更級日記の東海道の旅をもとに平安時代の古地形や文献で平安時代日本を再現
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平安時代に書かれた宇津保物語に見る私券の発行

  宇津保物語には平安時代社会の経済事象が多く描かれている。平安時代前期はまだ銭貨が流通していた時代であるが、有価証券の萌芽も見られる。ここでは私券の実態を探る。


(1)令における立券とは何か


令の関市令第二十七に次の規定がある。(『律令』、p.444日本思想体系3、岩波書店)

「凡そ奴婢売らば、皆本部の官司に経(ふ)れて、保証取りて、立券して価付けよ。其れ馬牛は唯し保証責ふて私券立てよ」

この規定に対し後年次の補足が加えられた。(令集解第四、令集解逸文p.7、国史大系、吉川弘文館)

「奴婢馬牛、唯だ保証責(と)ふて私券立てよ。人私券を造り買う人に与えよ」、つまり養老令制定時、土地、奴婢の売買には所管役所の認可が必要な公券が必要だったが、牛馬と同じく私券でよくなった。この場合、売る人が買い受け人に私券を与えれば売買が成立した。関市令がいう券の性格は”売買契約書”である。


  宇津保物語はフィクションではあるが平安時代前期の経済状況を背景に描かれている。この中に財貨の代理支払いを命じたり、保証する「券」という文書の存在が描かれている。
券の発行は土地の売買を保証する文書から始まったが、奴婢、牛馬の売買に広がり、後には物語にあるように米などの物資も対象になったと思われる。まづ、宇津保物語、”藤原の君”の中の「絵解き(絵の説明)」の場面を見てみよう。

注意すべき点は絵解の詞書は作者が書いたのではなく、江戸時代の国学者が入れれたものとされる。果たして、彼らが平安時代社会を理解して書いたのか不安は残る。(※参照『うつほ物語』「絵解」資料、伊藤禎子)


(2)<藤原の君、絵解>


  『こヽは帥殿、檜皮屋、御倉どもありけり。主(真菅)の御子ども、右近の少将、木工(もく)の助、蔵人かけたり。式部の丞(坊)の帯刀(たちはき)ならびゐたり。娘三人、御達廿人ばかりあり。主ものまゐる。臺二具(よろ)ひ、秘色の坏ども。娘ども朱の臺、かねの坏とりてまうほる。男ども朱の臺、金椀して物食ふべしとす。透箱、餌袋おきて、男ども居並たり、ここは娘ども居並みて、綾、うす物、縑(かとり)選る。主「大将(正頼)殿ものいりげなる殿なめり。白き米二百石が券作らせよ」との給ふ。

  こヽは主の御子ども。男女集ひて物語す。筑紫船の仕人ども来り。「三百石の船着きたり。今かたへはこそ」といふ。』(宇津保物語(一)p.204、日本古典文学大系10、岩波書店)

<現代語訳、絵の説明文>

ここは帥(そち)真菅殿の屋敷です。檜皮の母屋、倉庫等もあります。主(あるじ)のお子さんたち、右近の少将、木工助、蔵人が走っている。式部の丞、坊の帯刀が並んでいる。娘三人も含めお子たちが二十人程いらっしゃる。主人が食事されている。前には台が二揃い、青磁の坏があります。娘方は朱の臺に金属の椀で召しあがっている。男性は朱の臺、金椀で召しあがるべきです。透箱、(菓子などを入れる)餌袋がおいてあり、男方が並んでいらっしゃいます。

ここは娘方がずらっと並んで綾、物、縑等を選んでいらっしゃいます。

主「大将殿は物入りな殿のようだな。白米二百石の券を作らせよ」とおっしゃる。

ここは主のお子たち、男女が集まっておしゃべりしている。筑紫船の船員がやって来た。「三百石の船が着きました。すぐ近くにお着けします」といっている。


  物語の内容から、白米二百石の券は筑紫からの船がもたらした財貨を購入するための費用として真菅が大将(正頼)に与える米である。しかし現物で渡すわけにはゆかないので、米の私券を渡そうとしている。宇津保物語の「白き米二百石の券」とは明らかに契約書ではなく、大将殿に与える二百石の価値がある有価証券である。

仮にそうだとして荷主は一体どこでその現物の交付を受けるのだろうか。この場合、たまたま立券人、滋野真菅が大宰帥であるから、荷主は筑紫に戻り、私券と交換に太宰府政庁から米を受け取ることができる。尚、この時代にはまだ銭が流通していて銭〇貫文などの語が頻出するが、銭では高額の送金ができないので「券」が発行されたと思われる。

   一方、真菅が筑紫と縁のない貴族なら、その決済はどうするのだろう。私券なら国衙などの印もなく、一体何を以って振出人の身元、担保を確認するのだろうか。

振り出された私券がどのように決済されるのか全く不明である。平安時代には、銀行や手形交換所というようなものは存在しないので、仮に、できるとしたら中央官庁か国府しかない。しかし公的機関が私券のような民間証券の決済サービスをやるだろうか。ただ現実には、振出人は物語の大宰帥のような貴族に限られるので可能性はある。決済に関する文献の発見を待ちたい。



(3)宇津保物語「祭の使い」の巻に登場する「短籍」は食券か


勧学院学生、藤英(藤原秀英)は父母を亡くし苦学していた。日に一食分支給される”食券らしき短冊”で、ご飯を食べ、かろうじて学問を続けていた。


  『かくて、勧学院の西の曹司に、身の才(ざえ)もとよりあるうちに、身を捨てて、学問をしつゝ、はかりなく迫りて、院のうちにすげなくせららから、雑色、厨女いふことを聞かず。かはやいて、まれまれ座に就けば、院のうち笑ひ騒ぎて、日に一度短籍を出して、一笥の飯を食ふ。院司、かいどり(鑰取)「籐英が糧一のひねり文」と笑はれ、博士達にいさゝか数まへられず。父、母、従者、輩一度に亡びて、はかりなく便なし。事も無き学生数多に序(ついで)を越えらるれども、藤英対策なすべき便なく、かくてあり経る.年三十五、容姿こともなく、才(ざえ)かしこく、心賢き学生也。』(宇津保物語(一)p.428、日本古典文学大系10、岩波書店)

<現代語訳>

  こうして元々才能が有ったので勧学院の西の教室で必死に学問をしていました。生活に困窮して勧学院の中に頼りどころもないので、雑色、厨女も相手にしてくれません。去れされとはやし立て、席に着くと院の中は笑い騒ぐのです。日に一度短冊を出して一笥の飯を食べます。院の長、鑰取(用務員)には「藤英の糧一のひねり文(短冊に書かれたくじ)だな」と笑われ、教授達には数のうちに入れてもらっていません。父、母、従者から親類まで一度に亡くし、何も頼るものがありません。大したこともない多くの学生に(合格の)先を越されたけれども、藤英は対策(付け届けなど)する方法もなく、このような状況で過ごしてきました。年は三十五で容貌は取り立てる程もありませんが頭がよく心も賢い学生でした。(不明の語があり想像を加え意訳した)


(4)宇津保物語に現れる有価証券の性質についての結論



①滋野真菅が立券を命じた白米二百石の私券は貨幣に代わる有価証券である

決済の仕組みは不明。但し、詞書が平安時代の経済を反映していない可能性あり。

②藤英の短籍(短冊)は明らかに食券で有価証券である

有効範囲は勧学院という施設内に限られる。この食券の性格は枕草子で話題になった商品券らしき短冊と同じである。
 

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