更級日記の東海道の旅をもとに平安時代の古地形や文献で平安時代日本を再現
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更級日記一行は天竜川河畔のどこで宿営したのか

更級日記作者は初倉を出発したのち、発病し、おそらく輿に乗せられ旅を続けたものの、病気が重くなり天竜川河畔にたどり着いたところで、旅を中断し仮屋を建てて病気の快復を待つことになった。その場所とは現在のどこであろうか。



『更級日記』は次のように述べる。

  『さやの中山など越えけむほどもおぼえず。いみじく苦しければ天ちうという河のつらに、仮屋作り設けたりければ、そこにて日ごろ過ぐるほどにぞ、やうやうおこたる。冬深くなりたれば、河風けはしく吹き上げつゝ、堪へ難くおぼえけり。その渡りして浜名の橋に着いたり』

上の文より平安時代には天竜川は天中川と呼ばれていたことが分かる。当時の発音は現代とは異なって "tentu"または"tendu"と発音され、「天ちう」と表記されていたという。ともあれ菅原家は天竜川の川面に仮屋を建て宿営した。そこは河風が強く辛かったという。現在でも河口付近では強い西風を生かして凧揚げ大会が開かれている。

※タイトル画像のキャプションに引用書籍の「豊田町池田の川岸」をそのまま転載した。川幅が広すぎるように見えるが撮影場所は確かだろうか…?



※注.榎原雅治『中世の東海道をゆく』中公新書、p.143



(1)平安・鎌倉時代の天竜川の流路



  平安時代の天竜川は現在の流路とは異なっていたので、当時どこを流れていたのかを知らなければならないが、これに関する文献は非常に乏しい。

続日本紀によれば、霊亀元年(715年)5月、遠江国で地震があり麁玉(あらたま)川を塞ぎ、それが数十日後に決壊して村々を押し流したという大災害があった。しかしこの河川は現在の馬込川ではないかとも考えられている。従って天竜川に関する文献初出は平安中期、寛仁4年(1020年)の更級日記の記事となる。

鎌倉時代に入り紀行文に天竜川が登場してくる。この時渡河地点を知る重要地点として池田の宿が現れる。天竜川と池田宿がペアで登場するのは『海道記』のみである。池田宿は天竜川の中州にできた新しい集落であるが、現在『池田』という地名は、天竜川の東岸に位置する。海道記によれば池田宿に投宿したのち天竜川を渡っているので池田宿は河の西側にある。ここから、昔の天竜川は現在より東を流れていたという「天竜河西遷説」が生まれた。では池田という集落はどのような集落だったのだろうか。

  池田荘については松尾神社領地池田荘立券状、平安末期、嘉応3年(1171年)(1132~1321間)という文書が残されている。



平安時代に遡れば、この暴れ川の河川敷に平安中期に集落があったとは考えられない。ただ、基盤となる中州、微高地は形成が進みつつあり、平安末期ころには人が何とか安定して生活を営めるまで自然堤防、微高地という地理的環境が整ったと考えられる。

池田荘については谷岡武雄氏によるにそれ以前の研究を含めて、まとめられている。それに基づき池田荘のイメージを紹介する。

『池田』と言う地名は平安末期に松尾神社領地池田荘として現れる。この荘園の起源は寄進地系と考えられるが、一定の期間、松尾神社荘園として存続したと見られる。時代が下り周囲からの侵略、内部の地頭の勃興に加え、自然災害で衰亡した。

平安から鎌倉時代の地形想定は非常に困難であるが、谷岡氏は地形図上の痕跡から下の図のように当時の地形を再現している。



天竜川河畔、中世池田荘の復元地形と東海道

『天竜川下流域における松尾神社領地池田荘の歴史地理学的研究』

谷岡武雄、史林(1966)、49(2):203-233

上記論文掲載の中世推定地形図に着色し江戸時代東海道(オレンジ色)、池田荘の存在範囲(赤枠)平安・鎌倉時代の天竜川推定流路(水色)で記入した。

2.網状流跡・バックマーシュ(後背湿地)・と旧中州・自然堤防 3.下位段丘 4.上位段丘および台地 5.松尾神社 6.乾田と湿田との境界



問題の池田荘の範囲は嘉応3年文書によれば

東:天竜川、南:塩海幷宮崎、西:長田長上両郡境、北:字江墓楊田

と記されている。この地名の現在地は明確ではないが谷岡氏はあくまで大よその想定と断った上で、上図に示す赤枠で示している。

論文によれば池田荘の東は天竜川で区画されるので、天竜川本流は図中BまたはB´であろうとしている。『海道記』によれば川幅は3町(約300m)と、渡るのはかなり大変であった。


(2)天竜川をはさむ平安時代東海道のルートと仮屋を建てて宿営した場所


平安鎌倉時代の東海道は遠江国府前を通っていたことは紀行文から明らかである。その前の時代も同じであったと考えられる。国府の南側は現在は住宅地であるが平安、鎌倉には今之浦という入江(ラグーン)であるので通過できない。つまりこの地域に限れば東海道は、江戸時代までさして変わらなかったのではなかろうか。とすれば天竜川を見下ろす段丘上に宿営するのが自然である。舟着場がある河川敷に仮屋を建てようとしても材料となる樹木は乏しく、わざわざ河川敷に下りる理由はない。
では、見附の国府にとどまればよかったのではないか。しかし、この時代には既に見付に国司館はなく国司は別の場所にいた可能性が高い。鎌倉時代に至って『十六夜日記』では、「今宵は遠江見付の里といふ所にとどまる。里荒れて物恐ろし」
と集落そのものが荒廃していることがうかがえる。
それなら、無理に地下人(じげびと)の家を借りるより、河畔に仮屋を建てた方が良いと考えたのであろう。
宿営地の現在地は磐田市森下、豊田西之島辺りと推定される。或いは一号線、池田入口の信号付近か。上図に×で示した。


(3)その後の池田荘と池田宿


池田荘は鎌倉時代以後歴史に登場しなくなる。天竜川域中世地形推定図の赤枠内に池田荘が存在したと考えられるが、当時の記録にある地名は東側には、現在でも残存するものがある反面、西側には殆どそれが見いだされない。それは現在の天竜川が東から西に移動したことにより元々脆弱だった池田荘の耕地が大水害により流亡したことを示すものと考えられる。図中の神社マークで示される神社は池田荘の領主であった京都の松尾神社と関連の深い地域の松尾神社である。一方、東側には松尾神社が見当たらない。

このことからも池田荘の東側が大規模洪水災害にあったことを裏付ける。尚、浜松市中野町にある式内社大甕(おおみか)神社はかつて松尾大明神と呼ばれていたことがあるという。恐らく京都の松尾神社は池田荘の経営を地元の旧社であった大甕神社を通じて行っていたと考えられる。しかし池田荘が消滅した後は元の神社名に戻ったと考えられる。
ところで、池田の地名が現在、磐田市池田には残るが上述の赤枠で示す池田荘の推定範囲にないのはなぜだろうか。これについて尾藤卓男氏は『平安鎌倉古道』p.165の中で、次のような見解を述べている。

参議冷泉為相(れいぜいためすけ、阿仏尼の子)の『夫木和歌集』に収録された歌



そのかみの里は河瀬となりにけり ここも池田のおなし名なれど



冷泉為相が延慶元年(1308年)に投宿した池田宿はここ(東岸)であるが、昔の池田の里は河瀬になってしまったことを詠んでいる。



つまりは古い池田宿は洪水で流されてしまい、鎌倉末期にかつての名声を残すために新たに天竜川東岸に新池田宿が再建されたことを示唆している。

天竜川本流は鎌倉時代中に西側に移ったとみられる。


(4)鎌倉時代紀行文に見る天竜川渡河


海道記


中世日記紀行集 新日本古典文学大系 岩波書店 p.88貞応2年(1223年)

林の風にをくられて、廻沢(あいさわ)の宿を過(すぎ)、遥に見亘(わたし)て行ば。岳辺(おかべ)には森あり、野原には津あり。岸に立つる木は枝を上にさして正しく生たれども、水にうつる景は梢を逆さにして本に相違せり。水と木とは相生中よしときけども、移る影は向背梢を逆にして本に相違せり。水と木とは相生(そうしょう)中よしときけども、移る影は向背して見ゆ。時已に誰枯(たそがれ)になれば、夜の宿をとひて池田の宿に泊る。

   十二日、池田を立て暮ゞ行ば、林野は皆同様なれども、処ゞ道ことなれば、見に随て珍く、天中川を渡れば、大河にて水の面三町あれば舟にてわたる。水早く波さがしくて棹もえ指えねば。大なる?(えぶり)を以て横に水をかきて渡る。彼王覇が忠にあらざれば、呼他河漸(こたのこおり)むすぶべきあらず。張博望が牛漢の浪にさかのぼりけん、浮木の船かたやと覚えて、

  よしさらば身を浮木にて渡なん天津みそらの中河の水


東関紀行


中世日記紀行集 新日本古典文学大系 岩波書店 p.140

仁治3年(1242年)

天流と名付たる渡あり。川深く流れけはしきと見ゆる、秋のみなぎり来りて、舟の去る事すみやかなれば、往来の旅人たやすくむかへの岸に着難し。この川増れる時は、舟もをのづからくつ帰て、底のみくづとなるたぐひ多かりと聞くこそ、彼巫女峡の水の流れ思ひよせられて、いと危うき心ちすれ。しかはあれども、人の心にくらぶれば、しづかなる流ぞかしと思ふにも、たとふべきかたなきは、世にふる道のけはしき習ひなり。

   この川のはやき流れも世の中の人の心のたぐひとは見ず

 遠江の国府今の浦に着ぬ。爰(ここ)に宿かりて一日二日泊りたるほどに、艇の小舟棹さして浦のありさま見るめぐれば、塩海水うみの間より、洲崎とをく隔たりて、南には極浦の波袖をうるほし、北には長松の風心をいたましむ。



十六夜日記


中世日記紀行集 新日本古典文学大系 岩波書店 p.191

弘安2年(1279年)

廿三日、天竜の渡りといふ、舟に乗るに、西行が昔も思ひ出でられて、いと心細し。組み合せたる舟ただ一(ひとつ)にて、多くの人の往来に、さし帰る暇もなし。

   水の泡のうき世に渡る程を見よ早瀬の小舟も休めず

今宵は遠江見付の里といふ所にとどまる。里荒れて物恐ろし。傍に水の井あり。

  誰か来て見付の里と聞くからに いとど旅寝ぞ空恐ろしき

 

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