駿河国東部の平安時代における富士川周辺の東海道および鎌倉街道
富士川は平野部での距離が短いため氾濫しやすく古来暴れ川とされてきた。この周辺の地理を概観した後、平安時代における冨知六所浅間神社から富士川河畔に到るコースと渡河地点を考察する。
(1)富士川周辺の地理的環境
富士川は長野、山梨、静岡3県にまたがる流域を持ち甲府盆地に出て笛吹川、早川と合流し河口近くで大きく散開し、幅7㎞に及ぶ扇状地地帯を形成して駿河湾にそそいでいる。日本三大急流の一つで扇状地の頂点にあたる所では、いったん流れがまとまるが、そこを過ぎ、放射状に流れが広がり、流路は極めて不安定で 、一部は17世紀末迄吉原湊(現在の田子の港)、浮嶋沼に流入していた。河川改修が行われるようになった戦国時代以降、本流は徐々に西に移動し現代では蒲原の方にある。この本流についても伊能忠敬以後の地図に限っても何度も流路が変化している。
千年以上昔の流路は想像すべくもないが扇状地の要の位置に岩本山があり、その辺りは山地に挟まれ一定の幅はあるものの流路が安定している。この地域が渡河地点候補地である。
<明治時代前期の地形図>
明治20年測量の陸地測量部2万分の1の地形図「吉原」は殆ど江戸時代の状態である(富士川流路と東海道鉄道以外)。
安政東海地震時に起きた富士川断層による流域の地殻変化
<津波被害>
現在のJR新蒲原駅は海岸から遠いが、古い蒲原宿は海に近い「古(ふる)屋敷」というところにあった。それが元禄12年に起こった津波で壊滅的被害を受けたため幕命により宿場を現在地である山沿いに移転したという経緯がある。現在、”古屋敷”という町名は住居表示から消滅し大よそ蒲原3丁目8番辺りが該当する。
古屋敷通り(現地案内板)
蒲原宿の西の入り口には木戸があり、「西木戸」と呼ばれていた。
蒲原の宿場はもともとこの西木戸より南側の古屋敷と呼ばれる所に広がっていましたが、元禄十二年(1699年)駿河湾に大津波が発生、この宿場は壊滅的な被害を受けました。 そこで元禄十四年(1701年)幕命によって蒲原宿は、西木戸から左折して山の麓を東に進み、東木戸まで新しい宿場とする事になりました。従って旧宿場の問屋、本陣、脇本陣、旅籠、馬役人屋敷などすべてがこの新宿場に移転しました。ここに江戸初期百年に亘って栄えた旧宿場と古屋敷道はさびれていきました。しかし、近年、この古屋敷道も現在では五十余軒を連らね往時を凌ぐ勢いを見せています。
<地震による隆起>
蒲原宿が面する富士川扇状地の地下には駿河トラフの北方延長上に南北方向に走る断層がある。この断層は安政東海地震(1855年)の際に動き結果的に富士川西岸、蒲原地区で約3mも隆起し、逆に東岸では沈下した。西岸の蒲原地区では平地が増え住民は大いに喜んだという。(松本繁樹『静岡の川』p.315、静岡新聞社)。この話は安政東海地震以前には蒲原には平地が少なかったことを示している。
以上の話から江戸時代初期までは蒲原宿は海に近いところにあったことがわかる。土砂の堆積が進んでいない鎌倉時代、平安時代まで遡れば、海岸線は江戸時代よりもっと山側に迫っていたはずである。
鎌倉時代の飛鳥井雅有の紀行文『春の深山路』では
『海づらを四里ばかり行きて神原(蒲原)と云ふ宿にとゞまりぬ。はるかに聞かざりし浪の音たゞ枕の下に聞こゆ』
と、すぐ近くに浪の音を聞いている。
十六夜日記では「波の上」というところに泊まったが、そこが蒲原の一部であったかはわからない。しかし、翌早朝、富士川を渡っているので、飛鳥井雅有と同じコースをたどったのであろう。
(2)富士川周辺の平安東海道、鎌倉街道のコース
①平安時代の東海道は冨士山の裾野を巡る根方道
愛鷹山麓を通る鷹岡から伝法に到る道筋に多くの寺社が存在することと実相寺の存在位置からも推測できる。この経路はほぼ標高40mの等高線に沿う水没することのない位置にある。
今泉―呼子坂―富知六所浅間神社―実相寺―富士川(渡船)―蒲原―由比
現代地図にそのコースを示した。
※参考.近世吉原宿の三遷
鎌倉時代以降、東海道は浮島沼の南、太平洋岸の砂丘上を経由するようになったから宿場は海岸にある方が好都合であった。江戸東海道の最初の吉原宿(元吉原)は現在のJR 吉原駅付近にあった。ところが寛永16年(1639年)に高潮で被害を受け、少し内陸の冨士市依田原(中吉原)に移転した。ところが延宝8年(1680年)に再度高潮に襲われ三度目の移転を余儀なくされた。天和2年(1682年)に、現在、吉原商店街のある吉原本町に移転した。つまり、水害を確実に避けるには、ここまで(標高約7m)内陸に上がらなければならなかった。ちなみに、古代ランドマークである式内社、冨知六所浅間神社は標高10mである。
富士川渡船場までのコースは以下の通り。
実相寺は平安末期、久安元年(1145年)鳥羽法皇の勅願により智印法印により建立された天台宗の寺院である。ここには円珍が唐から招来した一切経が納められたということだが、この地方には不似合にも見える古刹である。鎌倉時代には日蓮上人が入り立正安国論を著したとされる。つまりこの寺は富士川の交通の要衝である渡船場を見下ろす位置にあったから、そこを鎮護するために建立されたと想像することが可能である。
②鎌倉時代東海道(鎌倉街道)
鎌倉時代になると東海道は箱越えが主道となり、その関係で富士山麓は海岸沿いの浦方道を通る様になった。富士川も下流で渡った方が距離的に短くなるので好都合であった。また下流は水が幾筋にも分かれているため水深も浅く歩いて渡ることができた。
浮島ヶ原―田子の浦―富士川(徒渉)―蒲原―由比
富士川下流域の地形図(大正4年測図)に、平安東海道、江戸東海道、鎌倉街道を記入した。
※注.富士川西岸の江戸東海道のコース変遷
近世(江戸)東海道は当初は平安東海道と、ほぼ同じく丘陵の裾を通っていたが、天保14年(1843)に富士川の氾濫、浸食により流失してしまい、中之郷を経由する丘陵上の道(新坂)が拓かれた(遠藤秀男『富士川』 p.69、静岡新聞社)。
<実際の渡河地点>
鎌倉時代の紀行文はいずれも蒲原から富士川河口の多数の細流を歩いて田子の浦海岸に渡った。おおよその渡河経路は市立蒲原中学校の辺りである。校門の前にある「吹上の六本松」が往時の名残ではなかろうか。
浄瑠璃姫の碑・吹上の六本松(現地案内板)
浄瑠璃姫に関する伝説は、いくつかあります。浄瑠璃姫の碑には、恋い慕う義経を追ってきた三河国矢作の宿の浄瑠璃姫が吹上ノ浜で疲れ果てて死んだという内容の話が描かれています。
また小野於通の「浄瑠璃姫十二段草子」には、里人によって吹上ノ浜に追われた瀕死の義経が浄瑠璃姫の涙の雫でよみがえるという筋書になっております。義経が浄瑠璃姫の恋物語を語り物として「浄瑠璃」が江戸時代に流行しました。吹き上げの六本松は、浄瑠璃姫を葬った塚の上に、目印として植えられたと言われています。その後、大きな木に成長し、東海道を渡る旅の目印となってきたことが「東海道名所図絵」にも示されています。また武田方の戦記「甲陽軍鑑」には、永禄十二年(1559)十二月、蒲原城が武田氏に落城させられたときに、この六本松のあたりに本陣を置き、勝どきをあげたことが記されています。浄瑠璃姫の碑は、明治三一年(1898)初代町長、五十嵐重兵衛によって建立されました。この碑には「語り継ぎ 言い継ぎぎつつ今になお いくりの人の 袖を濡らすらん」(作者不詳)という歌が残されています。静岡市
紀行文に見る富士川渡河 史料
平安時代以前の東海道には大河にはほとんど橋がなく渡し船で川を渡っていた。しかし、富士川の場合、渇水期であれば下流に回れば徒歩で渡ることも可能であった。
①更級日記(1020)
『富士川といふは富士の山より落ちたる水なり』とあるだけで地理的記述はない。
②『海道記』(1223)
湯居宿を過て遥に行けば、千本の松原と云所あり。老の眼は極浦の波にしほれ、朧なる耳は長松の風に払ふ。晴天の雨には、翠蓋の笠あれば袖をたまくらにす。砂浜の水には、白花散ども風を恨ず。行々路を顧れば前途弥(いよいよ)ゆかし。
聞わびぬ千ヾの松原吹風の一方ならずわけしをるこえ
蒲原の宿に泊菅薦の上にふせり。
(貞応2年4月14日)(グレゴリオ暦1223年5月12日)
十四日(グレゴリオ暦1223年5月22日)蒲原を立て遥に行ば、前路に進み先立賓は、馬に水飼て後河にさがりぬ。後程にさがりたる己は、野に草敷てまだこぬ人を先にやる。先後あれば行旅の習も思しられて打過るほどに、富士川に渡ぬ。此河は河中によりて石を流す。巫峡のみずのみ何ぞ船を覆へさん、人の心は此水よりも嶮しければ、馬を馮(たのみ)てうちわたる。老馬々々、汝は智ありければ、山路の雪の下のみに非ず、川の底の水の心もよくしりにけり。
音に聞し名たかき山のわたりとて底さへ深し富士河の水
③『東関紀行』(1242)
仁治三年八月廿三日(グレゴリオ暦9月26日)
蒲原とふ宿の前を通るほどに、をくれたるもの待つけんとて、ある家にたち人たる、障子に物を書たるを見れば、「旅衣すそ野の庵のさむしろ(狭莚)に積るもしるき富士の白雪」といふ歌也。心ありける旅人のしわざにや有らむ。昔香爐峰の麓に庵しむる陰士あり、冬の朝簾をあげて峰の雪を望みけり。いまは富士の山のあたりに宿かる行客あり、さゆる夜衣を片敷て山の雪を思へる、彼是もとも心すみておぼゆ。
さゆる夜はたれ爰にしも臥わびて高根の雪を思ひやりけむ
田籠の浦に打出て、富士の高嶺を見れば、時分ぬ雪なれども、なべていまだ白妙にはあらず、青くして天によれる姿、絵の山よりもこよなふ見ゆる。
④『十六夜日記』(1279)
『今宵は波の上といふ所に宿りて、荒れたる音、左右(そう)に、目も合はず。
(弘安二年1279十月)廿七日、明けはなれて後、富士川を渡る。朝河いと寒し。数ふれば十五瀬をぞ渡りぬる。
さえ侘ぬ雪よりおろす富士河の川風凍る冬の衣手
今日は日いとうらゝかにて、田子の浦に打ち出づ。海人どもの漁するを見ても、心からおり立つ田子の雨*衣乾さぬ恨みと人に語るなとぞ言はまほしき。』
※原文は雨の異体字
⑤『春の深山路』(1290)
海づらを四里ばかり行きて神原(蒲原)と云ふ宿にとゞまりぬ。はるかに聞かざりし浪の音たゞ枕の下に聞こゆ。
廿四日(1290年12月24日)、富士河も袖つくばかり浅くて心をくだく浪もなし。あまた瀬流れ分かれたる中に家少々あり。せきの嶋とぞ云ふなる。また少宿あり。田子の宿とぞ申すめる。 宿の端に川あり。潤井(うるひ)川、是は浅間大明神本殿(ほう殿)の下より出でたる、御手洗(みたらし)の末とかや。
⑥『一遍上人絵伝』には富士川にかかる浮橋が描かれている
絵巻には7艘の舟、場所は西側が淵、東側が石の河原の間に船橋が架けられている。 またその下流には渡船も見られる。浮橋がどこにかけられていたか不明。時期は弘安6年(1283年)頃か。一遍上人ー旅の思索者、p.171、栗田勇 新潮社)
メイン画像は『一遍上人絵伝』あじさか入道の入水の場面である。(歓喜光寺蔵)
富士川浮橋についての誤解
承和2年6月29日(836年)の太政官符には東海道では富士川と鮎川(相模川)に浮橋を築造することが記述されている。(国史大系類聚三代格後編 p.495、吉川弘文館)
太政官符や一遍上人絵伝に登場するので富士川には常時、浮橋があったかのような印象があるが、これは誤解である。江戸時代の朝鮮通信使来朝時にしても臨時に架橋されたものである。江戸時代のように社会に余裕がある時代でも常設できなかったものが、平安時代に常設できていたとは到底考えられない。では鎌倉時代にはどうかというと、これは元寇(1274,1281年)という国家の非常事態があった。九州への兵員移動が急務となり維持費用の事等言っている場合ではなかった。一遍上人はそのような時期にたまたま富士川を訪れたのである。
※朝鮮通信使来朝時の富士川船橋(遠藤秀男「富士川」p.88 静岡新聞社)
『 これに要した費用や、近在から狩り出された人足は大変なもので、例えば寛延元年(1748)に狩り出された富士郡の人足だけで、9331人。このうち、2550人は舟をつなぎとめる藤を集める「藤取り人足」として働いている。このように資材や人足を徴用された村々を、「富士川船橋役郷」と呼ぶが、その範囲は天領と私領をあわせて、駿東郡二十四カ村、富士郡122ヵ村、庵原郡9ヵ村の合計155ヵ村に上っている。
費用を見ると宝暦14年(1764)は254両余となっている。しかし大変なのは費用よりも、その準備期間が半年前から始められるため、農繁期にあたった百姓たちがおおいに迷惑を蒙るのである。』
余談 歌川広重、「蒲原夜の雪」の謎
広重の東海道五十三次の中でも、傑作として名高い「蒲原夜の雪」図は写生ではなく、作者の想像で描かれたということである。既に人気を博していた広重が夏に蒲原宿を訪れたことは宿場の住民の記憶に刻まれていたので、間違いはないだろう。気候的に見てもこの地は温暖で絵のような深い雪が積もることはない。広重の才能には感心するばかりである。
さて、謎というのは、この絵が描いてる場所についてである。蒲原宿ではその場所には碑が立っているが(蒲原3-1-4裏)、周辺は絵のような坂のある地形ではないように思える。描かれた場所は中之郷に向かう新坂の上り口ではないだろうか(蒲原1-11-15先)。
目安となる関連寺社・施設
・富士六所浅間神社:静岡県富士市浅間本朝5-1
・実相寺:静岡県富士市岩本1847
・市立蒲原中学校:静岡県静岡市清水区蒲原49