更級日記の東海道の旅をもとに平安時代の古地形や文献で平安時代日本を再現
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天竜川による遠州平野と、その海岸地形および浜名湖の形成

遠江国、磐田原と三方ヶ原に挟まれる幅約10㎞の扇状地(遠州平野)と浜名湖に接する遠州灘海岸地形は天竜川水系の河川活動と遠州灘沿岸流によって形成された。この地域は中世を過ぎるまで安定した土地に恵まれず、そこを通過する東海道などの交通路も時代と共に影響を受けてきた。また天竜川から排出される大量の砂礫は流域の地形のみならず、浜名湖の形成にも大きな影響を及ぼした。


(1)天竜川水系による天竜川河道変遷と海岸地形の形成


木曽山脈、赤石山脈から流れ出す水が山地から低地に出るとき、そこに扇状地が形成される。水は扇状地を流れる時、網状に水路を刻みながら海に流出する。同時に大量の砂礫を流域、河口に堆積する。沖合には三角州や砂の堆積が形成される。そこに海流、風が作用し、長い年月をかけ、この地域特有の地形が形成された。この地形形成のメカニズムについては加茂豊策氏の以下の論文が参考になる。氏の論文に基づき、概要を説明する。論文はPDFでダウンロードできる。

・天竜川の変遷と浜松市南部の沿岸低地造成の関係について
加茂豊策:静岡地学 第88号、p.21(2003)

・明応(今切決壊)以前の浜名湖南部の地形
加茂豊策:静岡地学 第92号、p.11(2005)



(2)歴史的に見た天竜川流出砂礫による流路変遷と海岸地形の形成


天竜川は歴史時代に限っても大き流路変更が三度あった。そのメカニズムを加茂氏の論文に沿って解説する。歴史上この地域では次のような災害が起こった。


①歴史書に見る河川災害


〇地震による土砂崩れで麁玉(あらたま)川が閉塞

続日本紀に霊亀元年5月25日(グレゴリオ暦715年7月4日)梅雨時の集中豪雨で浜北市上島(かみじま)の辺りの河岸段丘が崩落し川を塞いでしまった。その結果河道は東に変わり荒玉河と変わってしまった(決壊部から下流の麁玉川は現在馬込川として、河口部は芳川として流れている)。


〇大洪水により荒玉河が東へ流路変更

続日本紀によると天平宝字5年7月19日(グレゴリオ暦761年8月27日)、台風による大雨で堤防が決壊した。短い記事だが『遠江国荒玉河堤防が三百余丈決壊した。延べ卅万三千七百余人に食料を支給し使役して復旧させた』とある。当時にしては相当な大工事であるが、この時それまでの旧流路に復旧したのか、新河道の位置に堤防を築いたのかはっきりしない。いずれにせよかなり、しっかりした堤防が作られたことが窺える。流路が直線的に変えられ流速が早まると、それまで流域で沈降堆積していた砂礫が河口まで押し出され三角州を形成したり、沖合に浅瀬を形成する。これが後に述べる浜名湖岸砂州の形成に関係してくる。


〇室町時代頃、池田荘が流出し現代の天竜川になった

天竜川の渡し場で有名な池田にはかつて京都・松尾神社の荘園があった。天竜川西岸の池田宿は鎌倉時代まで遊女も置き繁栄した宿であった。ところが室町時代のいつ頃か、池田荘が文献から消え、池田も天竜川東岸に移ってしまった。つまり池田荘は大洪水で流失し川筋も東に移ってしまったと考えられる(池田荘消失についてはこちらのページ参照)。
※この時の天竜川東遷については加茂論文では触れられていない。



②流出砂礫による天竜川河道移動のメカニズム


河口に流出する砂礫は海流や風の作用によって特有な地形を形成する。相模湾沿岸には東から西に流れる沿岸流がある。河口から吐き出される砂礫は河口部に沈殿するが、一部は沿岸流により西に運ばれる。最初の天竜川(現在の馬込川)の河口には最初の砂礫の堆積が出来た。伊場遺跡はその堆積の上にある。以下に示す図の出典は上記、加茂氏の論文である。


其の後、馬込川上流が土砂で閉塞されるとそこは細い流れとなってしまったが、その東に新たな河口が開き大量の砂礫を排出するようになる。この砂礫は海岸に沿って西に流れるが旧河口前に形成された洲や海底の堆積をよけるように流れるので以前の汀線より沖合に新しい砂礫の堆積が起こる。更に年月を経て天竜川の河道が東方に移動したときも同様なメカニズムで更に沖合に砂礫の堆積が形成される。これは地理学で”浜堤”と呼ばれるが、天竜川河口海岸については沿岸流と砂礫の流出だけで説明可能で、従来唱えられていた地盤の隆起、沈降など地殻変動まで考える必要はなく、その証拠もない。現在、6列の浜堤が検出されている。



③浜名湖の形成


天竜川河口部先端に形成された浅瀬に蓄積された砂礫は沿岸流によって漂砂となって西へ西へと流れる。太古には浜名湾であった水面は漂砂によって形成される天竜川河口に始まる砂州が遂に新居側に達し、「帯ノ湊」という開口を残して海から遮断されることとなった。ここで浜名湖が誕生した。当然浜名湖は海水と真水が混じる汽水湖である。


その時期は、加茂氏によれば奈良時代以降で比較的新しいと考えている。奈良時代頃おおよそ湾口が砂州で塞がれ、湖岸では水田耕作もできるようになったと思われるが、大雨の季節には排水が間に合わず耕地が冠水して不作となるなど、弊害もあった。これは湖口に砂が堆積していたためだが、高潮などでそれが除去されれば暫くは平穏な営農が出来た。当時の治水能力では永久的な対処が出来ず、神頼みしかなかった。湾口浚渫などは当時の技術では望むべくもなかった。文徳実録は浜名湖の出口にあった浜名入江および帯ノ湊に関して、次のように伝える。




嘉祥3年8月3日(グレゴリオ暦850年9月16日)

詔して曰く、「遠江国角避比古神をもって官社に列せよ。是より先、彼の国奏して言わく、『この神の叢社、大湖に瞰臨す。湖水灌ぐところ、土を挙げて利を頼む。湖、一口あり。開塞常なし。湖口塞げば即ち民水害を被る。湖口開けば即ち民豊穣を致す。或いは開き、或いは塞ぐ。神のみ実に之を為す。請うらくは崇典を加え、民利祈を為さん』。これに従え」(書下し文出典:『中世の東海道をゆく』榎原雅治 p.105、中公新書)


④浜名湖完成後の海岸地形


遠州灘と浜松市南部の台地と浜堤の間には取残された水面が池又は水路、湿地として残存することになった。この湖沼は現代では多くが埋め立てられ痕跡を見ることすら困難だが、明治23年の地形図には依然として、その痕跡が存在していた。時代を遡って考えれば、平安・鎌倉時代には小舟が航行できるくらいの水路は天竜川河口近くまで通じていたと想像される。”鎌倉時代の『海道記』によれば橋下から浜名の浦へは船便もあった”のページで作者はその内水面の水路を船で移動し、外海に繋がると思われる浜松の浦近くに達している。一方、水路を使わない場合は、現在よりはかなり幅の狭い砂州の上を徒歩で浜名湖と帯の湊が接する所に架かる浜名の橋まで行くことになった。物流が盛んになった鎌倉時代では運送舟に便乗させてもらうことは容易だったであろうが、更級日記の平安時代中期では当然、歩いて浜名の橋に向かったと考えられる。

 

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