更級日記の東海道の旅をもとに平安時代の古地形や文献で平安時代日本を再現
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平安時代の東海道は愛鷹山裾野の根方道を通った

駿河路の古東海道は愛鷹山裾野を通る



  箱根山塊を境とする関東と関西の通行は平安時代まで足柄路であった。足柄路は平安時代初期、延暦年間(800-802)の富士山噴火により火山灰に埋没し、翌年まで東海道は箱根路を通らざるをえなかった。その期間を除けば平安時代の大部分は足柄路であった。相模から足柄峠を越え、横走関を通り駿河路に入る。横走関から南下し、どこかで右折し西に向かう。当時の東海道の官道は海岸を通っていなかった。海岸ルートは鎌倉時代以降に開かれ近世東海道に踏襲されている。鎌倉時代以前の東海道は愛鷹山南麓をめぐる「根方道(根方街道)」を通っていたと考えられている。


平安時代東海道駿河路推定経路


足柄峠を越え横走関を経由し富士山の裾野に沿って南下すると門池にたどり着く。

ここで西に向かい更に山裾を進むと今泉を経て富知浅間神社を見下ろす場所に着く。ここから更に等高線に沿い街道を進む。平安時代には何もなかったと思われるが、現在の伝法を経て鷹岡まで進み裾野を下り、岩本の実相寺に向かう。ここの川岸が古くからの渡しである。


奈良時代以降(推定)の駿河湾岸地形、地質図

田子の浦沿岸地域の海退は紀元前1世紀には形成されていたとされ、浮島砂丘上には三基の古墳も存在する。





 


国土地理院20万分の1地形図、「静岡」部分、平成24年修正



(1)平安時代の東海道駿河路東部は愛鷹山の裾野をめぐる根方道(ねかたみち)


この『根方道』の存在は尾藤卓男氏の『平安鎌倉古道』に書かれているが、具体的にそこを通った紀行文がない。鎌倉時代には多くの東海道に関する紀行文が書かれているが全て太平洋岸コースのいわゆる『浦方道(うらかたみち)』を通り箱根路をたどっている。『海道記』のみが『浦方道』を経て黄瀬川宿まで来て北上し竹之下、足柄越えで鎌倉に向かっている。いずれにせよ、知る限り『根方道』の通過記事はない。

 本サイトでは、地理的条件から平安時代には愛鷹山の裾野を辿る根方道が東海道の官道であったと想定している。現代の道路では県道22号線がそれに当たるが、県道は明治時代に整備されたもので当然多少のコースの改変は行われている。静岡県の太平洋に面する富士川から沼津市に至る地域の広大な平地は、高度成長期以前は豊かな水田地帯であったが現在は工場、住宅地に変貌している。しかし江戸期以前には全く異なる景観であった。富士山の裾野にある愛鷹山と海岸砂州の間には広大な沼沢が広がっていた。この辺の事情については 榎原雅治著『中世の東海道をゆく』に詳しく解説されている。この地域が豊かな耕地となったのには戦国期以降積み重ねられた、祖先たちの営々たる努力があった。

幕末に描かれた歌川広重の『不二三十六景、駿河富士沼』を見ると富士山を背景に広大な沼と湿地が広がっている。この景観は一部昭和まで残り干拓事業が最終的に完成したのは戦後である。

『根方道』は浮世絵の愛鷹山(画面右の山影)の裾野に見える線状の森の辺りである。この道が古代官道だといえる理由は消極的であるが

①鎌倉時代以前、富士山裾野と海岸砂州の間は大沼沢地で、とても人が通れる状態ではなかった

②海岸砂州には平安時代に安定した道があった形跡がない

海岸砂丘には古墳もあり、古くから道があったことは想像に難くないが、平安時代に日常的に旅人が往来する官道であれば富士山と雄大な太平洋を前にした景勝の地ができ、歌枕などもできたはずだがそれがない。

一方、根方道には沿道に多くの神社、仏閣、庚申塔、石碑が存在し、いかにも古道という雰囲気がある。また古代道は段丘上を通る例が多いことを考えれば、こちらが官道である可能性が高い。また足柄に向かうのであれば根方道の方が距離が短い。下図は戦中から戦後にかけて実施された浮島沼干拓事業の計画図であるが、根方道が地形図上でどのような場所を通過しているか明瞭で、また県道22号から大宮道方面に分岐する道を明瞭にたどれる。(出典:『浮島ヶ原開拓史』付図、水野精一編、沼川水害予防組合、昭和28)




(2)根方道と足柄道は門池(かどいけ)で交差する


根方道の東端は竹之下から南下する足柄道と交差する地点である。そこは八坂神社(天王宮)という神社の辺りである。この地区はもとは「小林」という集落であったが、町名整理で消滅した。

<八坂神社(天王宮)>

神仏習合の神である牛頭天王を祀る神社。牛頭天王とは祇園精舎の守護神。これを祀る祇園社系統の神社に、津島神社、八坂神社などがある。多くは素戔嗚の尊を祭神としている。



現代地形図では土地の起伏が明瞭でない。明治20年測図の地形図を以下に示す。

平安東海道、根方道東部はこちら(門池から原田まで)

平安東海道、根方道西部はこちら(原田から伝法、鷹岡を経て富士川河畔迄)

門池はwikipediaによれば正保2年(1645年)に灌漑用ため池として竣工したという。しかし、以前からそこには上津池(かみついけ)という池があったという文献があるらしい。おそらく、古くからあった池を拡張整備したと考える方が自然だろう。更にこの池には2匹の竜のカップルについての伝説が伝えられている。そのような伝説は江戸時代に突然生まれるものではなく、始まりが分からないくらい古くからあったということの証左である。『かどいけ』は文字通り「道の角」の池であり、旅人は恰好の目印にしていたのではないだろうか。


<門池>(現地案内板)

門池は、古くは自然の簡単な溜池として隣接する村々の灌漑用水に用いられていたと思われるが、江戸時代に入り正保2年(1645)旱損緩租の為、黄瀬川を鮎壺の上流約200mほどの地点で堰き止めて作った牧堰を本用水とし、門池からの水を補助用水とする牧堰門池用水が成立した。その後、愛鷹南東麓の平坦地の稲作農業に欠くことのできない灌漑用水を供給し、農民生活を支えてきたが大正12年(1923)の関東大震災以降、黄瀬川の流量が激減し、しかも大正13年以降には旱害が相ついだ為、新たに牧堰用水不足分を門池貯水池に依って補充すべく、牧堰用水路から導水路420mのトンネルを開削した。これにより牧堰門池用水として従来にも増して大きな役割を果たすこととなった。(文章は『牧堰門池用水沿革史』より)





平安時代の東海道、根方道(県道22号線)


国土地理院25000分の1地形図平成24年更新「沼津」より

①根方道西部(門池から青野)を歩く

門池(かどいけ)(静岡県沼津市大岡)
根方道と足柄道の交差点にあり、往時は地理的目印(ランドマーク)として重要であったと考えられる。
現在は門池公園として整備され市民の憩いの場となっている。

沿道には古社寺、石碑、石仏等が多くみられる。

岡一色

<光長寺>

 
  大本山  光長寺  法華宗(本門流)現地案内板
  当山は宗祖日蓮大聖人を御開山と仰ぐ法華宗四本山の一つで徳永山光長寺と称します。宗祖の命により当地に来化された宗祖ご直弟中老日法聖人の導きにより宗祖大聖人に直参された当寺他宗の寺主空寺は、大聖人のご法門を聴聞信伏し名を日春と賜りました。
  日春日法大聖人は力を合わせて衆人を教化し、建治2年(1276年)遂に光長寺を開創して宗祖の訓命に応えました。
  以来法燈連綿七百五十年、宗祖の正義本門八品上行所伝本日下種のお題目を唱導する法華宗の大本山として多くの霊宝を伝え全国善男善女参拝の霊跡となっています。

岡宮

<常照寺>


<塔の辻の石塔群>


  根方街道沿いに、道標「根方街道」の石柱、馬頭観音、巡拝塔等の古い石塔が15基東西に並んでいる貴重な聖地であります。
  自然石の大黒天(農産・福徳の神)は、江戸後期に東間門村で私塾を開いた金岡の教育の先覚者、西尾麟角(号、馬門道人)翁の揮毫です。
  中央の長身の碑塔は、寛文4年(1664年)に建立されたもので、金岡地区では最古の碑塔といわれ、金岡村誌の口碑に「古雅なる碑塔一基あり、その高きこと約六尺にして風雅なり」と記されています。
   この碑(いしぶみ)には、当時の村の人々がきびしい生活にもかかわらず、お互いに浄財を出し合ってこの碑を建て、自分たちみんなの暮らしの向上や幸せを祈願し、またこの辻を往来する村人や旅人の安全と多幸を祈る心が刻まれているのです。
  そして天神ヶ尾や近在五ヵ村の人々六十二名の名も刻まれています。
これらの碑塔に手をあわせる時、昔から今日に至るまで、この尊い碑が郷土(ふるさと)の歴史として大切に守られ、受け継がれてきたことを思い知らされる塔の辻です。
平成26年9月吉日   天神ヶ尾自治会、他

西熊堂

<熊野神社>

<高尾山古墳>


  高尾山古墳は、市内唯一の前方後円墳(県東部では富士市の浅間古墳に次ぐ2例目、約62m)であり、かつては前方部に熊野神社、後方部に高尾山穂見神社が鎮座していました。都市計画道路の整備に伴い平成17・19年度に試掘調査、平成20・21年度に本調査、平成26年度に追加調査が行われ、3世紀前半に造られた東日本で最古級かつ最大級の古墳であることがわかりました。
  後方部中央の墓杭には、木棺を直接納めたと考えられる主体部があり、その中央付近には当時貴重品であった水銀朱が敷かれていました。また主体部から出土した副葬品の大半は武器であり、埋葬された人物の権力基盤が武力であったことを示しているのかもしれません。
  高尾山古墳からは多くの土器も出土していますが、地元の土器だけでなく、東海西部・北陸・近江・関東などの離れた地域の特徴を持つ土器(外来系土器)も含まれていました。中国(後漢)製の鏡や貴重な水銀朱を入手できる経済力の高さや交易範囲の広さ、そして古墳時代の始まりにあたり本格的な古墳を築造できたことなどから、高尾山古墳の被葬者は、この地域を中心として君臨していた有力者であったと考えられます。
沼津市教育委員会  平成30年3月

東沢田

<愛鷹神社>


<大中寺>


  大中寺 臨済宗妙心寺派 
  根方道から見える立派な山門が目を引く。開山は夢窓国師(夢窓疎石)で鎌倉時代末期、正和2年(1313)と言われる。しかし、不動明王を本尊とする所からそれ以前に真言宗の寺があったのではないかと考えられている。そこに夢窓疎石が当初愛鷹山麓で営んでいた草庵が移されたものともいわれ、最初の寺院創立時期は時代をさかのぼる可能性がある。
  夢窓疎石は作庭家としても高名で天龍寺、西方寺の庭園を手掛けた。

西沢田

<永正寺>



  六地蔵は、仏教の開祖であるお釈迦様が亡くなられた後の、無仏の時代に現れました。お地蔵様は、人間世界だけでなく、”六道”と呼ばれる六つの世界(地獄・が記・畜生・阿修羅・人間・天上)のすべての悩み苦しむ人々を救って下される菩薩であると信じられていたので、古来、六体の地蔵に造られて礼拝の対象になってきました。

東椎路

<左口神社>


<道程標>と<馬頭観音石塔>

 

東原

<愛鷹浅間神社>


鳥谷

<光巌寺>


<高橋川>高橋橋から愛鷹山を望む


青野

<妙泉寺>

 

<桃沢神社>

 
  街道から少し上った所に鎮座。式内社で江戸時代まで徳川家などに崇敬され繁栄していたが、明治に入り衰微した。それを惜しんだ里人が協力して数度、再興した。現在の社殿は平成2年の再建である。下の修理碑はその前の明治の再建を顕彰する碑である。
  修理碑(現地案内碑)
  桃沢神社愛鷹山山頂に在り、里人之を上社と称え、別に山麓に遥拝所を二つを置くに一つを中社と称し、一つを下社と称す。
日本風土記曰く、霊亀三丙辰羊卯月八日、建御名方神(たけみなかたのかみ)を祭る。延喜式正五位下桃沢天神是也。後に天彦火邇二杵尊(あまつひこほのににぎのみこと)、木花開邪姫命(このはなさくやひめのみこと)二神を配祀す。
古き碑(いしぶみ)を徴(しら)ぶるに、建久中、源右府(頼朝)が馬九十九匹を献ず。武田氏、今川氏亦た各(おのおの)田を納め祀る。及び、徳川氏九石九斗二升七合を例献と定め為し、

②根方道、青野から増川まで


国土地理院25000分の1地形図平成24年更新「沼津」より

根古屋

<興国寺城趾>




  興国寺城は長享元年(1487)伊勢新九郎(北条早雲)が今川氏親から与えられ伊豆韮山に攻め込む足がかりとした城。その後の戦国時代、城主は今川、武田、徳川、中村、天野氏と変わり、江戸時代初めに廃城となった。この城は愛鷹山の尾根を利用し南方には浮島沼を望み、根方道を遮断するように作られていた戦略的要地であったため、土塁、大空堀で固めた堅固な造りであった。しかし太平の世になると、必要性がなくなり廃城となり、三の丸を迂回していた街道も復活した。

井出

<大泉寺>阿野全成の居館跡

 
伝  阿野全成・時元墓  指定昭和58年6月15日(現地案内板)
  阿野全成は、幼名は今若丸といい清和源氏の嫡流源義朝の七男です。鎌倉幕府を開いた頼朝の異母弟、義経の同母兄にあたり、母は有名な常盤御前です。
 平治の乱で義朝は敗死し、常盤御前は今若、乙若、牛若の三児を連れて逃れ、後に助命されました。今若は山城国の醍醐寺に預けられて出家して全成と改名しましたが、その荒法師ぶりから醍醐の悪禅師とも呼ばれました。
  治承4年(1180)、頼朝が挙兵するや、全成はひそかに寺を抜け出し、修行をよそおいながら頼朝のもとに参じました。頼朝は、その志に涙して感動したといわれます。後に駿河国阿野庄(現在の沼津市東原・今沢から植田・富士市境付近まで)を与えられて井出に居館を構えたとされ、大泉寺がその館跡であると言われています。
 頼朝の死後、建仁3年(1203)5月、全成は阿野庄において平を挙げましたが、幕府軍に捕らえられ常陸国へ配流となり、同年6月23日、下野国で処刑されました。首は阿野庄の全成館へ届けられたと伝えられています。
 その後、全成の遺児時元も承久元年(1219)2月11日、反北条の兵をあげましたが、執権北条義時はただちに兵をさしむけ、交戦十日の後に阿野一族は敗北して時元も自刃しました。
  墓は、左が阿野全成、右が時元と伝えられています。
  令和元年9月30日    沼津市教育委員会

 

平沼

<八幡神社>


<浮島小学校>


船津(ふなど)

 

  船津から富士市に入る。船津は奈良時代以前、正確な時期はわからないが、浮島沼の水面が、直ぐ近くに迫り、船着き場であったと推定されている。根方道から南に下りて見ると、遥かに低地を望み、そこにかつての浮島沼が広がっていた。現在は建物が密集し往古を偲ぶべきももない。下の写真は浮島ヶ原開拓事業完成時の風景である。奈良・平安時代にはほぼ水面であった場所である(写真出典:『浮島ヶ原開拓史』口絵写真)


<興隆寺>


境熊野神社


江尾(えのお)

ここで『日、はや傾たぶきぬ。今宵は吉原に宿からむ』ということで、本日、ここまで。岳南鉄道で富士市本吉原のホテルに向かう。明日、ここに戻って根方道西部の旅を続ける。

 

根方道目印となる関連寺社、施設

・八坂神社(天王宮):沼津市大岡3868
・門池公園:沼津市岡一色と大岡の境界
・常照寺:沼津市岡宮673
・愛鷹神社:沼津市沢田町17
・永正寺:沼津市西沢田617
・左口神社:東椎路1204-1
・愛鷹浅間神社:沼津市東原420-1
・妙泉寺:沼津市青野487、法華宗、文亀元年(1501)開基
・桃沢神社:沼津市青野504、式内社
・本法寺:沼津市根小屋579
・法華寺:沼津市平沼809
・興隆寺:沼津市船津719、曹洞宗、寛永15年(1638)開山
・境熊野神社:富士市境712、明和元年(1764)再建棟札
・薬王寺:富士市境
・飯綱神社:富士市江尾714
・福聚院:富士市増川599
・中里八幡宮:富士市中里1017
・東光寺:富士市中里1249
・宇佐八幡宮:富士市中里1317-3の奥
・慶昌院:富士市中里1446
・長学寺:富士市比奈1578
・医王寺:富士市比奈1546
・諏訪神社:富士市比奈1506
・富士市東図書館:富士市比奈1447-1
・原田まちづくりセンター:富士市原田485
・原田公園
・飯森浅間神社:富士市原田、原田公園西隣
・清岩寺:富士市宇東川西町8-18
・妙延寺:富士市今泉5-17-1
・桜地蔵尊:富士市今泉2036-1向かい
・源太坂:富士市今泉9-7、源太坂クリニック地先
・かんかん堂碑(エンゼルハイム伝法の東向かい)富士市伝法2401-2
・正法寺:富士市伝法1830
・伝法保育園:富士市伝法170
・虎御前腰掛石:伝法1685隣
・実相寺:富士市岩本1847、日蓮宗、久安元年(1145)鳥羽法皇の勅願寺

 

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