1 | 中山道+古代中世美濃路 |
同上(山道コース)※参考 | 6 | 23.6 | 平安東山道+古代中世美濃路 |
(3)鎌倉時代以前の不破郡の交通
上記の里程表によれば山道を含む「平安東山道」を経由すると3.5㎞の遠回りとなり、番場、墨俣間の距離は約11里となる。一方、飛鳥井雅有『春の深山路』では番場ー墨俣間は10里としている。つまり雅有は湿地を避けて設けられた青野ヶ原北方丘陵の「平安東山道」は通らず、平坦地に直線的に造成された江戸時代の中山道に近いコースをたどったのである。また雅有35歳の時の旅日記『みやこ路の別れ』では「野上」に泊まらず「垂井」に宿泊している。つまり、その時にも中山道コースを取ったことが明らかである。
「野上」、「青墓」は中山道と平安東山道が交差する重要ポイントにあった。いずれも平安時代から遊女(あそび)を置く繁栄した宿であったことが知られている。ところが鎌倉時代のいつ頃か両宿はその繁栄を失う。雅有は「青墓の宿は昔その名高き里なれど今は家も少なう、遊びもなかめり」と述べ、更に野上には宿泊したが何の言及もなく早々に出立している。
では平安東山道(山道)はいつ頃まで使われたのだろうか。「野上」は更級日記により後世にその繁栄が伝えられた感があるが、既に鎌倉時代にはただの宿になっていた。室町時代に書かれた『藤河の記』(一条兼良)に至れば、かろうじて茶店があるだけの農村であった。交通集落が衰微する最大の要因は重要街道の路線変更である。考えられるのは”平地に設けられた直線的東山道”の復活である。鎌倉時代に交通インフラの整備が進められ、鎌倉街道、宿が全国に設けられたことはよく知られているが、青野ヶ原は真っ先にその対象となり得た。この地域は河川整理、堤防の整備がされれば水害防止だけでなく広大な耕地が得られるからである。源平動乱終結を契機として古代東山道が復活したのではないだろうか。奈良時代の初期東山道は、いつの頃か度重なる水害により遂に放棄され北面の丘陵を迂回するルートに変更されたと考えられる。そして臨時のバイパスが平安時代を通して本道になってしまったのではないか。
しかし戦乱がなかった400年に及ぶ平安時代なら、いつの時点でか復旧工事がなされそうなものではないか、という素朴な疑問が残る。確かに長い平安時代には戦乱こそなかったが、実は徹底して国家的インフラ投資が行われなかった。その理由は”平安時代『延喜の治』という大税制改革は菅原道真により成し遂げられた”で解説した。鎌倉時代の交通網整備の直接動機は兵の迅速移動を図る軍道建設にあった。特に”肝を冷やした”承久の乱以後、それは加速されたのではないか。これは後年の元寇にも役立ったと思われるが、それ以上に民間経済の発展に大いに寄与した。鎌倉幕府の成立は政治経済の変革と同時に、社会インフラ整備を大きく進めたのである。
以上の事から、不便な「平安東山道」は平安時代を通して続き、鎌倉時代初期まで利用されたが、幕府の命により”平らで距離も短い”東山道が復活してしまうと、「平安東海道」の入口であった野上宿、青墓宿などは素通りされ杭瀬川の渡船場である赤坂に宿が移ることになったと思われる。
平治物語によれば平治の乱に敗れた源義朝一行は関東に向け逃避の途上、青墓の大炊長者の屋敷にたどり着いた。しかし次男の朝長は合戦で受けた傷が深く(破傷風?)、同道できないと悟り父に首を打ってくれるよう頼む。この物語で最も涙を誘う場面である。義朝出立後、朝長の亡骸は大炊長者の手で青墓村から「平安東山道」を北に入った所にある円興寺裏の頂きに葬られた(現在の円興寺は谷を挟んで西側の丘陵に移転している)。当時、結構な伽藍を構えたこの寺があったことは、この時点で「平安東山道」が主道であったことを示唆する。(平治元年1159年12月のできごと)
以下に推定ながらも街道変遷過程をまとめてみた。
【不破郡の主要街道の時代的変遷まとめ】
- ・最初の駅路東山道は現在の中山道の位置に建設された
- しかし野上、青墓の区間は早期に崩壊し青野ヶ原という湿地になった。
- ・平安時代の東山道は崩壊区間のバイパスとして青野ヶ原北方の丘陵に迂回
- 青墓、野上は崩壊東山道の迂回道路への出入り口として繁栄
- ・鎌倉時代に当初の東山道ルート上に鎌倉街道が整備
- このルートを江戸時代中山道が継承。
<参考文献引用部分>
『春の深山路』不破郡通過部分
(十一月)十六日今日は道も遠し。又悪しき所多しとてあか月かけてぞ発つ。月峯に残りていと心細し
都とて月のゆくゑをながむればたゞ白雲の嶺の松風
醒ヶ井の清水は行く人も氷も今朝は結ばず。夏ならましかばかくすさむることなからまし。折にあはぬ身の上にて思ひしらる。 昔の日本武尊の伊吹の神のげに心地そこなへり給けるに、此水にて心地なをりたまへるよりさめが井となづくるよし日本記といふ文にみえたり。 されどこし方の恋しさ醒(さ)むるかたなし。今宵の宿りより一里とぞ云なる。伊吹の山を見れば雪いと白し。昨日の時雨は此の雪げにこそ不破の関近くなるまゝに藤川の橋渡るとてさきの旅上りし時思しことなどと思ひつゞけられて
いましはと思ひたえにし東路に また行きかよふ関の藤河
大車肥馬に乗らねど(大層な身分ではないが)世に長らえば、まへよ(前世)如何なることもこそと、はかなき行く末の頼みばかりになん。 不破の関屋を見れば東宮のいつとなく待ち遠にのみ思したる。御即位の時はこの関をも固めこそはし侍らんかしと思へば涙曇り、この旅数ふればみても十度にぞなるにや。醒ヶ井よりはこの関三里なり。
をかや(尾萱)葺く不破の関屋は我見ても 久しく成りぬ板廂(ひさし)かな
都にも不破の関とを今日越ゆと 東路ながら人は知るらん
野上の方を見やりて、関より此の所へは一里也。
関越えて野上の方を見渡せば霜(しも)の草葉に嵐吹くなり
春ならば鶯の声も聞きてましとうち眺めて宿を借る。番場より此の宿へは五里也。 猶道遠しと言えば暫し休むこともなく出でぬ。 青野と云名は春夏の緑ばかりにや。 秋はいろいろの花にこそあるらめと思ひやらる。この比は又ひとつ色ながらたゞ霜枯れにてぞあめる。 青墓の宿は昔その名高き里なれど今は家も少なう、遊びもなかめり。故宰相の名はおおかたの青墓の里とよみ給へりも、げにはかなく跡とも見えず。 赤坂の宿いつの度にか二たび泊りたりしぞかしと思へば何となく知らぬ里には似すぞ有かし。 住む所愛(いとし)とかや戒むるなるもげに理(ことわり)なりや。 笠縫河の橋いと狭くてたゞ板一つ渡したり。引かせたる馬落ち入りぬ。あさまし供目もあや也。 供なる者かようの方、人に劣らぬ物也ければ飛び入りて泳ぎつゝ引き揚げぬ。いつぞやもかゝること、この河にて有しこそむつかしき先例なれ。 暮れて墨俣といふ所に着きぬ。野上よりは五里とかや。 猶遠き心地ぞするや番場よりは十里也。此所のやう(様)河よりははるかに里はさかり(隔)りたり。 前に堤を高くつき(築)たれば山のごとし。窪みにぞ家どもはある。里の人の云うやう、水出でたる時は舟此の堤の上に行く。 空に行く舟とぞ見ゆるよ云ふを聞けば天の鳩船の飛び翔けりけんもかくやとぞ聞ゐたる。
野上考
岐阜県関ケ原町、野上は江戸時代の中山道における関ケ原と垂井間の間(あい)の宿として知られるが、起源は日本書紀に登場する古い集落である。この野上は更級日記の宿泊地となり、当時は遊女(あそび)などもいたことが知られ、平安時代中期には重要な交通集落であったようだ。しかしその後もその地は「野上」という歌枕として長く都人にも知られていたものの、宿駅としての機能は早期に失われ鄙びた農村として江戸時代に至っている。
交通集落の衰微、繁栄は街道の路線が通るかどうかで決まる。つまり野上衰微の時期は、既に述べたように東山道や美濃路の整備に密接な関係があった。
野上についての地誌はほとんど知られていないが、吉田東吾の大日本地名辞書にまとまった記述があるので以下に引用する。
<野上>
関原駅の東二十町余、相川の南にて、中山道之に係る。中世には聞こえし名駅なりしも、近世は荒寥の寒村たり、相川村とも称し、鶏籠山と菩提山の山勢相逼りて峡を成す間に位置す。野上長者の宅趾、並びに観音堂は今龍泉寺といふ禪院の地是也。
今野上村の南、鶏籠山の麓、往還より少し南の方へ入、観音堂あり、昔長者住居て、此に花子云遊女(あそび)有しが、吉田少将と云人、あづまの方へ下り」しに、此にて泊り、彼の花子に一夜の契を結び、又逢までの形見とて、扇を互に取かはし別れしより、花子閨を出ざる故、長者花子を追出しければ、狂女となりて都の方へ上り、遂に少将にめぐり逢ふ事を謡曲に作れり、其真偽は知らず。(木曽路図絵)
〇新撰美濃志云、野上は昔天武帝の行宮を興し給へる邑にて、中世は駅舎たり、東鑑、建長四年、将軍宗尊親王の関東下向の條に、昼餉は野上と載せたり、更科日記に、「野上といふ所につきぬ、そこにあそびどもいできて、夜ひとようたふに、あしがらなりし、おもひ出られて、真に恋しき事限りなし」としるし、名所方角抄に「野上の里、不破の関より二里ひがし也、美濃の中道といふ、此あひたなり、うかれめよめり」とかきし如く、こゝは遊女(あそび)のありし里なるゆゑ、古歌に多くは其歌に多くは其艶情をよみ来れり、其歌は六百番歌合に、寄傀儡纞(くぐつれん)、左、定家朝臣「ひと夜かす野かみの里のくさまくらむすび捨ける人の契りを」右、寂蓮「恨むべきかたこそなけれ東路の野上のいほの暮がたの空」
源三位頼政家集に、行路纞といへる事を、「打過し野上の里の妹を見てかへりくだるは涙なりけり」
新拾遺和歌集に、為秀「露しげき野上の里のかり枕しほれて出る袖の別れ路」
玄旨衆妙集、遊女「くれにけり野上の里の草枕たれとちぎりをまつむすぶらむ」とみえたり。
扨(さて)のちの歌にもかくのごとくはよみたれど、実は応永の頃(南北朝時代)にはや里もあれて、遊女もなかりしにや、慰み草に「藤川朝渡りしつつ不破に着く、野上などいふ所は、里もかすかにうかれめもなし」としるせり、藤川の記には「野上の茶やに輿(こし)をたてゝ、又ざれうたを、旅人にめざまし草をすゝめずば野上の里にひるねをやせん」と狂歌をよまれ、老の木曽越にも、「野上の里にて、なつ草をわけ来て見れば旅衣駒の野上にかゝる朝露」と、是又ざれ歌をのせられたり。
<野上行宮趾>
今詳ならず。諸書に桃配山を以て即行宮趾と為すは、慶長の大捷と壬申の乱を相混する者にして、桃配は野戦の陣地たるべきも、決して第宅の形勢にあらず、二者分別を要す。此行宮の事は、天武記に見え、又孝謙記に
従五位上尾治宿禰大隅、壬申年功田三十町、淡海朝廷諒闇之際、驚蹕、潜出関東、于時、大隅参迎奉導、掃清私第、遂作行宮、供助軍資。其功実重、(持統記云、以直廣肆、授尾張宿禰大隅、?賜水田四十町)
とあれば、民宅に就きて行宮を定められしを知る。後世に謂ゆる長者屋敷など云へるが、即行宮にもなりにける尾治宿禰の宅趾にあらずや、尾治氏の事は猶次の伊吹の條に参考すべし。
(従五位上尾治宿禰大隅が壬申の年の香典卅町、淡海朝廷の諒闇の際、義をもちて興し、蹕を驚(は)せしめ、潜に関東に出でたまふ。時に大隅参り迎へて導き奉り、私の第(てい)を掃い清めて、遂に行宮と作し、軍資を供へ助けき。その功実に重し。)
〇藤川記云、昔清見原天皇、美野の野上に假宮を立られしことは、日本紀の中にしるし侍れど、ほど遠き事なれば、宮の旧跡など、たしかに知る人は無かるべし、今は草刈りわらはの、朝夕の道と成りたるを見侍りて、
あげまきは野上の草をかり宮の跡ともいはず分けつつぞ行く。