更級日記の東海道の旅をもとに平安時代の古地形や文献で平安時代日本を再現
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駿河国、静岡平野の平安東海道、鎌倉街道

  安部川と富士川で挟まれる駿河国中部は国府が置かれた中枢部である。この地域は縄文時代から人が住みつき、弥生時代には登呂遺跡を始め多くの農村遺跡が残され、豊かな地域であったことがわかる。律令時代になって国家としての統治が及んでくると、国府などの機関や駅路伝路など交通インフラの整備が押し進められた。駿河国府の遺構はまだ発見されていないが、恐らく現在の駿府城の敷地内ではないかと考えられている。従って、駿河の駅路もこの近傍を通過していたと考えられる。

静岡平野は一見、平坦地が多く、平穏で住みやすい地域であったと思われやすい。確かに何もなければ、温暖な気候と豊かな水で生産性も高かったことだろう。しかし、いったん梅雨時の集中豪雨や大きな台風がやって来ると、この地域は特異な地形から甚大な被害を受けやすい。


(1)静岡平野の駅路


古代の政府は国家経営上、交通網整備が極めて重要であることに気づいていた。全国規模の古代駅路建設がそれを示す。同時にその崩壊過程から古代の土木技術の限界も垣間見える。現代なら、土木技術だけでなく地形、地質、気象等の環境条件を総合的に考慮して道路網は建設されるが、古代では利用できる技術知識は限られていた。その結果、多大の労力を投じて建設された駅路網ではあったが、平安時代前期までに大半が崩壊、放棄されてしまった。

  静岡平野に建設された駅路は文献からルートが予測され、実際にその通りの路面が発掘調査で明らとなった、きわめて稀な例(曲金北遺跡)である。駅路の崩壊原因は社会的要因のほかに、現代まで繰り返し発生している地域特有の自然災害とも共通するものが多い。


① 駅路の基本計画


  平坦な静岡平野では横田から興津まで一直線に駅路を通し、それを基線にして耕地の条里が施工されていた。この道路は、下図に示すように文献調査から金田章裕氏により予見されていた。(古代日本の交通路Ⅰ、p.140、大明堂)

当時の技術者は的山(静岡市駿河区丸子)に登り、そこから北東の興津の前山(静岡市清水区興津本町)を望み、一直線に見通せる路線を駅路(条里の基準線)としたと考えられる。


② 曲金北遺跡の概要


  平成5年(1993)にJR東海道線東静岡駅南口で発見され数次の調査により多くの事実が明らかになった。その中で特筆すべきものが古代東海道駅路の発見である。この道は道幅約9m、側溝があり、金田氏の予想通りに直線的に東北方向に向かうものであった。出土木簡からこの道路は納税運脚が通る駅路であることも確認された。運用期間は8世紀初頭から10世紀(奈良時代~平安時代初期)までと推定されている。



<駅路の崩壊と放棄>

駅路は全国的に平安時代前半で機能を失っている。一般に駅を運営する駅家郷、駅子の負担が過大で経営破綻した面が大きいが、静岡平野の場合、この地域特有の地形、気象という環境条件も見逃せない。



(2)平安東海道、鎌倉街道となった北街道の地理的環境 


  駅路が放棄された後に静岡平野を通行するために用いられた道路は、現在も北街道として使用されている。この道路は平安時代から江戸時代の東海道が整備されるまで長く幹線道路として利用されてきた。このルートは駅路より北の谷津山の北側山麓を通っている。これは前述のように駅路が梅雨・台風などの雨季に冠水で通行不能になることを避けたものである。


<静岡平野の地形の特徴>


  静岡平野の形成は主として安倍川の河川活動に依っている。安倍川の活動については松本繁樹氏の『静岡の川』(静岡新聞社)に詳しく解説されているので、それに沿ってこの平野の特徴を述べる。

下に曲金北遺跡周辺地形図を示している。静岡平野は安倍川と巴川の二河川で形成された扇状地である。安倍川は江戸時代以前には堤防等の治水工事はなされていなかったため安部川左岸は大雨が降ると広範囲に浸水していた。一方、平野北部の地形は複雑である。南端に浅間神社がある賎機丘陵、沼上丘陵、瀬名丘陵、谷津山で囲まれた地域は奇妙なことに南部より北部が低く賎機沼があった。排水路の整備がなされた現在は調整池を残して埋め立てられている。この地域は標高7mで雨となれば周囲の山地から流れ込み、更に増水すれば、あふれて巴川に流入する。しかし巴川のような高低差の少ない緩流河川では容易に溢水する。此のような状況が発生した時、谷津山の南に位置する曲金地区は影響を受け、おそらく西北の駿府城方向と東北方向の巴川方向の水が流れ込み、そこに有度丘陵が立ち塞がり、容易に排水できなくなる。即ち、駅路はその「排水溝」の位置に建設されてしまったのである。水が引けばもちろん復旧は可能だが、泥沼状態が長期間続けば幹線道路としての役割は果たせなくなり、遂に街道は別ルートに移ることになる。



<北街道>


  駅路の選定には上記のような地形や雨季の河川氾濫に対する配慮は考慮されていなかった。必然的に駅路は長続きせず放棄され、東海道は谷津山北麓に移ることになった。地形図を見てわかるように北街道は標高の高い巴川の北側(左岸)を通り、万一の出水時にも冠水しないルートとなっている。しかし、これで問題がなくなったわけではなかった。北街道でも程度の差こそあれ現代にいたるまで水害は発生している。

北部山地に降った雨は巴川で排水されるが、前述のように高低差の少ない緩流河川の為、ただでさえ溢れ易い。その川にほぼ直角に長尾川という急勾配の川が合流していた(現在は流路改修により下流まで堤防で誘導され合流)。このため豪雨になると、まず巴川が逆流し、最初に麻機(あさばた)低地を水没させ、更に雨が続けばあふれた水は北街道に沿って、北東に流れ出て一帯を浸水させた。近年では昭和49年7月の台風と梅雨が重なった“七夕豪雨”水害が有名である。根本的な治水工事がなされなかった戦国時代以前には、住民はまったくなす術もなく、自然の猛威に蹂躙された。街道から外れるので深くは立ち入らないが、もう一つの低地、有度丘陵西方の高松低地でも同様に水害が起きていた。有名な弥生時代の登呂遺跡集落も、数度の水害で遂に放棄されたことが明らかになっている。

 では江戸時代以降、日本人はどういう対策をとっただろうか。近世東海道は有度丘陵と谷津山の間の隙間に再び戻ってきた。但し、今度は幾何学直線道ではなく有度丘陵の裾、谷津山の裾を縫うように低地を避け、扇状地扇央部(駿府城)に達している。しかし、なにより安部川左岸に霞堤という堤防が整備され平野部への浸水が防がれた効果が大きかった。



(3)清水・静岡平野の平安東海道・鎌倉街道ルート


  江戸時代以前の東海道は由比から岫崎を経て海岸沿いに進み興津川を河口付近で渡り、静岡市清水区で、“北街道”に入り駿河国府(駿府)に至る。安倍川を渡ったのちは、ほぼ江戸東海道と同じルートで宇津谷に向かうが、鎌倉時代頃までは“蔦の細道”を経て岡部に下る。


岫崎―興津川河口―興津宿―清見寺(清見関)―清水区横砂―秋葉山―高橋―梶原堂―瀬名川―国府-静岡浅間神社―安部川―手越-丸子




<岫崎>


  岫崎とは薩埵山が相模湾に落ち込んだ崖下である。干潮時に人が通れるだけの通路が露われる難所であった。そのため平安時代前期には関所が置かれたことがあるようだ。設置期間は明らかでないが、天慶三年正月二十五日(940年3月11日グレゴリオ暦)に岫崎関が凶党に打ち破られたという記録がある(日本紀略)ので、関東で起こった将門の乱の賊軍が上京するのを防ぐために設けられた臨時の関である可能性が高い。

 江戸時代に入ると、薩埵山の中腹を通る道が出来て崖下の道は東海道の本道ではなくなった。


<興津川と興津宿>


薩埵山の崖下の道を通り興津川河に達する。河口は広く水は数筋に分かれ、広重の絵に見るように、一つの流れはさほど深くなく徒歩で楽に渡れたようだ。渡り切ったところが、かつての興津駅家跡で、平安時代になってもその場所は宿営地として使われていたと思われる。具体的現在地は不明だが、地形条件から、清水興津中学の敷地内であれば、それ程無理はない。


駅路設定の基準点である前山は、この裏山である。

 


興津宿の由来(興津地区まちづくり推進委員会)

慶長六年(1601年)徳川幕府は東海道に伝馬制度を設け、興津の百姓・年寄中に伝馬朱印状を与えられる。この興津宿は江戸から数えて十七番目の宿である。

 参勤交代の制度が確立した寛永時代、東本陣・西本陣の二軒のほか、脇本陣を置き旅籠も二十四軒と言う賑やかな宿場となる。

 ともあれ、東西の交通の最重要路であり、甲州を結ぶ身延道の起点でもあった。なお、由比宿より山道で親知らず子知らずの難所「薩埵峠」を越え、ほっと一息つける宿場であった。

  この付近一帯が興津と呼ばれたのは、宗像神社の祭神(興津嶋姫命)がここに住居をさだめたことからと言われている。また、平安末期から興津家一族(興津・小島地区を治めていた)が住居していたのでその名を地名としたとの説もある。

古代からの呼び名は、奥津・沖津とも言われていた。


<清見寺>


清見寺の地理的環境については「平安時代の「清見関」はどんな場所か」を参照

清見寺(現地案内板)

清見寺は、巨鼇山清見興国禅寺という臨済宗妙心寺の禅宗寺院です。

千年もの昔に設けられた「清見ヶ関」に付属する寺院として、その歴史が始まったと考えられています。

 徳川家康をはじめ、時の権力者は、交通の要衝に位置する寺を庇護し。寺を訪れた人々は、眼下に広がる海原と対岸の三保松原の景色を絶賛しました。

 徳川家康が国交回復を発信し、1607年第1回著応戦通信使が江戸幕府を往来したとき、清見寺に宿泊したことが景気になり、清見寺で日本や三保の松原などの景観を讃える漢詩を詠み、歴代通信使の遺墨や懸け板(扁額)が山門の「東海名區」を始め多く残っています。善隣友好を重ねた文化交流・遺産文化は県指定文化財にしていされ、庭園は国の名勝に、境内全域も「朝鮮通信使遺跡」として国の史跡に指定されています。また、琉球使節団も幾度も来訪しています。

 所蔵する数々の文化財は、一寺院が懸命に果たしてきた貴重な生きた歴史遺産であります。


<横砂>


  江戸東海道を静岡市清水区で庵原川を渡った所で「横砂西の信号」を右折すると北街道に入る。この道は現在でもバス通りであり、道なりに進めば終点は駿府城を経て浅間神社東門に至る。但し、現在の北街道、県道67号線は昔の街道そのものではなく、直線化、拡幅など改修されている。昔の古道を完全にたどることは難しい。





<秋葉山>


  

遠江、秋葉山は古く、奈良時代頃に始まった山体そのものを崇拝する自然崇拝の対象であった。その後、仏教や修験道と一体になった神仏習合の霊山として信仰されるようになり、戦国時代、元亀年間に駿河にも勧請された。鎌倉街道(江戸以前の東海道)を見下ろす庵原郡袖師ヶ浦西窪の里(今の袖師町西久保)真土山(まつち山)で、秋葉山信仰は特に江戸時代以降流行した。



<高橋>高源寺

鎌倉時代創建の臨済宗の寺。梶原景時一行は鎌倉追放された後、京に向かう途上、この地で地元武士に襲撃され一族郎党は討たれた。遺骸はこの北街道の路傍にさらされた後、供養塔が建てられていた。その供養塔がこの寺に引き取られお祀りされている。景時らは更に鳥坂迄逃げたが、そこで討ち取られた。



<梶原堂>


  鎌倉時代の『東関紀行』に作者は通りかかった街道の傍らに、石積みを見つけ、それが梶原景時の墓だと知る。
『猶うち過ぐるほどに、ある木陰に石を高くつみあげて、目に立(たつ)さまなる塚あり。人に尋ぬれば、梶原が墓となむこたふ。道のかたはらの土と成けるとみゆるにも、顕基中納言のくちづけ給へりけん、年々に春の草生ひたるといへる詩、思ひ出られて、是又古き塚となりなば、名だにもよも残らじとあはれ也。羊太傳が跡にはあらねども、心ある旅人は、爰にも涙をやをとすらん。かの梶原は、将軍二代の恩に誇り、武勇三略の名を得たり、かたはらにひとなくぞ見えける。いかなる事にか有けん、かたへの憤りふかくして、忽に身を亡ぼすべきに成にければ、ひとまども延びんとや思ひけん、都の方へはせのぼりける程に、駿河国き川といふ所にてうたれにけりと聞きしが、さは爰にてありけりと哀に思ひ合せらる。讃岐の法皇配所へ趣かせ給ひて後、志度といふと所にてかくれさせおはしましにける跡を、西行修行のつゐでに見まいらせて、「よしや君昔の玉の床にてもかゝらむ後は何にかはせん」と読りけるなど承るに、ましてしもざまのものの事は申に及ばねども、さしあたりて見るに、いとあはれにおぼゆ。

哀にも空にうかれし玉ぼこの道のべにしも名をとゞめける』

※  ここでは、「梶原景時の墓は街道の道端にあった」と言っていることに留意したい。現在の北街道は地形図を見ればわかるように鳥坂の辺りは山裾から離れて100m程低地部分(かつては水田)を直線的に走っている。これは江戸時代か、明治になって行われた改良工事の結果と思われる。東関紀行の記述は鎌倉時代の街道が山裾を通っていたことを示すものである。

 

梶原景時の遺跡(現地案内板)

  もとは、梶原山竜泉院と言うお寺で梶原平三景時公を本尊として、その一族をまつるために建てられました。その時期は、景時公一族が鎌倉を脱出し上方に向う途中、この地で戦い全滅した。正治二年二月二十日(1200年)から160年経った、延文五年十二月二十八日(1360年)の事です。この時、景時公の八代の孫、梶原景慶は、駿河に赴任して来ました。足利尊氏の弟、直義の援助を得て、矢崎山の山腹に竜泉院を建て、法名を竜泉院殿梶原公大居士とおくり名し景時公をまつりました。それから六二二年経た、文政五年(1522年)に竜泉院は火災にかかり全焼しました。幸い景時公、源頼朝公、源頼家公の五位牌と如意輪観音像(金箔の厨子に安置してある)毘沙門天像等は無事でした。時の住僧は、梶原氏と縁故のある上杉家に寺院の再興を請願し、御堂一棟を贈られました。其の後、梶原堂は、何回かの復元により原形を保ってきました。

昭和三十七年、矢崎山が根元から削り取られるにあたり山腹にあった御堂を現在の場所に移転しました。

鉄筋の御堂は、この時新しく建てられたものの中には、景時公、頼朝公、の二位牌と如意輪観音像、毘沙門天像(鎌倉時代の作)しか収められていません。その横の形の崩れた三基の墓は、景時公、景季公、景高公の墓です(昭和五年ころは、墓も刻字もしっかりしていて、延文五年十二月二十八日の刻字がある宝篋印塔でした)。丸い石をなかにした五輪の塔は、供養塔です。明治四年の寺社検地で、龍泉院は廃寺となって以来牛ヶ谷区・矢崎区の信徒により梶原堂として毎年旧暦二月二十八日に祭典をしてきましたが、昭和二十八年より新暦の三月三日に祭典を行っています。梶原出高(梶原山頂)には梶原親子の碑と鬚水といわれている遺跡があります。

辞世

もののふの覚悟もかかる時にこそ 心の知らぬ名のみ惜しけれ




<横田駅家>


  和名抄に横郷の名があることから谷津山南西麓辺りではないかと考えられている。現在も横田町という地名が残り、駅路想定線にも近いので、矛盾はない。

<駿河国府>


遺構は発見されていないが、駿府城東南部という説がある。

<静岡浅間神社>


  この神社には神部神社、大歳御祖神社の式内社二社と浅間神社の三社が同一境内に祀られている。

 


駿河国総社、静岡浅間神社


御由緒(神社HPより)

●御鎮座

 神部神社・浅間神社(二社同殿)及び大歳御祖神社の三社を総称して、静岡浅間神社(通称おせんげんさま)と申し上げる。

神部神社は第十代崇神天皇の御代、約2100年前に駿河開拓の祖神・駿河の国魂の大神として鎮座され、延喜式内社であり、平安時代には駿河国総社となる。『国内神名帳』には美和明神と記され、『類聚国史』に従一位と記載されており、この地方最古の神社である。

浅間神社は延喜元年(901)、醍醐天皇の勅願により富士山本宮より分祀され、爾来富士新宮として国司の尊崇を受ける。

大歳御祖神社は応神天皇4年(273)今から1700年ほど前に、古代この地方の物流の拠点、商業の中心地であった「安倍の市」の守護神として創祀され、延喜式内社であり、『国内神名帳』に正二位奈古屋明神と記され、静岡市の地主神である。

三社とも朝廷をはじめ国司・武将等の崇敬すこぶる篤く、駿河国総社・静岡の総氏神さま、駿河の大社として広く信仰されている。
 御本社神部神社・浅間神社・大歳御祖神社のほかに境内には、麓山神社・八千戈神社・少彦名神社・玉鉾神社の四境内社が鎮座している。

●朝廷・国司・武門の崇敬

 当社は延喜式内社として朝廷・国司の奉幣や祈願の尊崇を寄せられのをはじめ、鎌倉時代以降、歴代幕府など武門武将の崇敬を受け、社領の安堵・宝物の寄進など枚挙にいとまがない。

  貞応3年(1224・元仁元年)執権北條義時公は当社に使いを差遣し社頭を検分せしめた。延元3年(1338)今川範国公は願文を納め、範氏公は天下泰平の祈願を修し、義元公は老母寿桂尼に無上の満足あらんことを祈願して、菩薩舞装束一式を奉納する等、今川家は氏神として庇護した。人質であった家康公(竹千代)は義元公が烏帽子親となって当社で元服式を行った。以降徳川氏のあつい尊崇を受けて、大御所として入府以来崇敬の真心を捧げ、徳川幕府の祈願所と定めた。

  当神社の社領は久能寺(現鉄舟寺)・建穂寺領などの浅間惣社別当寺分が含まれており、両寺院は当神社配下のもと祭祀を行っていた。ことに二月会(現在四月に行われる廿日会)には建穂寺より稚児舞楽を、三月会(桃華会)には久能寺より菩薩舞を出仕して奉納し、一社二寺による祭祀が当神社の中心的行事であり、歴代幕府はこれの庇護に勤めた。これら祭祀の費用に充てるため、これら祭祀の費用に充てるため、明治維新までに至る総石高は2313石の破格の社領が徳川将軍家より安堵されていた。


<安倍市>


安倍の市の場所として駿府城の南、両替町、上石町、梅屋町、人宿町、七間町を含む一角ではないかと言われている(静岡県史第二巻)という。しかし、奈良時代迄それが遡れるかはわからない。

万葉集(巻三284)にある以下の歌もここで詠まれたものだろう。
焼津辺に我が行きしかば 駿河なる安倍の市道に逢いし児らはも
作者は春日蔵首老(かすがのくらのおびとおゆ) 蔵首は姓で名前が老(おゆ)である。この人は元は僧で法名を弁基といった。しかし、どういう事情か大宝元年(701年)に還俗を命じられ官吏となっている。和銅7年(714年)には従五位下常陸の介であり、この時52歳であったという。この歌が詠まれた背景はこちら


<安倍川>


  承和2年(835年)の太政官符には安倍川の渡船3叟と規定してある。この川は冬の渇水期でも徒歩渡りはできなかったのだろう。当時の船着場の位置は江戸東海道の安倍川橋より上流の舟山あたりと言われている。現在、舟山は安倍川と藁科川の合流部にある洲である。
但し安倍川と藁科川が舟山付近で合流し大河川となったのは、戦国末期から江戸時代初期に行われた河川工事によるものである。それ以前は安倍川を船で渡って洲の上を歩き、江戸以前には藁科川右岸の猿郷と地続きであった舟山に達し、川岸伝いに向敷地を経て手児の呼坂を越え丸子に出る道があった。いうまでもなく、これが平安時代の東海道であった。鎌倉時代に入ると渡船場は下流に移り手越で渡河することになる(鎌倉街道)。これについては「駿河国中部(安倍川西岸、丸子地域)の地誌と古代東海道、鎌倉街道を参照」。

目印となる関連寺社、施設

・静岡市立清水興津中学:静岡市清水区興津中町148-10
・清見寺:静岡市清水区興津清見寺町418-1
・秋葉山:静岡市清水区西久保1-1-4
・高源寺:静岡市清水区高橋2-7-4
・梶原堂:静岡市清水区大内841-64
・駿府城:静岡市葵区駿府城
・静岡浅間神社:静岡市葵区宮ヶ崎

 

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