更級日記の東海道の旅をもとに平安時代の古地形や文献で平安時代日本を再現
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美濃国青墓から野上に至る平安・鎌倉街道

  青墓から野上の間に広がる扇状地は青野ヶ原と呼ばれ、中央の平坦地には古代において美濃国府、不破駅家、美濃国分寺、東山道が置かれたが、いつ頃まで存続したかはわかっていない。しかし往時、この地域は地形的に相川をはじめとして網目状河川で覆われ、出水時には冠水し、水が引いても湿地化する耕地化が困難な地域であったと想像される。まづこの地域の古代重要施設がどのような場所に置かれたかを考察してから古代東山道の崩壊後に現れた鎌倉街道について述べる。



  • 美濃国府

  • 不破駅

  • 美濃国分寺

  • 東山道

  • 鎌倉街道(平安東山道)

  この地域は過去に繰り返し河川災害に遭っているため古道の痕跡が残りにくい。下の現代地図に示す鎌倉街道は尾藤卓夫氏『平安・鎌倉古道』に依ったが、過去の災害で失われた古道に加え、戦後の土地開発によって消滅した区間が多く、実際に歩いてたどれない部分が多い。とはいえ古道がどの地域を通っていたかについては文献が少なく貴重な手掛かりである。


(1)美濃国府


  美濃国府は倭名類聚抄に不破郡にあると記載されている。現在岐阜県垂井町には府中という字名があるので、この地区に国府があったことは古くから想定されていた。また、鎌倉時代に、国府政庁跡を保存するため安立寺が建立されたという伝承もあった。その後、平成3年(1991)から13次にわたり発掘調査が行われ、政庁正殿、東西二棟の脇殿の遺構が発見されて国庁の存在が確定された。発掘調査の結果、その領域は、東西約67m×南北約74mの規模であることも判明した。政庁は8世紀前半から10世紀中ごろまで存続したと見られる。国府政庁のおよその位置は南宮御旅神社から南にかけての微高地(標高40m)上にある。国府域の全体像については市街地にあるため確定されていない。因みに現在のこの付近の相川の川床標高は約29~30mである。


 

南宮御旅神社由緒(現地案内碑文)

祭神  金山姫命  南宮大神の御后神

相殿  豊玉姫命  安産成育守護神

          埴山姫命  沃土豊産守護神

  往古、諸国に国府を置かれた時、美濃国には要衝の地なるを以ってこの府中に定められた。着任した国司の美濃守は毎年正月元旦に国内の各社を次々と参拝した。その順位から一宮二宮三宮の名も生じ、国府には国中の諸神を招神して国の安泰を祈るを古例とした。当社の創建は国府の宮であった。

   国司の時代から守護の中世の代になると国府招神の古儀を承けて南宮の神の神幸は華麗なる母衣花に飾られた神輿三基は、相川の清流に禊の川渡りを行い御幸道(ごこうみち)を走り込みに依って参向した。在庁の守護代諸役人を初め郷人等がこれを迎えて奉拝するを恒例とする内、当社は次第に南宮神の御旅神社と仰がれるに至った。
   寛永十九年(1642)徳川家光公は春日局の諸願成就の願いを入れて南宮社を旧に復して再建した時、当社も深き神縁に依って造営の栄に浴した。以来将軍寄進の栄光を仰いで、その社構は堅く守られて現本殿に伝え残された。

   悠遠なる古代より神祭勤仕怠らず父祖相承けて守り来た中に近時広大なる玉垣を巡らして囲み、両社本殿もさらに瑞垣を以って斎い樹てるに至った、これは正しく全氏子等の厚き崇敬の結晶であり永く後代に讃えらるべき功業である。

   茲に謹みて改まる平成の御代の御大典斎行の年を迎えて心を新たにして益々祭祀を厳修し御神徳の弥栄を祈り奉る

例祭 四月五日 神幸祭 五月五日



白鬚神社由緒(略)

    南宮御旅神社  白鬚神社    宮司  宇都宮精秀  勤記




美濃国府跡 国史跡(現地案内板)

平成18年1月26日指定

岐阜県不破郡垂井町府中 所在



  国府とは、奈良・平安時代に地方統治のため国ごとに置かれた官衙(役所)のことで、中央から派遣される国司の出張機関でした。美濃国府は8世紀前葉に造営され、その後200年ほど機能していました。

平成3年から行われた発掘調査によって、美濃国府の主要な施設の配置関係が判明しました。政庁は東西約67メートル、南北約73メートルの長方形で、塀で区画されていました。政庁内には国府で最も格式の高い建物である正殿、南北に長い建物の脇殿などが建てられていました。また、政庁の東側には、国府の実務を行っていた役所群が建っていました。古代律令国家の地方官衙の実態をよく示しており、当時の美濃国の政治情勢を知るうえで重要な遺跡です。

平成19年3月  垂井町教育委員会


(2)不破駅家


  東山道不破駅は不破の関とは関係なく、垂井町の名泉が出る場所であると考えられてきた。具体的には垂井町垂井、玉泉寺のある場所である。上記美濃国府の南約700mに位置する。これは江戸時代の中山道の沿線でもある。前後の駅からの距離、冠水のおそれがない場所(標高約35m)、水場の存在、面積などの条件を満たすこと、さらに後世の中山道が建設当時の近江、美濃の東山道の路線を継承していると考えられていることから、不破駅が玉泉寺の辺りと考えても無理はない。

 


垂井の泉と大ケヤキ  (現地案内板)

  この泉は、県指定の天然記念物である、大ケヤキの根本から湧出し、「垂井」の地名の起こりとされる。「続日本紀」天平十二年(740)十二月条に見える、美濃行幸中の聖武天皇が立ち寄った「曳常泉」もこの場所と考えられており、古くからの由緒がある。近隣の住民たちに親しまれる泉であっただけでなく、歌枕としても知られ、はやく藤原隆経は

昔見し たる井の水はかはらねどうつれる影ぞ年をへにける『詞花集』

と詠んでいる。のちには芭蕉も

葱(ねぎ)白く 洗ひあげたる 寒さかな

という一句を残している。岐阜県名水五十選(昭和六一年)に選ばれている。

  この大ケヤキは、樹齢約八百年で、高さ約20メートル、目通り約8.2メートル。このようなケヤキの巨木は県下では珍しい。この木にちなんで、木が堅くて若葉の美しいケヤキを垂井の「木」とした。
 ( 垂井の大ケヤキは平成二七年に倒木しました)


(3)美濃国分寺


  

奈良時代、天平13年(741)国分寺造営の詔により全国で国分僧寺、尼寺の建立が開始された。美濃国では在地豪族の私寺の跡を利用する形で7層の塔、金堂、その他の付属建物からなる伽藍が建立された。実際の完成時期は不明だが、平安時代の仁和三年(887)に火災で焼失した。その後、寺は再建されたと思われるが、再び大規模破損が起こったらしく、平安時代、中期の寛弘元年(1004)に左大臣藤原道長の宣により、美濃国国分寺堂塔雑舎等の損害調査が命じられている。この時の美濃守は源頼光であった。おそらくこの後、美濃国分寺は再建されたと考えられるが、いつまで存続したかは不明である。関ヶ原の合戦後元和元年(1615)に国分寺の御本尊、薬師如来坐像が土に埋まった状態で発見され、それが契機となって遺構位置に近い山麓に現在の国分寺が再建された。大垣市歴史民俗資料館には国分寺復元模型が展示してある。

 



  美濃国分寺は初期東山道の沿道に近く、駅路、国府、国分寺、駅家はセットで奈良時代の一定の期間に建設されたと考えられる。全てが揃っていた時期の想像図を以下に掲げる(「美濃国分寺ものがたり」挿絵より、大垣市教育委員会・大垣市文化財保護協会)国分寺の前を通る道路が駅路東山道である。


(4)東山道

  別ページ『美濃国西部における東山道、鎌倉街道の変遷と野上、青墓の衰微』でも述べたように、駅路東山道は当初、直線道で設計された初期ルートからある時期に野上ー青墓間が北側の丘陵地を迂回するコースに変わっている。その後、200~300年を経て鎌倉時代に初期東山道コースに一応戻ったと考えられる(鎌倉時代紀行文)。しかし迂回路も本道が不通時に備え維持されていたのではないか。治水技術が進んだ江戸時代になって初めて当初の東山道ルートを踏襲した恒久的な中山道が建設されたと考えられる。

 迂回路を当サイトでは”平安東山道”と仮称しているが、この推定存続期間は平安時代前期から室町時代に及ぶ。この区間が、かくも長く不安定であった原因は常襲的水害であった。下図は垂井町周辺の大正9年測図の二万五千分の一地形図に平安東山道(鎌倉街道)を示した。地形図からわかることは周囲の山地に降った雨は南東方向に流れ相川に入り、杭瀬川、長良川を経て伊勢湾に排水される。(地形図は大正年間の状態で、既に治水防災工事が施こされた時代の状況であることに注意。)大規模土木工事が行えない時代にあって、この扇状地は一たび大雨が降ると、水はゆるい傾斜の扇状地部分を容易に覆いつくし冠水したと想像される。平坦地に道路を作るのは容易だが、このような地形では頻繁に路床が流出し、その後には草木が繁茂する。復旧工事をしても再破損の頻度が高ければ、そのうち馬鹿らしくなって放棄されることになる。放棄された扇状地は開発が遅れ青野ヶ原と呼ばれた。国府があった府中は微高地にあり流失は免れたが、国分寺、東山道は流亡し長くは存続できなかったと考えられる。垂井駅家も初期東山道廃道に伴い廃絶し、代わりに、青墓、野上に駅機能を果たす集落が現れた。


(5)鎌倉街道(平安東山道)

  平安時代のいつの頃からか東山道は丘陵の裾を迂回するコースを取るようになった。更級日記の菅原家一行が通った時は既に迂回路になっていたことは、野上に宿泊したことからも推測できる。もし初期東山道が維持されていれば、仮に不破駅家が廃絶していても、その駅家跡が宿営地とされていた可能性が大きいからである。このコースの経由地は以下の通りである。
青墓→円興寺→石越あるいは美濃国分寺→平尾神社→丸山→府中→垂井北中学校→漆原→徳法寺→戸海池→不破ノ関病院→野上

*石越については可能性が薄い

<円興寺>

  

創建時の円興寺は現在地の道路を挟んで東の山の山頂にあった(元円興寺)。そこには青墓の有力者であった大炊氏の墓や、平治の乱敗走中、悲劇の死を遂げた源朝長の墓もある。古くからの有力寺院であるこの円興寺がこの位置にあったのは、重要街道が下を通っていたからである。現在は「青少年憩いの遊歩道」が設けられなど山深い場所である。(2023年10月現在、クマ出没の危険があるとして入山ゲートが閉鎖されている。)
律令国家は飛鳥時代~奈良時代に全国的に駅路を建設したが、それができる以前にも国々を結ぶ道路はあった。駅路の完成で自然発生的道路は用済みになるかと思いきや、一定の規格で計画的に作られた駅路でも当時の技術水準では無理が多く破損、流出が少なくなかった。地形条件の悪いところは幾度も修復工事が行われたであろうが、遂には放棄され、古くから存在した地方道に戻らざるを得なかったと思われる。円興寺下の”平安東山道”は自然発生的道路である。

 



円興寺  (現地案内板)
  延暦九年三月最澄(伝教大師)が、大谷の里(青墓)の大炊氏の帰依を得て、山頂に寺を創建し、聖観音立像を本尊として円興寺と号した。その当時の七堂伽藍の金堂は七間四面の荘厳なもので、その他、坊舎、末寺等百余か寺、寺領五千俵と伝えられる。   天正二年(1574)織田信長に焼かれ、田之堂(現在地、朝長ルート裏参道の付近)をへて万治元年(1658)この地に移し建てられた。

木造聖観音立像(国指定重要文化財)
  この仏様は、寺伝によると伝教大師が円興寺のご本尊として自ら刻まれたと伝えられる。
  像高(140.7㎝)で桧の一本から掘り出した一木彫成像である。顔や体躯にグット張りつめた緊張感がみなぎり、また衣文にあらわれた飜波線の切れ味は、するどいうちにも温容を遺憾なくあらわした、平安前期貞観彫刻の典型である。像面は茶褐色の木地をあらわしているが、もとは彩色像であったと思われる。 県内にある貞観彫刻」のうちでも最もすぐれた像と言われている。

<平尾神社>
平尾神社は江戸時代の貞享4年(1687)の創建で古くはない。しかし目を転じると、神社の前の道(鎌倉街道)をはさんだ東には古くは国分尼寺、鎌倉時代以降は平尾御坊、威徳寺、等の宗教施設が密集する平尾集落がある。中世以降には宗教活動のため多くの人が移動し、各地に道場が出来たが、その場所は交通繁多な街道筋である。逆に言えばこのような宗教集落があるから、そこには主要街道が通っていたと考えることができる。
平尾神社の前を通る道が鎌倉街道(平安東山道)で田地より数m高い山裾部分を歩くようになっている。

 

<府中>

垂井町府中には町を南北に貫く御幸道(ごこうみち)と云う道路がある。この道は奈良時代、天平12年(740)12月に聖武天皇の美濃行幸の際に使われたことでこの名がある。この行幸については、続日本紀に詳しい記事がある。天皇は12月1日に美濃国に入り12月5日まで滞在された。この間、宮処寺、曳常泉(垂井の泉?)、国城(国府)を視察し、新羅楽、飛騨楽を楽しまれている。国分寺造営の詔が出されるのはこの翌年(741)なので、国分寺はまだなかった。

この御幸道には後の時代にも寺院その他の施設が立地し、地域の中心となった。

 


<安立寺>

  御幸道の東側には安立寺がある。美濃国府が垂井町府中にあったことは地元では古くから知られていた。鎌倉時代の仁治元年(1240)に、その跡地を歴史に残すために府中寺が創建された。以後、江戸時代寛文4年(1664)に安立寺と改称され現在に至っている。ところで美濃国府はここから南に下った御旅神社南で発見されたので、安立寺は国府跡ではなかったかのようであるが、実は以下に述べる平安中期以後の国府と見られる。

良く知られているように、古代国衙形式の国府はほとんど平安時代中期、10世紀半ばまでに廃止され、国府の実務は国司の官舎(国司館こくしのたち)で行われるようになっていた。安立寺のあった場所が国府の跡であったとすれば、それは初期国衙形式の国府ではなく、平安中期以後の国司館であった可能性が高い。

<北中学校から漆原へ>

鎌倉街道は垂井町府中の北部を東西に通過し(野庵道)垂井町立北中学校の校庭が途切れるところで大石川の旧氾濫原(現在は水田)にぶつかる。中学校は大石川の河岸段丘上にあり、段丘のり面に細い道がある。この道は昔は漆原の集落につながっていたらしいが、現在は県道63号で断ち切られ、それから先の古道は消滅している。県道を渡り目印の漆原集落にある多度神社を目指すと墓地の先に神社が見える。集落を通り抜けて県道63号線、「漆原西」の信号に出る。ここから南に向かうも古道はなく、徳法寺の屋根を目指して歩く。
 地図上で見ると北中学校から北に上がらず直接西に向かえば近道に見えるが、実際に歩いてみると、今は水田となっている大谷川の氾濫原のため、昔は北に大きく迂回しないと渡れなかったことがわかる。


<徳法寺>
徳法寺はその昔、天台宗の寺院として、垂井町地蔵の地に始まり、室町時代の寛正2年(1461年)蓮如上人が説かれる念仏の教えに感激して浄土真宗の寺院となり、今日に至ります。現在の本堂は、約四百年前に建てられた本格御堂造りです。


<戸海池>

徳法寺から先にも古道らしきものはないが、バス通り(257号線)沿いに「岩手のヤマモモ」という垂井町指定天然記念物がある。普通ヤマモモは大木にはならないがここでは13メートルもの大木になっている。この木についての説明はさておき、その根方に秋葉神社という祠がある。この祠は『平安鎌倉古道』の説明図(p.330)にもある。尾藤氏調査の際にはかろうじて岩手川の川岸まで細道があったように見える。古道は岩手川を現在砂防堰堤がある辺りで渡ったようだ。バス通りを歩き新渡海橋で相川を渡り迂回する(岩手川はすぐ下流で相川に合流する)。
戸海池の縁を回って岡村機工(株)のある台地に上がる。この段差は不破ノ関病院迄続き垂井町と関ヶ原町の境界になっているが、断層なのか?岡村機工から不破ノ関病院まで圃場整理のため古道は見られないので、大きく迂回して病院前に出る。


<不破ノ関病院>

古道は不破ノ関病院付近にも見られない。この辺りは国道21号、東海道線、新幹線などの路線工事で幾度となく地形改変を受けているので予想通りではある。古道は病院の裏からほぼ山裾と新幹線の間を通って野上に到っていたと思われるが、もちろんこの間にも古道の痕跡はない。


<野上>

壬申の乱に際し大海人皇子はいち早く美濃に入った。美濃国味鉢間郡(現在の安八郡)には大海人皇子の封戸(二千戸)である湯沐領があり、この地域は鉄の産地であり兵員の確保が期待できたので、大海人皇子は、ここ野上に本営を置き体制を整えたのである。その場所は現在、墓地の奥であり、今では誰も訪れないのか草に覆われていた。野上の地は平安時代の野上と直接関係があるわけではないが、古くから枢要な地域であったことは想像できる。


野上行宮(あんぐう)跡(現地案内板)
  古代最大の内乱と言われる壬申の乱(672)において、大海人の皇子は野上の長者屋敷と呼ばれる小高い小平地に行宮を興して本営としました。
  この地は高操にして、眺望良く、朝鮮式土器も出土しています。乱後行基が行宮廃材で南方六坊(みなみかたろくぼう)を建てたという、ここ別通称寺社屋敷が、行宮跡地と伝えられています。
    関ヶ原町

<真念寺>

 

真念寺  由緒碑
  鶏籠山真念寺略縁記によれば、、寛正年中(1461~)、池田家の舎弟出家して、南方六坊の内、真念坊に住い、文明年中(1469~)、本願寺第八世信證院殿の御教聴聞し、六坊各々浄土真宗に帰依す。文禄年中、大坂石山合戦の時織田信長に諸堂焼払いにあうも、真念坊に因縁の深い第四世兵勝相続する。天和二年に山号及び寺号を賜り、その名を「鶏籠山真念寺」と称す。
享保元年、この地に鐘楼等移転せしも、二百八十年の間、風雪に耐え今日に至る。破損が激しく、今般門徒及び有縁の皆様により鐘楼の再建築となりここに記す。
平成八年十二月吉日
    鶏籠山真念寺

謡曲「斑女」と花子
  美濃国野上の宿の女花子が、旅の途中立寄った吉田少将と契るが、少将の去ったあと忘れられず、形見に取り交わした扇をもって尋ね歩いた末、その扇が縁で再開するという話を主題にしたのが謡曲「斑女」で、曲名の斑女は漢の武帝の寵姫だったが、その愛を失ったのを”秋の扇”にたとえたことに由来する。

<平安時代の野上長者屋敷はどこ?>

平安・鎌倉時代に宿駅として栄えた野上の宿は多くの遊女を置き繁栄していた。更級日記でも野上の「遊び」に言及している。『平安鎌倉古道』によれば、その野上長者の屋敷はかつての関ヶ原小学校野上分教場、現在は、国道21号沿いにある野上研修センターの場所だというのだが…。

<桃配山>

  

桃配山については関ヶ原合戦における、徳川家康の最初陣地として有名である。しかし、この地で行われた最初の天下分け目の戦いである壬申の乱の舞台でもあった。その時の故事で「桃配山」の名が残る。
桃配山由来  (清水春一『壬申の乱ものがたり』p.21、大垣市文化財保護協会より)
大海人皇子は、(後の天武天皇)が、この辺りに行宮を構えたときのことです。
  大海人皇子は、吉野から伊賀国を越え、伊勢国を経て、桑名から美濃へと遠い道程を急いで駆けつけたので、一行の人々は大変に疲れていたようですが、先に紹介したように垂井町の宮代では、「勝ち栗」の接待を受け、今また、関ヶ原の野上へ着いたら、珍しい山桃を差し出され、重ねがさねの縁起のよい果物で慰められ大変喜こんで、旅の疲れも吹っ飛んでしまったようです。そこで、皇子は味方の兵士たちの労をねぎらい、「みんな元気を出してガンバロー!」と呼びかけました。
  そのころ不破の地は桃の産地であり、街道付近の山林にたくさんの山桃が実っていたのを全部買い上げて、みんなに配りました。
  桃は縁起のよい果物であり、栄養たっぷり、また戦場では命を守る魔除けになると言われているので、これは正に神さまからの御恵みであって、戦勝疑いなし……と気をよくした味方の将兵はみんな元気百倍、力を合わせて戦さに立ち向かいました。
  お蔭で、勝ち戦さに大成功を収めた後、いつの間にか、誰れ言うとなく、この山の名を「桃配山ももくばりやま」と呼ばれるようになって今に伝わっています。


桃配山は現在、国道21号で分断されている。古道は白点線で示すように桃配山の縁を通っていたようだが現在は消滅している。



<十九女(つづら)池から不破ノ関へ>

鎌倉街道は十九女池の東縁の斜面を通って不破ノ関に向かう。街道は下の画像の左の森の中である。桃配山から十九女池に至る山沿いの道は既に消滅したところや、私有地のため立ち入り禁止になっているところもある。

 

十九女池(つづらいけ)と竜女伝説(現地案内板)

所在地 大字関ヶ原十九女
  今は昔、当宿東町地内を時折廿才前後の美女が笛を吹いて歩き、また民家へ時々椀を借りに来て返すときは生臭かったかったという。古老怪しみて或夜借りに来た椀の糸底に針をさし、その糸を家人につけさしたところ、この池の畔にて見失い、以後再び椀を借りにこなくなりて池から立去ったと噂されたという。この椀は今も法忍寺に預けられている。
また領主竹中家の「横笛記」によれば、
或夜宿中の合川家へ娘来たり横笛を出して、これを買えという、合川氏これを求め「何処え帰る」と問うに「池え」と答える。奇異に思い後を追うに十九屋と云う池のあたりて、消えしという、その後この池を十九女池と、云うようになった。この横笛は後「ほととぎす」と銘がつけられて八幡神社の社宝として今に残る。
  関ヶ原振興会    「参照町史より」


道なりに上ってゆくと、鎌倉街道は伊勢街道と交差する(下画像の黄色の矢印の地点)。古くはこの道を矢印の方向にまっすぐ行けば不破ノ関に達したらしいが、現在この道は名神高速道路建設に伴う造成工事のため、交差点から約260mで行きどまりとなっている。なお、下の伊勢街道は関ヶ原合戦の時、島津義弘の軍勢が敵中突破をして伊勢に逃れた道である。

目印となる寺社、施設

・円興寺:岐阜県大垣市青墓町5-580

・大垣市歴史民俗資料館:岐阜県大垣市青野町280-1
・平尾神社:岐阜県不破郡垂井町平尾1320

・清蔵寺:岐阜県不破郡垂井町府中2252

・浄林寺:岐阜県不破郡垂井町府中2246

・安立寺:岐阜県不破郡垂井町府中2435
・垂井町立北中学校:岐阜県不破郡垂井町新井152-1

・多度神社:岐阜県不破郡垂井町岩手(漆原)
・徳法寺:岐阜県不破郡垂井町岩手2425

・岩手のヤマモモ:岐阜県不破郡垂井町岩手2407
・不破ノ関病院:岐阜県不破郡垂井町94-1

・野上研修センター:岐阜県不破郡関ケ原町野上

 

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