更級日記の東海道の旅をもとに平安時代の古地形や文献で平安時代日本を再現
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平安時代における遠隔地決済(東大寺上総国封戸からの送金事例)

  平安時代に貨幣経済は発展するどころか、衰退に向かい遂に中期には消滅した。ここでは、貨幣消滅の原因ではなく、当時の経済が貨幣なしで、どのように運営されていたかを見てみたい。
金属貨幣消滅後の平安時代経済は表面的には物々交換になったが、縄文、弥生時代におけるのものとは、規模も仕組みの複雑さも比較にならない。この時代には、土地売買、遠隔地決済の外、信用取引も行われた形跡があり、貨幣なしでの極限に達した感がある。しかし、それが平安時代経済の限界であり平安末期には遂に宋銭輸入による貨幣経済が再開される。


(1)平安時代における経済活動の概観


  奈良時代に始まった貨幣経済は、価値認識の革命であったため普及が危ぶまれたが、その心配は杞憂で、あっという間に広がり、時日を経ないうちに畿内においては貨幣不足をきたし、畜銭や地方に銭の持ち出しを禁じる官符が出るほどであった(注)。貨幣普及の大きな契機は、平城京造営に伴う労働者に対する賃金支払いであったといわれる。奈良時代は首都建設、地方統治のためのインフラ整備の巨大事業が相次ぎ、経済規模が桁違いに伸びた時代であった。現代まで残る文化財もこの時代に作られたものが多い。このように”需要”は飛躍的に伸びたが、”供給”がそれに追いつかなかった。結果的に奈良時代は慢性的インフレ時代であり、政府は高額貨幣への改鋳で歳入不足を凌ごうとした。改鋳により経済規模に合わせて通貨供給量を増加させることは健全な経済活動の範囲だが、政府は労せずして富を生み出すことに味をしめ、改鋳は何度も繰り返されることになった(皇朝十二銭)。結果的に貨幣は信用を失い10世紀頃には貨幣経済そのものが崩壊することになった(958年乾元大宝で終了)。新銭は改鋳を繰り返すごとに品質、サイズが貧弱になり、いくら信用(価値)のシンボルとはいえ度が過ぎた。

(注)「貯銭を禁断する事」(延暦17年9月23日、類聚三代格、p.600、国史大系、「まさに貯銭を禁制する事」(貞観9年5月10日)類聚三代格、p.601、国史大系


 この後、銭に代わる代替貨幣として米と絹や布などの繊維品が利用されるが品質、規格が一定しないので個々の取引では「交渉」という余計な手間が発生した。それでも現物取引が可能な近隣地域なら、辛抱できるが、最も困る事態は遠隔地との取引である。具体的には全国に散らばる寺社の封戸からの封物の取立や遠国に赴任した国司が任国で得た富を京都に移す問題があった。代替貨幣を輸送できれば良いのだが、太平洋航路が開発されない時代にあっては関東諸国から大量の物資輸送はできなかった。では具体的にどんな手段を取ったのか、上総国、東大寺封戸からの送金(実際には代替貨幣手作布)を例に合理的な推測をしてみたい。


(2)上総から東大寺への封物代送金


  遠隔地からの財貨移動の実例として上総国の東大寺封戸からの封物代送付事例(平安遺文631)をあげる。脇田晴子氏は上総国望陀郡菅生荘と見られる東大寺封戸の封物が一旦銭貨で価格表記されそれを総計して封物の総価額を求め、それに等価な代替貨幣である手作布に換算していることを指摘していた。つまり平安時代中期には物の価値を既に実在しない銭貨で評価するという”価値の抽象化”が行われていた(日本中世商業発達史の研究、p.38、お茶の水書房)。
東大寺文書に上総の東大寺封戸の送金(実際には布)の経緯を示す一連の書面が遺されている(平安遺文609,610,631,632号)。文書の内容は以下の通り。文書はいずれも東大寺側が作成した案(下書き)で、「このように書いて手続きを進めてください」と封物代を下付しない上総国衙に送りつけ督促したものとみられる。東大寺の封物は国衙が代行して徴収して送らねばならない規定であった。(平安遺文、第三巻、東京堂出版)

  表.1上総国衙が東大寺封物を下付する申請書(雑掌という職員が作成)

平安遺文631号、上総国雑掌調成安解案、東南院文書二ノ一備考
文書種類解(げ)申請書
日付永承元年5月9日西暦1046年
文書名上総国雑掌解 申進上東大寺御封代手作布事
差出人上総国雑掌調成安調成安は雑掌の名前(本名ではない?)
内容長久3年(1042)料150烟代銭 62貫720文
長久4年(1043)料 同前
 合計 銭に准え125貫440文の代手作布41段3丈
烟(えん):=煙、竈の煙、民家
西暦1043年と1044年の2ヶ年分をまとめて請求
内訳/年調細布107段2丈1尺5寸 代8貫600文
 望陀布50段 代3貫500文
 庸布87段7尺代19貫800文
中男作物荏油8斗3升 代8貫300文
 御封丁6人 代18貫160文

表.2 前近江守藤原某が倉庫業者に払い出しを命ずる指示書

平安遺文632号、前近江守藤原某切符案、東南院文書ニノ一備考
日付永承元年5月9日西暦1046年
文書種類切下文(切符)払出し指示書
差出人前近江守藤原朝臣
宛先常孝倉庫業者か
内容上品手作布41段3丈下付せよ
 東大寺の長久3,4年御封代銭に准えると125貫440文の代

表.3 造東大寺司領収書

平安遺文609号、造東大寺司返抄案、東南院文書二ノ一備考
日付長久4年8月1日正文は行寿に持たせて送った。永承2年6月25日
文書種類返抄領収書
書類名造東大寺返抄 上総国
内容封戸調庸物検納の事
 調望陀布50端
 調細布107段2丈1尺5寸布
庸布87段7尺
中男作物荏油8斗3升
 封丁 6人
養調布78端
功銭12貫744文

 以上の当季料上進につき検納したので返抄

署名別当僧都深観、勾当威儀師(草名)、勾当大法師(草名)、専当大法師安勢草名(そうみょう):草書体の署名の意。行書より崩れ花押に近い。判読困難

表.4造東大寺司の上総国衙への通知書

平安遺文610号、造東大寺司牒案
正文は行寿に持たせて送った。永承2年6月25日
備考
日付長久4年8月1日西暦1043年
文書種類同格間の役所の文書
文書名造東大寺司牒案
内容造東大寺司牒 上総国衙 租穀600石請求の事
署名別当僧都深観、勾当威儀師(草名)、勾当大法師(草名)、専当大法師安勢草名:草書体の署名の意

(3)上総封戸に関する東大寺文書の解説

①上総国雑掌解:国衙の出納担当で雑掌と呼ばれる役人が東大寺に納める封物の内容を記し、国衙に下付の申請を行う。
②前近江守下文:国の責任者(普通は上総介)が、近江に置いてある倉庫(納所)にある指定物品の支払い指示書
③造東大寺司返抄:封物の領収書
④造東大寺司牒:上総国衙に対する封物のうち租穀600石についての払出し請求書
佐々木虔一氏はこの処理過程について、以下のように解説している。(千葉県の歴史 通史編古代2、p.679、千葉県)
<事案の概要>
東大寺の封戸からの長久3年(1042)と長久4年、2ヶ年分の封物が未納であった。 造東大寺司は永承元年(1046)に当時の上総の介であった藤原某に督促を行った。但し、 平安中期になっても納入すべき封物内容は班田制発足の時代に定められた調庸物のままであったので、実需に合わなくなっていた。そこで調庸物をいったん銭換算し、その総額に等価な手作布で請求することになったようだ。それに対し前近江守藤原某は永承4年(1047)に支払ったものとみえ、長久4年付けの返抄(領収書)が発行されている。支払いの具体的手段として、本来なら上総国が畿内に置いてある納所から下付すべきところ、既に退任後なので藤原某が私的に使っていた倉庫・運送業者と見られる「常孝」から払い出されたとみられる。

一連の文書を細かく見ると以下の疑問がある。
・佐々木虔一氏は未納年次の上総介が藤原隆佐ではないかと推測されているが疑問(典拠は示されていない)。

・返抄は長久4年分8月1日付け一枚である(実際の発行日は永承2年6月25日)。
・上記返抄に雑掌調成安発行の「解」になかった養(庸?)調布78端と功銭12貫744文が追記されている。これは何の代価だろうか。
当該時期に藤原隆佐は実在し近江守を歴任したこともあるが上総介はやってない。一方、尊卑分脈(第二編、p.61国史大系)によれば、彼の息子、藤原忠基は上総介を歴任している。
以上の事から、東大寺封物は次のような手続きで決済されたと推測される。
a.東大寺発足時、定められた調庸物産品は時代とともに需要実態と乖離してきていた。しかも運送料の点から遠隔地から米などの重量物を送るのは現実的でない。そこで軽貨である代替貨幣(手作布)で支払うことになった。
b.布は確かに軽貨であるが、その都度上総から直接運んだのでは運賃負担が大きい。実際には近江、おそらくは粟津辺りと思われる所に各国の納所、および民間の運送・倉庫業者、大貴族の私的倉庫に一たん収納された物産から、”切下文”(切符)と交換で指定物品が払い出された。
c.切下文(切符)の宛先が前近江守藤原某である理由
藤原隆佐は長暦2年(1038)から3年間、近江守を勤めているので、永承元年(1046)には前近江守である。しかし長暦元年(1037)から春宮亮も兼務し在京していた。恐らく寛徳2年(1045)の後冷泉天皇即位迄在任していたので、彼が上総介をやっている時間はなかった。とすれば、長久3~4年の間、上総介であったのは息子の忠基である可能性が高い。造東大寺司が請求の宛先を前上総介藤原忠基にしなかったのは、この親子の懐は事実上一体で同じ倉庫業者を利用していたためだろう。本来ならば、上総国の近江事務所である上総納所に請求すべきところ、既に任期を過ぎていたので、藤原隆佐家の契約倉庫業者と見られれる「常孝」に請求したとみられる。

因みに、隆佐の父は紫式部の夫、藤原宣孝である。
d.東大寺は封物価額を大幅に値切られている
造東大寺司は2年分封物代価125貫440文の対価として手作布41段を請求しているが、これ自体安過ぎである。一応”上品”つまり、特上品と断っているが、わざとらしい。手作布の相場価格はおおよそ400文/反程度、特上品だとしても2倍が限度だとすれば、東大寺は大幅に”値切られた”と考えられる(規定額の1/10しか払ってもらえなかった)。
 しかも返抄は長久4年分1通だけである。長久3年分の返抄が失われ、古文書として遺されなかった可能性もなくはないが、長久4年の返抄に「雑掌解」になかった項目、養(庸か?)調布78端、功銭12貫744文が追加されている(表中に赤字で示す)。これは、 察するに『長久3年分はこれで勘弁してくれ。これだけしか持ち合わせがない』という意味だろう。東大寺は気の毒にも大幅値引きされた上に1年分の封物を”はした金”で胡麻化されてしまったのだ。

(4)遠隔地からの送金方法まとめと残された問題

①遠国は軽貨に換算して送金
  上総を始め関東諸国等の中央への上進物は、絹、布などの労働集約品である繊維製品であった。それは広く知られており、東大寺は封物の支払いとして”代替貨幣の布”を要求した。地方で生産された布は、通常は近江に置かれた上総国衙の納所に一たん輸送され、そこから諸官庁、封主に払い出される。納所までは、おそらく運輸業者が編成した運送隊の手で現物が運ばれる。


②近国は米で送金
  封物を銭換算するということは平安時代中期でも一般的とは言えず、畿内や水運が利用できる諸国の場合、調庸物をそのまま納入しない場合でも銭換算せず、直接米に換算して納入している。讃岐国の例を以下に示す。

表. 5 讃岐国雑掌東大寺封物下付申請書

平安遺文 633号、讃岐国雑掌綾成安解案、東南院文書二ノ一 備考
日付 永承元年七月廿七日 西暦1046年
文書種類
文書名 讃岐国雑掌綾成安解 東大寺御封を進上申す事  (端裏)讃岐前鉄塩解文
内容 米に准え216斛

 塩31石5斗(請了) 正物30石、 代60斛
鉄780廷(未請)、代156斛
右、以上のように毎年御封の中で進上
作成者 雑掌綾成安

③切下文(切符)の交換、相殺による決済はなかったのか
  全国的に経済が均等に発達していれば切下文(切符)を京都などで相殺、交換が考えられるが、平安時代は京都一強の時代である。従って上総国の場合、最終決済は特産の手作布を現物輸送するしかなかったのではないか。

 

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