平安時代前期における関東地方の政情と僦馬(しゅうば)の党
坂東あるいは吾妻と呼ばれた地域は現代の関東地方である。古く縄文時代から人が生活を営んだ土地であった。しかし関東ローム層に覆われた土地は保水性に乏しく、そのままでは、水田に適さず、米作りは河川の流域や丘陵の裾、尾根に挟まれた川筋に限られていた。半面、馬の育成に適した草地や低木が繁茂する広大な土地が広がっていた。耕地開発が飛躍的に進む鎌倉時代以前の平安時代では、馬産が大きな産業であったと考えられる。同時に律令体制崩壊に伴い、この地域は官の支配が揺らぎ、盗賊が横行する不穏な地域となったが、その際、馬が重要な要素であったことは想像に難くない。
(1)寛平から延喜年間の関東地方の争乱
時系列的に事件を列挙してみる。
- 寛平元年(888年)今年東国賊首物部氏永起つ(日本略記)
- 昌泰2年(899年)9月19日、太政官符(A)(類聚三代格)
- 昌泰2年(899年)11月16日、11月20日、12月6日、12月16日、上野国飛駅使来る(日本略記)
- 昌泰3年(900年)5月28日、上野国群盗を追捕す(日本略記)
- 昌泰3年(900年)8月5日、太政官符(B)(類聚三代格)
- 昌泰3年(900年)この年、武蔵国群盗蜂起(扶桑略記)
- 昌泰4年(901年)2月5日、信乃国飛駅使来る。ただちに勅符を賜ふ(日本略記)
- 昌泰4年(901年)2月15日、諸社に奉幣。寛平7年(895年)より坂東群盗発向。その内、信乃、上野、甲斐、武蔵、尤もその害有り。御祈り也。(扶桑略記)(日本略記)
- 天慶2年12月29日(939年)下総国平将門謀反、信濃国飛駅使奏す。(日本紀略)
(2)政府(太政官)の対応
「僦馬の党」については日本三代実録に二通の太政官符がみられるのみだが、重要なので、以下に示す(現代語訳)。
僦馬の党というのは官符にいうように、地元の有力者が経営する馬を使った運送業者であった。これはおそらく関東諸国の京都への貢納品を運ぶ運輸請負業者であったが、いつの間にか盗賊団になっていた。治安がほとんどない山中では、他の小規模な運送隊が居たら、強盗を働いても誰にもわからない。僦馬の党というと騎馬軍団を思わせるが、この段階では、あくまで駄馬隊であった。人の荷を奪い、素知らぬ顔で都に運べば莫大な富が得られる。それに馬自体も高価な財産であった。東国では物資輸送は川筋以外は馬に頼らざるを得なかった。
注. 僦馬:雇馬、後世の馬借
<太政官符A>
相模国足柄坂、上野国碓氷(うすい)坂に関を置き勘過せよ
上野国の解にはこう言っている。
この国は最近強盗が蜂起して最も甚だしい被害をだしています。こうなった根源をたどれば、皆、僦馬(馬貸)の党が原因であります。これが何者かと云えば関東諸国の富豪者たちです。馬で物を運ぶだけでなく、その荷の出所はと云えば、皆略奪したものです。東山道で荷を盗みそれを東海道に持ってくる。東海道の馬を掠め取っては東山道に行く。たかが馬一疋の為に人々の命が害されているのです。こういう者達は群れ集まって最後には凶悪な賊となります。このため当国(上野)、隣国とも、追討していますが、逃げ散った者供は、それぞれの国境を越えてしまいます。そこで碓氷、坂本に遉邏(ていら)を臨時に設置、勘過し、同時に相模国に連絡(移を送る)するようにしましたが、それにしましても官符で明確にして戴かないことには貫徹できません。
官裁 問題の両箇所に関を特設し公験を審査の上、通行を許すようにせよ。
左大臣藤原時平宣す。
奉勅 問題の場所に関を置き、的確に悪党を見つけ出して旅人を妨げることを防げ
昌泰二年(899年)9月19日
【注】
遉邏(ていら):巡検隊、※「遉」を「追」の誤写と考え「追捕する警邏」という解釈も可能か?
勘過:書類を調べて審査する
移:同格の相手に出す文書
公験(くげん):公的書類
<太政官符B>
通行証がある場合に限り、足柄碓氷等の関を通せ
相模国の解がいうには、
太政官は去年(899年)9月19日の官符により初めて碓氷、足柄の関を置きました。それ以来、国内は平穏となり、盗賊の横行も徐々になくなってきました。しかし往還の人・物を審査する場合、所属の役所の通行証(過所)がないので、審査の合否とする根拠文書がなく、取調べを要します。
望請 諸官庁・諸国に通行証を出させ、これを根拠に通行を許可させてください。当国(相模)以東の通行証はその国に申請させ国司が署名・捺印します。それを関に回付して審査させれば盗賊の横行も止まり、人心も自然と安定します。
謹んで官裁を願います
左大臣藤原時平宣す。
奉勅、請により諸官庁、並びに東海道、東山道などの諸国に命じ、上記のようにせよ
昌泰3年8月5日
僦馬の党の実態
太政官符Aは足柄峠と碓氷峠に関を置き、そこで通行する旅人の荷物を書類と照合審査して、怪しくなければ関の通行を許すものだった。しかしそれでは、いちいち荷を改めなければならず、そうした所で盗品か否かを判断するのは困難だったのだろう。そこで、あらかじめ業者が住む国の国衙に通行証(過所)を発行してもらい、それを以て通行を許可するようにした(太政官符B)。但し、この山賊対策が功を奏したかと云えば、中途半端で、この後もおさまらなかったようである。関という“点”でチェックしても、いくらでも脇道はあった。
運送隊は身を守るために武装していたと考えられるので 、僦馬の党も勿論武装していた。しかし、それをもって僦馬の党が騎馬の強盗団かと云えば疑問である。あくまで“僦馬の党”は駄馬運送隊であり、騎馬で戦うことを目的とはしていない。ただ、普段は大人しく見える運送屋でも山奥でお宝を運ぶ旅人に出会えば、豹変して強盗になることはあっただろう。
僦馬の党は「高師の山はどこか」で言及した男衾三郎絵詞の山賊のように相手が手強そうだとやり過ごし、弱そうだと襲い掛かる、居直り強盗のようなもので武士のような専門戦闘集団と言えるものではなさそうだ。
武士の発生とも見られる平将門の乱までには、まだ40年近い年月があった。それにしても平安時代前期には、すでに僦馬の党のような馬の隊商で物資を運ぶ運送業者が誕生していたことは確かである。


