更級日記の東海道の旅をもとに平安時代の古地形や文献で平安時代日本を再現
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平安時代東海道における富士川の渡河地点と浮橋による渡河

  富士川は平野部での距離が短いため氾濫しやすく古来暴れ川とされてきた。ここでは歴史に現われる富士川の姿を概観し、平安時代における冨知六所浅間神社から富士川河畔に到る経路を推定し渡河地点について考察する。



富士川の流路の変遷



  富士川は長野、山梨、静岡3県にまたがる流域を持ち甲府盆地に出て笛吹川、早川と合流し河口近くで大きく散開し、幅7㎞に及ぶ扇状地地帯を形成して駿河湾にそそいでいる。日本三大急流の一つで扇状地の頂点にあたる所では、いったん流れがまとまるが、そこを過ぎ、放射状に流れが広がり、流路は極めて不安定で 、一部は17世紀末迄吉原湊(現在の田子の港)、浮嶋沼に流入していた。河川改修が行われるようになった戦国時代以降、本流は徐々に西に移動し現代では蒲原の方にある。この本流についても伊能忠敬以後の地図に限っても何度も流路が変化している。

千年以上昔の流路は想像すべくもないが扇状地の要の位置に岩本山があり、その辺りは山地に挟まれ一定の幅はあるものの流路が安定している。この地域が渡河地点候補地である。



文献に現われた富士川渡河



(1)奈良時代・平安時代



  平安時代東海道には大河にはほとんど橋がなく渡し船で川を渡っていた。しかし、流れの速い川は舟でも危険であった。そういう場所には、川に舟を浮かべ板を渡す浮橋が架けられていた。 承和2年6月29日(836年)の太政官符には東海道では富士川と鮎川(相模川)に浮橋を築造することが記述されている。(国史大系類聚三代格後編 p.495、吉川弘文館)



更級日記には『富士川といふは富士の山より落ちたる水なり』とあるだけで地理的記述はない。



(2)鎌倉時代


①十六夜日記

  十六夜日記の作者阿仏尼は富士川下流の扇状地地帯に広がった分流15筋を徒歩で渡る。その後、浮島沼の駿河湾に沿った浦方道から東海道箱根路を経て鎌倉へ向かう。



『今宵は波の上といふ所に宿りて、荒れたる音、左右(そう)に、目も合はず。

(弘安二年1279十月)廿七日、明けはなれて後、富士川を渡る。朝河いと寒し。数ふれば十五瀬をぞ渡りぬる。

さえ侘ぬ雪よりおろす富士河の川風凍る冬の衣手

今日は日いとうらゝかにて、田子の浦に打ち出づ。海人どもの漁するを見ても、



心からおり立つ田子の雨*衣乾さぬ恨みと人に語るな

とぞ言はまほしき。』(新日本古典文学大系、中世日記紀行集、p.194、岩波書店)

※原文は雨の異体字



②『一遍上人絵伝』には富士川にかかる浮橋が描かれている

  絵巻には7艘の舟、場所は西側が淵、東側が石の河原の間に船橋が架けられている。 またその下流には渡船も見られる。浮橋がどこにかけられていたか不明。時期は弘安6年(1283年)頃か?(一遍上人ー旅の思索者、p.171、栗田勇 新潮社)

メイン画像は『一遍上人絵伝』あじさか入道の入水の場面である。(歓喜光寺蔵)



(3)江戸時代



 通常は渡船が利用されていたが、朝鮮通信使が来朝の折りには浮橋が架けられてという。長さ50間、幅9尺。長さ5~6間、幅4~6尺の舟を38艘つないで作られたという。

  江戸時代の定渡船は長さ5間4尺、幅5尺2寸、深さ2尺の平田舟と呼ばれる平底船であった。6艘常備され、人約30人牛馬4頭を乗せることが出来たといわれる。江戸時代には木材を組み合わせた構造船が建造できたので大量輸送が可能であった。



(4)近世吉原宿の三遷



  鎌倉時代以降、東海道は浮島沼の南、太平洋岸の砂丘上を経由するようになったから宿場は海岸にある方が好都合であった。最初の吉原宿(元吉原)は現在のJR 吉原駅付近にあった。ところが寛永16年(1639年)に高潮で被害を受け、少し内陸の冨士市依田原(中吉原)に移転した。ところが延宝8年(1680年)に再度高潮に襲われ三度目の移転を余儀なくされた。天和2年(1682年)に、現在、吉原商店街のある吉原本町に移転した。つまり、水害を確実に避けるには、ここまで(標高約7m)内陸に上がらなければならなかった。ちなみに、古代ランドマークである式内社、冨知六所浅間神社は標高10mである。



(5)明治時代前期の地形図



  明治20年測量の陸地測量部2万分の1の地形図「吉原」には富士川流路と東海道鉄道以外は殆ど江戸時代の状態である。



平安・鎌倉時代において富士川扇状地を通過する官道位置の考察



  東海道は今も昔も最重要幹線道路であり1、災害、悪天候で通行不能になることがあってはならない。当時は自然地形を選択することしかできなかったので、「見通し」を維持するため、ある程度標高がある位置を通り、距離が延びようとも高低差があろうとも、低湿地を歩くことを避けるルートを選んだ。このため、丘陵の尾根、丘陵の裾野など水没せず歩ける道が選ばれた。官道とは納税とか役人の移動のための公用道路であるが、これとは別に旅人の都合でできた脇道もあっただろう。その一例が阿仏尼の十六夜日記に見られる旅のルートである。彼女は富士川下流で流れが散開して浅い流れになったところを渡っている。鎌倉時代には箱根路が官道であるから河口部を渡った方が近道になるからであろう。しかし、このような道は雨風の強い日に通れなくなるから、あくまで脇道、抜け道に過ぎない。個人の旅に使う道と物資輸送等に使う官道では性格が異なる。官道は台風や集中豪雨の時以外は通行できることが条件だから、承和2年の太政官符にあるように富士川と鮎川には浮橋が架けられ交通の確保が図られていた。それは『一遍上人絵伝』に見るように鎌倉時代まで存続していた。また、絵伝に見える下流の渡船は後の江戸時代の渡し(岩淵ー水神)と同じ場所である可能性がある。鎌倉時代には場合に応じて浮橋、渡船、徒渉が使い分けられていたかもしれない。

 では、宿泊地と考えられる冨知六所浅間神社から、この浮橋に到る経路はどうなっていただろう。江戸時代東海道は吉原宿から平坦な河原を通って水神に到り渡船で富士川を渡る。このようなコースは、山で挟まれた隘路から流れ出る富士川の流れを治水工事により減速させ氾濫原にあふれるさせることがなくなってから安定な渡河ルートとなった。但し、江戸時代にも水量が多い場合には渡船は止まった。

   結論的には鎌倉時代以前には富士川扇状地を囲む山の山麓を通るしか安定な経路はなかった。それは愛鷹山麓を通る鷹岡から伝法に到る道筋に多くの寺社が存在することと実相寺の存在位置からも推測できる。この経路はほぼ標高40mの等高線に沿い水没することのない位置にある。

   実相寺は平安末期、久安元年(1145年)鳥羽法皇の勅願により智印法印により建立された天台宗の寺院である。ここには円珍が唐から招来した一切経が納められたということだが、この地方には不似合にも見える古刹である。鎌倉時代には日蓮上人が入り立正安国論を著したとされる。つまりこの寺は富士川の交通の要衝である浮橋を見下ろす位置にあったから、そこを鎮護するために建立されたと想像することが可能である。

 

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