更級日記の東海道の旅をもとに平安時代の古地形や文献で平安時代日本を再現
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平安時代中期の官人腐敗と一条天皇の綱紀粛清

  清少納言や紫式部が活躍した一条 天皇の御代は、教科書日本史ではまさに平安時代の華であった。しかしながら、政治・経済の面では統治構造、税制が混乱し、混とんとした状況に陥っていた。このような時に内裏が焼亡し(長保元年999年6月14日)、一条天皇は母、東三条院詮子(あきこ)の一条院に移られ、内裏再建工事の間の仮御所とされた。枕草紙の舞台、源氏物語が回し読みされたサロンはここであった。一条天皇はそのような文学にも理解がある方でもあったが、本業の政治もおろそかにされない英明な君主であった(この時19歳)。内裏再建で国民に大きな負担をかけるので、神仏の祭祀の護持、宮廷での綱紀粛正、奢侈禁止などを自ら指示され、長保元年令として十一ヶ条の官符を出された。ここでは官人不正に関する、第十一条だけを取上げる(現代語訳)。(新抄格勅符抄、国史大系27、p.18、吉川弘文館)


又それに対する宮廷の反応に言及した藤原行成の日記を挙げる。(権記(一)、p.124、史料大成、臨川書店)
長保元年令の原文、読下し文はこちら


(1)長保勅旨令第十一条


  重ねて主計主税の二寮官人が前分勘料と称し、多く賂遺を求め諸国公文を抑留するを禁ず

  聞けば、諸国役人の公文(各種報告書)を審査する時、二寮の官人は前分勘料(予備審査料)として賄賂を要求し年々ひどくなっている。羽毛は生えるのが良く、小さな傷を探すものではない注1
差し出すものが有る場合は、損益等お構いなしに、すぐ完済とし、持ち合わせがない場合、間違っていようがいまいが、審査を数年にひき伸ばす。ゆっくりやって、公平にも見せているが、それでも私利の下心が見えている。審査を遅らせているのは明らかに主計寮であり、出納を遅らせているのは明らかに大蔵寮である。どうして人事を妨げることを自分の仕事としたり、自分の利益のために人を苦しめるのか。これは帝のお考えからも外れ、道理にも合わない。
奉勅 今後このような輩が制止に従わず、審査をひき伸ばせば、其の帳は審査終了とし、担当者を解任する。国司がグルになっても、他から告発されれば、成功(じょうごう)注2が有っても勤賞の対象とはならない。
以前にも上記各条は指示している。今回発出された道注3は、内外を分けてはいるが遵守の趣旨は同じである。同じく宣す。
奉勅 もし新制から離れ旧弊を改めず、現状のままなら処罰する。官はよろしく承知しこれを行なえ。この事案は綸旨注4に出たものである。間違いのないように、符が届き次第施行せよ。

  正五位下守右中弁源朝臣道方     正五位下行左大史多米朝臣国平

長保元年(999年)7月27日


注1「羽毛は生えるのが良く、小さな傷を探すものではない」:次のことわざを念頭にした比喩。韓非子大体篇:毛を吹いて小疵を求めず、垢を洗って知り難きを察せず。(他人の小さな欠点を探したり、人の欠点や悪事を暴きたてること。それにより却って自分の小ささをさらけ出すことのたとえ)。

注2  成功:平安時代中期ごろから、朝廷の行事、殿舎の造営、寺社の修築等本来公費で支出すべき費用を負担してくれる者に官職を与える、“売官”が行われるようになった。これは不正ではなく、国家財政貢献への褒賞とみなされた。

注3  道:行政区分の道(東海道、東山道など)。前後の文脈が不明だが、勅符が畿内、道と別個に出されていたのか?

注4  綸旨:蔵人所が天皇の意を受けて発給する命令書


(2)藤原行成日記『権記』長保2年5月8日に見られる禁制批判のうわさ


  八日、左府(道長)に伺う。(中略)…又、左大臣(道長)の所に参った。(天皇には)次のように申し上げられたそうである。

(道長)「最近疲れて、久しく参内できなかったのだが、その間に右衛門督(藤原公任)がやって来て申すには、昨日、(菅原)孝標が持ってきた勅命、

『新制官符を交付した後、新たな禁制でも更に緩み世の人は嘲っているという。検非違使庁が真剣に取り締まらないからである。もっと官人等に厳しく執行させるべきだ』と言うことだが、この件はもっともで、もっと気を引き締めなければならない」

そのついでに、

(道長)「中宮(彰子)の御付き(侍人)が着用している絹袴のことで、女房が陛下のお耳に入れたとかいう話を孝標が申していた。これは驚き呆れるばかりである。もしかしたら誰かが上奏したのかもしれない。早く其の侍人を突き止めて連れてこい」とおっしゃった。その後の内容はとても多く、細かく書くことができない。この後参内したときに(東三条)院注5の御容態がとてもお悪いということを聞いた。

それで経房、成信両中将と一緒に(東三条)院にお邪魔し、次に参内し孝標に左大臣(道長)の申されたことを伝奉させると、

(帝)「絹袴の事は聞いておらぬが、どういうことだ?」

とおっしゃられるので、また彼の殿(道長邸)に行ってこの旨を申し上げた。帰宅。

注5  東三条院:962~1002年、円融天皇女御詮子、一条天皇母、父藤原兼家、母時姫、道長の姉


(3)長保元年勅令の効果は?


  一条帝じきじきの指示で出された勅令の効果はどうであったか。図らずもその一端を垣間見せる記事が藤原行成の日記『権記』中にあった。この記事には蔵人頭藤原行成のもとで一条天皇の秘書(蔵人)として仕えていた更級日記作者の父、若き日の菅原孝標が登場する。同様の禁制は以前にも出されていたこともあり、またかという態度で受け取られたようだ。中でも服装については既に持っている物を着るなと言われては誰しも困惑するのではなかろうか。道長はこの時、体調が悪く自宅で静養中であったが、こんな問題まで(総理大臣が)処理しなければならないとは同情したくもなる。奢侈倹約の問題は措くとして、第十一条の官人が職権をかさに着て賄賂を要求している問題は根が深い。官僚機構に汚職はつきものだが、国家の収税に影響を及ぼす程になってきていた。民部寮の審査が遅れ、大蔵寮への納入が妨げられれば官人に配分される給与も滞るのだが、彼らは手っ取り早く賄賂を給与として先取りしていたのである。言い換えれば官の権威失墜は深刻であった。

蛇足だが、蔵人頭藤原行成の一日は長かった。道長邸、御所、東三条院の間を駆けずり回り、くたびれ果てて、「帰宅」の一語で忙しい一日が終わった。

 

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