更級日記の東海道の旅をもとに平安時代の古地形や文献で平安時代日本を再現
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駿河国東部の平安時代における東海道および鎌倉街道

  平安時代東海道は足柄峠を越え駿河に入り、富士山、愛鷹山南麓を回り長泉町を経て沼津市門池付近から西進する。ここから愛鷹山の山麓をたどり富士市に向かう。この道を根方道という。古道は明治時代に改修され現在、県道22号線(根方街道)となっている。元の古道は、根方道西部は明治20年測図2万分の1地形図(吉原、鈴川)と、根方道東部は同地形図(愛鷹山、沼津)に示している。沼津市門池から沼津市船津、富士市今泉を経由し、富士市伝法、伝法沢を越えたあたりで、大宮・吉原往還(旧道)に接続する。平安東海道は厚原まで等高線に沿って進み、厚原から裾野を下り、岩本山を目指して富士川の渡りに向かう

  このページでは西部の富士市増川地区から古道をたどる。富士川には奈良時代、鎌倉時代の一時期、船橋が架けられていたようだが、平安時代には渡船だったと思われる。


現代地図にそのコースを示した。


(1)根方道西部(増川から伝法まで)



増川八幡宮


  江尾(えのお)を過ぎ街道から寄り道をして増川八幡宮に登る。見晴らしがよく増川村の鎮守として愛鷹山尾根の端に鎮座する。創建は不明だが、少なくとも江戸時代にはあった。隣地の妙蓮寺の墓地からは富士山がよく見える。

 


福寿禪院


  奈良時代創建と伝わり、由緒深そうなお寺である。古くからの石塔、石仏とともに現在はユーモラスな石像でも親しまれている。奥には浅間古墳がある。


 

福寿禪院の140m程先にある遠藤クリニックの向かいから左折する道(はるな薬局脇)に入る。これがおそらく古道である。県道22号は直進し岡(尾根の先端)を上るが、古道は高低差のない丘陵の縁を迂回する。道なりに進むと、一見お堂にみえる「ふれあいいきいきサロン」に出るので、その前を右折、須津(すど)川の土手に上がる。人道専用の小橋を渡り中里地区に入る。


 



中里八幡宮


  鎌倉時代創建。源氏の血統が絶えた後、六代将軍として迎えられた宗尊親王の従者、冷泉隆茂が文永年間に創建したと伝わる。

 



宇佐八幡宮


  神社の鳥居脇にある氏子会館建築碑には興味深いことが記されている。会館建築の際それまであった宮田を売って費用に充てたというのである。宮田というのは神田とも言われ、神社運営費用を得るために古くから江戸時代迄、神社が所有を認められていた田である。氏子が無償で耕作し得られた米穀を売って運営費に充てていた。そういう神社所有の田は明治になって消滅したと思っていたが、この地域では戦後迄残っていたのである。しかし、さすがに、周囲の宅地化、農家の減少でそのような運営が出来なくなり、遂に売却されたとか。



氏子会館建築記念碑(現地案内板)

  当氏子会館は昭和48年4月氏子の総意をもって当宇佐八幡宮の拝殿並びに氏子集会場として建築せり。中里村下地、鈴木桝蔵の次男芳蔵は長じて比奈村清水家に婿養子となり明治14年故里の産土神の隆昌を祈念して田地弐反歩を寄進す。該地は安政年間の須津川洪水に依り荒蕪と化しいたり。尓来五ヶ年旧久保下地の氏子一同復旧に努力し美田と為す。即ち初穂を捧げて祭典怠りなし。然るに戦後この地に非農家頻りに増加し宮田耕作に支障す。加えて拝殿改築の期到る。衆議決して宮田を売却してその額の半と氏子の寄進をもって当会館を建築し半をもって尓後の祭祀の費として蓄す。

   ここに氏の徳業と先祖の労苦を称え会館建設の経緯を青石に刻し後昆に永く伝えんと碑を建つ。

 
   宇佐八幡から300mほどで再び県道22号に合流する。道はやがて赤渕川を渡り富士岡地区に入る。



湧水公園


富士岡には富士山の雪解け水が湧きだす池があり、古くから街道沿いの憩いの場となっていたようだ。周囲には長学寺、医王寺、諏訪神社がある。街道から少し山側に入り見物する。富士市立高校の脇から医王寺に入る。


 



医王寺は奈良時代に行基により創建とある。当初真言宗であったが戦国時代今川氏の庇護を受け現在は浄土宗の寺となっている。長学寺は江戸時代の創立。

 


松井菅雅句碑


湧水公園を出て富士市東図書館、吉永第一小を過ぎ、興亜工業の道路横断橋をくぐり、過ぎると道端に句碑がある。

現地案内板

  松に声ふくみて雪のあしたかな

  松井菅雅は中比奈村の生まれで幼少より俳句を学び江戸で活躍。駿府時雨窓(静岡にあった俳句結社)の看守となるなど、この地方を代表する俳人。碑は文政7年(1824年)門弟らによって建てられた。

  昭和59年2月1日    富士市教育委員会
 
 


台湾料理福婷(ふくてい)の脇で右折して古道に入る。ここで県道22号線と分かれる。道なりに進み小野製紙、五条製紙などの工場の間を抜け、原田小学校の前を進むと馬頭観音堂がある。





 

馬頭観音堂


   主要街道には物資輸送の為、多数の馬が往来した。この馬たちも事故や疲労で命を落とすことも珍しくなかった。そのような馬たちに感謝し霊を慰めるために、街道のあちこちに馬の冠をかぶった馬頭観音が祀られている。


宇東川東町の馬頭観音堂の由来(現地案内板)

   昔、それは江戸時代のことであった。斎藤の石川家で、ある年の浅間神社の流鏑馬(やぶさめ)の神事にこの石川家も流鏑馬神事の騎手をつとめる株をもっていたので、六所浅間神社あるいは富士宮の六所浅間神社の神事に参加しての帰り道に下男が馬をひいて、ここまで帰ってきたところ、とつぜん馬が何かに驚いて暴れだし、それを制止しようとした下男に馬がかみついて一命にかかわる重傷を負わせた。馬も大けがをして死んだ。そのため石川家では下男の冥福を祈り、馬の霊を供養して、その場所に馬頭観世音を祀り、毎年供養を実施してきたと伝える。     郷土史家  鈴木富雄

平成2年10月      奉納者   東京深川   藤田正憲

 

原田公園前から南に下り、宇東川西町に入る。前方の大通りは平成になってできた道路で昔は存在しなかった。渡ると根方道の道標がある。



根方道の道標


これより旧今泉村に入る。

根方街道を示す道標があるが、風化してほとんど文字は読めない。古そうだが昭和15年の設置という。

 

呼子坂

道標から坂を上る。源平合戦のとき源氏の軍勢はこの坂を上った丘に集結したという。呼子坂碑は現在、坂の途中の擁壁前にある。


史跡 呼子坂(現地案内板)

治承4年(1180年)、富士川の合戦に際し、源頼朝率いる源氏の軍勢がこの付近の高台一帯に陣を置き、ここで呼子(人を呼ぶための小さな笛)を吹いて兵を集めたことから、この呼び名が付けられたと伝えられています。

   また、「手児の呼坂」という伝説から、この名が生れたという説もありますが、同様の伝説は市内元吉原地区にも残されています。

   令和3年12月      富士市教育委員会



清岩寺


坂を上った所に赤い山門の清岩寺がある。見晴らしがよい。




妙延寺


この道には石塔、石仏が多い。少し進むと妙延寺がある。

妙延寺の脇からバス通りに出るとすぐ先に十王寺神社がある。吉原二中を過ぎると桜地蔵尊の入口を示す石の標識が路傍に立っている。

 



桜地蔵尊


街道は愛鷹南麓を通る。今では住宅が建て込んで見晴らしはないが、往時(江戸時代?)北側斜面は一面の畑だったそうだ。この地にあった墓地に一本の桜の老木があり、その墓守の老人が村の子供たちを可愛がっていたことから、地蔵さんが祀られ、桜地蔵と呼ばれることになったという。老木は既に枯れてしまったとのこと。地蔵尊には宝永3年(1706)の銘があるそうである。

 



  吉原高校の敷地の角を塀沿いに進むと、直ぐ脇道が見えるので、それを下りバス通りに出る。ここからの富士山の見晴らしは素晴らしい。出口、右手に源太坂の碑がある。





源太坂


窪地(現在地名、国久保)に下りる坂が源太坂である。

史跡   源太坂(現地案内板)

   元暦元年(1184)、木曽義仲追討のため、源頼朝は弟の範頼・義経を大将とした六万の軍勢を鎌倉から京都に向かわせました。

  この軍勢には、頼朝の重臣である梶原源太景季が加わっていました。源太景季は、日頃から頼朝の持っている「生食(いけづき)」という名馬をほしいと思っており、出発のときこれを願い出ましたが、許されず替わりに二番目の「磨墨(するすみ)」とい名馬を拝領しました。ところが、頼朝はこの後に出発のあいさつにきた佐々木四郎高綱に「生食」を与えてしまったのです。そのことをこの地で知った源太景季は、頼朝の信頼が四郎高綱より薄いと感じ、ここで四郎高綱と刺し違えて死のうと待ち構えました。この気配を知った四郎高綱は機転をきかせ、「この生食は、拝領したものでなく、盗んできたのだ」と言ってその場を治めたといわれます。

   以来、この地は名馬「生食」と「磨墨」の馬くらべをした地として現在に知られています。

   平成元年二月      富士市教育委員会

 

バス通りを渡り源太坂クリニックの脇から坂を下る。坂を下った窪地は国久保という町名だが、地形を反映していて面白い。バス通りに出て坂を上り大通りに出る。道を横断し「からあげ本舗」脇の道を進む。



かんかん堂跡石塔


江戸時代、ここに禅入庵という草庵があり、立てられた石碑を叩くとカンカンと響くのでこの名があるという。かんかん堂というお堂があったという訳ではなさそうだ。松尾芭蕉の句碑も立てられている。

 

松尾芭蕉句碑(現地案内板)

御名講(ごめいこう)や油のような酒五升

碑は文政9年(1826)、伝法村の後藤惟善が法華経を信仰し、このカンカン堂の地に草庵(禅入庵)を構えたとき、立てられたもので、句は俳人芭蕉49才、元禄5年(1692)の作と伝える。

   昭和59年2月1日      富士市教育委員会


   エンゼルハイム前のT字路を右折し80m進むと大きな道に出る。はす向かいに石塔を祀ったスレートの小堂
が見える。この道を左に真っ直ぐに登る。



西富士道路


高架道路国道139号の下をくぐる。かつては有料道路であったが現在は一般道路で東名高速道路のインターチェンジにもなっている。この道路の位置は富士山の伝法沢に有り、おおよそ沢の西が鷹岡村、東が伝法村であった。

トンネルを越えると右に正法寺入り口の看板がある。この辺りから等高線に沿う平坦な、旧街道の雰囲気ただよう道となる。





水神


水神様に感謝(現地案内板)

この地は富士山の霊水が湧き出ずる井戸があり伝法の村人の喉を潤し病気を治癒し生活と憩いの場として活気溢れる地でした。

蛇口を捻れば水の出る時代に生きるそのありがたさに、此処伝法村に暮らした祖先に潤いと恵みを供した霊水にこの井戸に感謝

おん   ばろだや   そわか

 


(2)大宮・吉原往還(旧道)


  この道は富士山の等高線に沿い旧吉原宿から大宮(富士宮市)に向かう。吉原市史によれば江戸東海道から四軒橋の手前(富士市中央町3-4、“錦町北”の信号付近)で分岐し伝法村、伝法沢を経由し、根方道と虎御前腰掛石の辺りで合流する。


虎御前の腰掛石

虎御前腰掛石(現地案内板)

  建久4年(1193)、鎌倉幕府の将軍である源頼朝は、工藤祐経などの有力御家人を率い、富士山の裾野で大規模な巻狩(狩猟)を行いました。曽我十郎祐成と曽我五郎時宗(時致)の兄弟が、親の仇である工藤祐経を討ち取るという事件が起こりました。 兄祐成の恋人であった虎御前は、兄弟の安否を心配して彼らの後を追い、ここに差しかかった時に、あだ討ちは果たされたものの、兄弟は捕らえられ、命を失ったことを知ったと伝えられています。



玉渡神社


創建時期は不明だが境内に元禄14年(1701)の銘がある双体道祖神がある。


玉渡神社(現地案内板)

  伝説によれば、曽我十郎の恋人虎御前が曽我兄弟の供養のため、兄弟終焉の地 井出の里に行こうとした際、ここにあった祠で一夜を過ごしました。

  夜中にふと目を覚ました虎御前がありし日の兄弟を思い出し涙をながしていたところ、曽我寺の辺りから二つの火の玉がふわりふわりと飛んで来て虎御前の前まで来ると消えてしまいました。

  虎御前は兄弟の霊魂を慰めるため、その夜より七日七晩この祠で念仏を唱え冥福を祈りました。厚原の人々は若く美しい虎御前が兄弟の冥福を祈るけなげな姿に感じて、虎御前の死後玉渡神社を建立し霊を祀ったと言われています。

  平成5年3月2日    富士市教育委員会

 


厚原の西端で裾野を下る


  玉渡神社から300mほど歩くと角に静岡銀行の見える交差点がある。道の角(富士市厚原43-1)には題目塔と双体道祖神がある。ここで大宮・吉原往還を左折し、裾野を下る大通りに入る。約1㎞下ると右手に丸井製紙の工場が見える。
 

 

丸井製紙わき道から潤井(うるい)川を渡る。滝戸橋のたもとには半蔵道しるべの道祖神がある。

 

<半蔵道しるべ>

  江戸時代、文政年間に川久保の室伏半蔵という人が建てた寺社参詣の道しるべで10基確認されている。ここにある物は富士・村山から富士河畔、松岡の水神に向かう下向(げこう)道の道標である。古くからここが潤井川の渡河点であったことが推察される。

  岩本山の丘陵に取り着いても古道らしきものはないので、車道を上ってゆくと岩本団地がある。ここを越えて永源寺のある麓に下る。丘陵の裾には用水路とそれに沿う緑道があるが、これは古いものではなさそうだ。




実相寺


実相寺は平安末期、久安元年(1145年)鳥羽法皇の勅願により智印法印により建立された天台宗の寺院である。ここには円珍が唐から招来した一切経が納められたということだが、この地方には不似合にも見える古刹である。鎌倉時代には日蓮上人が入り立正安国論を著したとされ、現在は日蓮宗の寺となっている。この寺は富士川の交通の要衝である渡船場を見下ろす位置にあったから、そこを鎮護するために建立されたと想像することが可能である。



 

岩本山 実相寺 由緒(現地案内板)

  当山は近衛天皇の久安元年(1145)に鳥羽法皇が比叡山・横川の智印法師に命じて建立されたもので、謂わば勅願の聖岳でありました。

創立された当初の寺域は、古い縁起書によって見ると境地一里とあり、諸堂悉く完備し天台密教の古刹として、日本国内にあまねく知られていたようであります。
 これより以後智證大師(円珍)が唐(中国)から刻唐本の一切経二本をもたらしており、一蔵を近江の三井寺、残る一蔵を当山の山上に開創と同時に安置したので、この時代より一切経を格護した名刹として知られておりました。

岩本入蔵と安国論建白

  鎌倉時代に入って正嘉・正元の頃、天変地妖・飢饉・疾病が相ついで人々を悩まし、兵革の乱も依然としておさまる気配もなく□□□三上皇が臣下のために島流しの刑にあうなど、下剋上の風潮は顕著なものがあり、やがては他国によってわが国土を侵されるというきざしも見えないわけではありませんでした。これらは大葉経・薬師経・仁王経・金光明経などに予言されていたことですが、宗祖大聖人は日増しに悪化してゆくこのような情勢をふかく憂慮せられ、さらに釈尊の真意を確かめようとして当山の経蔵に入り、諸経典の秘奥を探ること一年、立正安国論の構想が成り文応元年(1260)七月十六日宿屋光則をして執権、北条時頼に公文上書し、幕府の政道を直諫されたのですが、大聖人の意見と□□は採り挙げられませんでした。

富士川渡船場までのコースは以下図の通り。渡船場の位置は現在の富士川かりがね橋の位置とほぼ同じと推定される。(かりがね橋は2024年3月開通)

 




富士川橋以南の平安時代東海道は、国道396号線、東海道とほぼ同じルートで蒲原宿迄南下する。



雁堤(かりがねづつみ)


古来、富士川河口部は広大な氾濫原であり、古くから土地利用が試みられたが、江戸時代以前には、ことごとく失敗に終わっている。富士川は平野部の流路距離が短く、且つ直線的で、いったん上流で大雨が降ると河口一帯に一挙に土砂を押し流していたためである。従って、この広大な地域では安定した営農は長い時代できなかった。しかし戦国時代が終わる頃には土木工事の技術が向上し、江戸時代に入ると資本蓄積と共に、新田開発の機運が高まり、雁堤の建設に至った。この雁堤は現在もなお治水構造物として機能しており、感嘆のほかはない。雁堤は平安時代の交通には無関係だが先祖の偉業を讃えてここに追記する。



  雁堤(かりがねづつみ)富士市指定史跡(現地案内板)

時代:江戸時代初期

規模:全長 2.7㎞

堤高さ:5.5~7.3m

堤馬踏:平均10m

堤敷:33~46m

  雁堤は、富士市を流れる富士川の東岸にあり、岩本山山裾から松岡水神社まで及ぶ大規模な堤防です。形状が、雁が連なって飛ぶ形に似ていることからその名が付きました。

  雁堤ができる以前の富士川は、広範囲に川筋が広がっていたと考えられ、たびたび氾濫する暴れ川でした。そこで江戸時代初期、中里村の古郡孫大夫重高は、籠下村(現松岡)を開拓するために堤防工事に着手しました。

  まず、重高は元和年間(1615~1624)岩本山麓に突堤「一番出し」「二番出し」を築いて流路の変更を図り、子重政は堤防補強と新田開発に手腕を発揮しました。重政の子重年は、釜無川(山梨県)の信玄堤を参考に川の氾濫を鎮めるため、連続する突堤を築き広大な遊水地を設け、ついに延宝二年(1674)雁堤が完成しました。これにより、雁堤の南東一帯の加島(かじま)平野は「加島五千石の米どころ」と呼ばれる豊かな土地に生まれ変わりました。

  雁堤の築堤は大変な難工事であったため、古郡氏は工事の成功を願って、現在の松岡神社や中島天満宮を祀ったほか、治水工事に見識の深い鉄牛禅師と親交を持ち、完成後に鉄牛禅師を請じて松岡に瑞林寺を創建しました。また、現在の護所神社の位置には、堤防の要として人柱を埋めたとする伝説も残されており、雁堤の完成が当時の人々にとっていかに悲願であったか偲ばれます。

  こうして古郡氏三代による五十年余の長い歳月をかけて完成した雁堤は、現代においても現行の堤防として生き続け、私たちの日々の安全を支えてくれています。

  平成29年9月        富士市教育委員会




(2)富士川周辺の地理的環境


  富士川は長野、山梨、静岡3県にまたがる流域を持ち甲府盆地に出て笛吹川、早川と合流し河口近くで大きく散開し、幅7㎞に及ぶ扇状地地帯を形成して駿河湾にそそいでいる。日本三大急流の一つで扇状地の頂点にあたる所では、いったん流れがまとまるが、そこを過ぎ、放射状に流れが広がり、流路は極めて不安定で 、一部は17世紀末迄吉原湊(現在の田子の港)、浮嶋沼に流入していた。河川改修が行われるようになった戦国時代以降、本流は徐々に西に移動し現代では蒲原の方にある。この本流についても伊能忠敬以後の地図に限っても何度も流路が変化している



千年以上昔の流路は想像すべくもないが扇状地の要の位置に岩本山があり、その辺りは山地に挟まれ一定の幅はあるものの流路が安定している。この地域が渡河地点候補地である。


<明治時代前期の地形図>
   明治20年測量の陸地測量部2万分の1の地形図「吉原」は殆ど江戸時代の状態である(富士川流路と東海道鉄道以外)。



安政東海地震時に起きた富士川断層による流域の地殻変化


  <津波被害>
現在のJR新蒲原駅は海岸から遠いが、古い蒲原宿は海に近い「古(ふる)屋敷」というところにあった。それが元禄12年に起こった津波で壊滅的被害を受けたため幕命により宿場を現在地である山沿いに移転したという経緯がある。現在、”古屋敷”という町名は住居表示から消滅し大よそ蒲原3丁目8番辺りが該当する。

古屋敷通り(現地案内板)

  蒲原宿の西の入り口には木戸があり、「西木戸」と呼ばれていた。

蒲原の宿場はもともとこの西木戸より南側の古屋敷と呼ばれる所に広がっていましたが、元禄十二年(1699年)駿河湾に大津波が発生、この宿場は壊滅的な被害を受けました。 そこで元禄十四年(1701年)幕命によって蒲原宿は、西木戸から左折して山の麓を東に進み、東木戸まで新しい宿場とする事になりました。従って旧宿場の問屋、本陣、脇本陣、旅籠、馬役人屋敷などすべてがこの新宿場に移転しました。ここに江戸初期百年に亘って栄えた旧宿場と古屋敷道はさびれていきました。しかし、近年、この古屋敷道も現在では五十余軒を連らね往時を凌ぐ勢いを見せています。




<地震による隆起>

蒲原宿が面する富士川扇状地の地下には駿河トラフの北方延長上に南北方向に走る断層がある。この断層は安政東海地震(1855年)の際に動き結果的に富士川西岸、蒲原地区で約3mも隆起し、逆に東岸では沈下した。西岸の蒲原地区では平地が増え住民は大いに喜んだという。(松本繁樹『静岡の川』p.315、静岡新聞社)。この話は安政東海地震以前には蒲原には平地が少なかったことを示している。


以上の話から江戸時代初期までの蒲原宿は海に近いところにあったことがわかる。土砂の堆積が進んでいない鎌倉時代、平安時代まで遡れば、海岸線は江戸時代よりもっと山側に迫っていたはずである。


鎌倉時代の飛鳥井雅有の紀行文『春の深山路』では

『海づらを四里ばかり行きて神原(蒲原)と云ふ宿にとゞまりぬ。はるかに聞かざりし浪の音たゞ枕の下に聞こゆ』

と、すぐ近くに浪の音を聞いている。
  十六夜日記では「波の上」というところに泊まったが、そこが蒲原の一部であったかはわからない。しかし、翌早朝、富士川を渡っているので、飛鳥井雅有と同じコースをたどったのであろう。


②鎌倉時代東海道(鎌倉街道)


  鎌倉時代になると東海道は箱越えが主道となり、その関係で富士山麓は海岸沿いの浦方道を通る様になった。富士川も下流で渡った方が距離的に短くなるので好都合であった。また下流は水が幾筋にも分かれているため水深も浅く歩いて渡ることができた。

浮島ヶ原―田子の浦―富士川(徒渉)―蒲原―由比

富士川下流域の地形図(大正4年測図)に、平安東海道、江戸東海道、鎌倉街道を記入した。

※参考.近世吉原宿の三遷

   鎌倉時代以降、東海道は浮島沼の南、太平洋岸の砂丘上を経由するようになったから宿場は海岸にある方が好都合であった。江戸東海道の最初の吉原宿(元吉原)は現在のJR 吉原駅付近にあった。ところが寛永16年(1639年)に高潮で被害を受け、少し内陸の冨士市依田原(中吉原)に移転した。ところが延宝8年(1680年)に再度高潮に襲われ三度目の移転を余儀なくされた。天和2年(1682年)に、現在、吉原商店街のある吉原本町に移転した。つまり、水害を確実に避けるには、ここまで(標高約7m)内陸に上がらなければならなかった。



※注.富士川西岸の江戸東海道のコース変遷

近世(江戸)東海道は当初は平安東海道と、ほぼ同じく丘陵の裾を通っていたが、天保14年(1843)に富士川の氾濫、浸食により流失してしまい、中之郷を経由する丘陵上の道(新坂)が拓かれた(遠藤秀男『富士川』 p.69、静岡新聞社)。


<実際の渡河地点>

鎌倉時代の紀行文はいずれも蒲原から富士川河口の多数の細流を歩いて田子の浦海岸に渡った。おおよその渡河経路は市立蒲原中学校の辺りである。校門の前にある「吹上の六本松」が往時の名残ではなかろうか。

 

浄瑠璃姫の碑・吹上の六本松(現地案内板)
浄瑠璃姫に関する伝説は、いくつかあります。浄瑠璃姫の碑には、恋い慕う義経を追ってきた三河国矢作の宿の浄瑠璃姫が吹上ノ浜で疲れ果てて死んだという内容の話が描かれています。 
また小野於通の「浄瑠璃姫十二段草子」には、里人によって吹上ノ浜に追われた瀕死の義経が浄瑠璃姫の涙の雫でよみがえるという筋書になっております。義経が浄瑠璃姫の恋物語を語り物として「浄瑠璃」が江戸時代に流行しました。吹き上げの六本松は、浄瑠璃姫を葬った塚の上に、目印として植えられたと言われています。その後、大きな木に成長し、東海道を渡る旅の目印となってきたことが「東海道名所図絵」にも示されています。また武田方の戦記「甲陽軍鑑」には、永禄十二年(1559)十二月、蒲原城が武田氏に落城させられたときに、この六本松のあたりに本陣を置き、勝どきをあげたことが記されています。浄瑠璃姫の碑は、明治三一年(1898)初代町長、五十嵐重兵衛によって建立されました。この碑には「語り継ぎ 言い継ぎぎつつ今になお いくりの人の 袖を濡らすらん」(作者不詳)という歌が残されています。静岡市          


紀行文に見る富士川渡河 史料


  平安時代以前の東海道には大河にはほとんど橋がなく渡し船で川を渡っていた。しかし、富士川の場合、渇水期であれば下流に回れば徒歩で渡ることも可能であった。

①更級日記(1020)

『富士川といふは富士の山より落ちたる水なり』とあるだけで地理的記述はない。
②『海道記』(1223)

湯居宿を過て遥に行けば、千本の松原と云所あり。老の眼は極浦の波にしほれ、朧なる耳は長松の風に払ふ。晴天の雨には、翠蓋の笠あれば袖をたまくらにす。砂浜の水には、白花散ども風を恨ず。行々路を顧れば前途弥(いよいよ)ゆかし。

 聞わびぬ千ヾの松原吹風の一方ならずわけしをるこえ

蒲原の宿に泊菅薦の上にふせり。

(貞応2年4月14日)(グレゴリオ暦1223年5月12日)

十四日(グレゴリオ暦1223年5月22日)蒲原を立て遥に行ば、前路に進み先立賓は、馬に水飼て後河にさがりぬ。後程にさがりたる己は、野に草敷てまだこぬ人を先にやる。先後あれば行旅の習も思しられて打過るほどに、富士川に渡ぬ。此河は河中によりて石を流す。巫峡のみずのみ何ぞ船を覆へさん、人の心は此水よりも嶮しければ、馬を馮(たのみ)てうちわたる。老馬々々、汝は智ありければ、山路の雪の下のみに非ず、川の底の水の心もよくしりにけり。

音に聞し名たかき山のわたりとて底さへ深し富士河の水

③『東関紀行』(1242)

仁治三年八月廿三日(グレゴリオ暦9月26日)

蒲原とふ宿の前を通るほどに、をくれたるもの待つけんとて、ある家にたち人たる、障子に物を書たるを見れば、「旅衣すそ野の庵のさむしろ(狭莚)に積るもしるき富士の白雪」といふ歌也。心ありける旅人のしわざにや有らむ。昔香爐峰の麓に庵しむる陰士あり、冬の朝簾をあげて峰の雪を望みけり。いまは富士の山のあたりに宿かる行客あり、さゆる夜衣を片敷て山の雪を思へる、彼是もとも心すみておぼゆ。


さゆる夜はたれ爰にしも臥わびて高根の雪を思ひやりけむ

田籠の浦に打出て、富士の高嶺を見れば、時分ぬ雪なれども、なべていまだ白妙にはあらず、青くして天によれる姿、絵の山よりもこよなふ見ゆる。

④『十六夜日記』(1279)

『今宵は波の上といふ所に宿りて、荒れたる音、左右(そう)に、目も合はず。

(弘安二年1279十月)廿七日、明けはなれて後、富士川を渡る。朝河いと寒し。数ふれば十五瀬をぞ渡りぬる。

さえ侘ぬ雪よりおろす富士河の川風凍る冬の衣手

今日は日いとうらゝかにて、田子の浦に打ち出づ。海人どもの漁するを見ても、心からおり立つ田子の雨*衣乾さぬ恨みと人に語るなとぞ言はまほしき。』

※原文は雨の異体字

⑤『春の深山路』(1290)

海づらを四里ばかり行きて神原(蒲原)と云ふ宿にとゞまりぬ。はるかに聞かざりし浪の音たゞ枕の下に聞こゆ。

廿四日(1290年12月24日)、富士河も袖つくばかり浅くて心をくだく浪もなし。あまた瀬流れ分かれたる中に家少々あり。せきの嶋とぞ云ふなる。また少宿あり。田子の宿とぞ申すめる。 宿の端に川あり。潤井(うるひ)川、是は浅間大明神本殿(ほう殿)の下より出でたる、御手洗(みたらし)の末とかや。



⑥『一遍上人絵伝』には富士川にかかる浮橋が描かれている

絵巻には7艘の舟、場所は西側が淵、東側が石の河原の間に船橋が架けられている。 またその下流には渡船も見られる。浮橋がどこにかけられていたか不明。時期は弘安6年(1283年)頃か。一遍上人ー旅の思索者、p.171、栗田勇 新潮社)

メイン画像は『一遍上人絵伝』あじさか入道の入水の場面である。(歓喜光寺蔵)

富士川浮橋についての誤解


承和2年6月29日(836年)の太政官符には東海道では富士川と鮎川(相模川)に浮橋を築造することが記述されている。(国史大系類聚三代格後編 p.495、吉川弘文館)

太政官符や一遍上人絵伝に登場するので富士川には常時、浮橋があったかのような印象があるが、これは誤解である。江戸時代の朝鮮通信使来朝時にしても臨時に架橋されたものである。江戸時代のように社会に余裕がある時代でも常設できなかったものが、平安時代に常設できていたとは到底考えられない。では鎌倉時代にはどうかというと、これは元寇(1274,1281年)という国家の非常事態があった。九州への兵員移動が急務となり維持費用の事等言っている場合ではなかった。一遍上人はそのような時期にたまたま富士川を訪れたのである。

※朝鮮通信使来朝時の富士川船橋(遠藤秀男「富士川」p.88 静岡新聞社)
  『 これに要した費用や、近在から狩り出された人足は大変なもので、例えば寛延元年(1748)に狩り出された富士郡の人足だけで、9331人。このうち、2550人は舟をつなぎとめる藤を集める「藤取り人足」として働いている。このように資材や人足を徴用された村々を、「富士川船橋役郷」と呼ぶが、その範囲は天領と私領をあわせて、駿東郡二十四カ村、富士郡122ヵ村、庵原郡9ヵ村の合計155ヵ村に上っている。

  費用を見ると宝暦14年(1764)は254両余となっている。しかし大変なのは費用よりも、その準備期間が半年前から始められるため、農繁期にあたった百姓たちがおおいに迷惑を蒙るのである。』

余談 歌川広重、「蒲原夜の雪」の謎

  広重の東海道五十三次の中でも、傑作として名高い「蒲原夜の雪」図は写生ではなく、作者の想像で描かれたということである。既に人気を博していた広重が夏に蒲原宿を訪れたことは宿場の住民の記憶に刻まれていたので、間違いはないだろう。気候的に見てもこの地は温暖で絵のような深い雪が積もることはない。広重の才能には感心するばかりである。

  さて、謎というのは、この絵が描いてる場所についてである。蒲原宿ではその場所には碑が立っているが(蒲原3-1-4裏)、周辺は絵のような坂のある地形ではないように思える。描かれた場所は中之郷に向かう新坂の上り口ではないだろうか(蒲原1-11-15先)。

 

目安となる関連寺社・施設

  • ・増川八幡宮:静岡県富士市増川
  • ・福聚院:静岡県富士市増川599
  • ・はるな薬局:静岡県富士市神谷446-1
  • ・中里八幡宮:静岡県富士市中里1017
  • ・宇佐八幡宮:静岡県富士市中里1317-3奥
  • ・医王寺:静岡県富士市比奈1546
  • ・吉永第一小学校:静岡県富士市比奈143
  • ・台湾料理福婷比奈店:静岡県富士市比奈858-1
  • ・原田小学校:静岡県富士市原田480
  • ・原田まちづくりセンター:静岡県富士市原田485
  • ・馬頭観音堂:静岡県富士市原田494-7先
  • ・清岩寺:静岡県富士市宇東川西町8-18
  • ・桜地蔵尊:静岡県富士市今泉鍛冶町2036-1お向かい
  • ・源太坂クリニック:静岡県富士市今泉9-7
  • ・正法寺:静岡県富士市伝法1830
  • ・虎御前腰掛石:静岡県富士市伝法1685隣
  • ・玉渡神社:静岡県富士市厚原736
  • ・厚原 題目塔:静岡県富士市厚原43-1先
  • ・丸井製紙:静岡県富士市久沢37
  • ・永源寺:静岡県富士市岩本1941
  • ・実相寺:静岡県富士市岩本1847
  • ・市立蒲原中学校:静岡県静岡市清水区蒲原49
 

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