更級日記の東海道の旅をもとに平安時代の古地形や文献で平安時代日本を再現
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駿河国中部(安倍川西岸、丸子地域)の地誌と古代東海道、鎌倉街道

  駿河国府のある静岡県中部は後世も駿府城が置かれるなど、この地域の政治的中心地であった。その駿府の西部を流れる、安倍川は古来暴れ川として流域に大災害をもたらして来たが、同時に、藁科川と共に大量の土砂、砂礫を流し出し、谷を埋め、海岸を後退させて、新たな耕地を生み出してもきた。この地域では、歴史時代にも河川の変貌は続き、各時代の地形は刻々と変わってきた。特に東海道という重要街道が通る藁科川西岸の丸子地区は地形変化が著しく、時代と共に交通路も変化してきた。この静岡県駿河区丸子地区(旧長田村)は縄文時代から多くの遺跡、寺社が残された豊かな地域であり、東国への入口として地理的にも重要であった。にも関わらず、平安時代以前の史料は非常に少なく古い時代の様子はよく分かっていない。地元の郷土史家、滝本雄士氏(故人)は文献資料の欠落を埋めるべく、考古学資料、伝承、地質学調査資料などを総合的に検討し、かつての地域の姿の再現を試みられた。『ふるさとの東路 知られざる万葉の道』(滝本雄士著、池工務店・丸子路会)はその集大成である。この地域に関する知見として、これ以上のものはないので、この著書を基に平安東海道・鎌倉街道の姿を解説してみたい。このページで示す図版は、特に断らない限り前掲書(『ふるさとの東路』)からの引用である。


(1)古代の安倍川、藁科川の流路と奈良時代の藁科川右岸の地形


現在、安倍川と藁科川は舟山の辺りで合流し相模湾に流れているが、それは戦国時代から江戸時代初期の河川工事によるものである。古代の地形は地質と遺跡の調査からある程度推定することが出来る。下に「静岡大学地学教室地質図」、「奈良時代の地勢想像図と遺跡分布図」を示す。これによると安倍川は現在より賎機山沿いに南東方向に流れ、登呂遺跡は現在より海岸に近かった。さらに海岸線は、ずっと内陸にあり手越、佐渡、細工所、青木辺りまで入り込み、大和田には大和田の浦が湾入していた。このような状態が古墳時代以後いつの時代まで続いたかは正確にはわからないが、場所によっては奈良時代近くまで続いた可能性がある。


<さわたり(佐渡)の里>


  佐渡(さわたり)は沢渡りの意味で「沢(湿地)を通る」里と言う意味だろう。ここだけでなく他の地方にも同じ地名が見られる。滝本雄士氏によると、奈良時代には平野部である佐渡は海が湾入するか湿地帯で、まだ陸地ではなかったという。従って、万葉集の下の歌のように馬を走らす場面は考えづらい。丸子の旧佐渡地区には万葉時代の佐渡をしのぶ歌碑が建てられているが残念ながら、この歌は他の地方が舞台である可能性が高い。

 


<さわたりの手児万葉歌碑>
万葉集巻第十四あずま歌(3540)

さわたりのてごに い行き逢ひ 赤駒があがきを速みこと問はず来ぬ

佐渡に住む美しい少女と道で行きあったが、私の乗っている赤馬の足が早いのでろくに言葉も交さずにきてしまった

この歌は、わが国最古の歌集「万葉集」に収められ東国農民に愛唱された歌謡である。「佐渡」はその頃からのこの辺の地名でその歴史は誠に古い。昭和五十二年「丸子一丁目」と改称され「佐渡」という地名が地図の上から、永久に姿を消すことになった事を惜しみ地元町民とともにこの碑を建てる。

    佐渡の名を惜しむ会代表 春田鉄雄

    同発起人代表 文学博士 南 信一


(2)丸子地区の古代駅路


  歴史をさかのぼれば、複数の集落があれば必ずそれを繋ぐ道路はできる。しかし日本全体を統合する国家意思の下に建設された道路は駅路が最初のものである。丸子地域に関係する駅路は置かれた駅家によっておおよそ推定できる。この地域にある関連駅家は以下の三つである。

小川(こがわ)駅―横田駅-興津駅

小川駅は静岡県焼津市小川町、横田駅は静岡市横田町、興津駅は静岡市清見寺興津町にあったとされている。このうち横田駅以東は曲金北遺跡で直線道路跡が発見されたため、横田―興津区間は結論を見ていると考えてよい。ここでは小川駅―横田駅間のルート探索が問題となる。

  平野部に駅路を通す際には多くの場合、多少の起伏があろうとも直線的に路床が整備されるが、山地を通過する時にはそうは行かない。古代にはトンネルやコンクリートの橋はかけられないから古くからの道をたどるしかない。その古道を探る時、古い神社や寺の位置が参考になる。昔の旅は危険で古人は神に祈りを捧げながら山中を通過したのである。従って古い神社、寺の位置を繋いで行けばおおよその街道が浮かんでくる。滝本氏はこの観点から次の「(長田)村内の東路関係の神社所在地略図」を作成されている。これによると古くから伝承されていた路線の沿道には古社が多く分布している。一方、日本坂峠とか宇津ノ谷峠のような険しい山中には少ない。滝本氏は調査が及んでないためと考えられているが、単に、社を維持運営する氏子がいないか、少ないために険阻、不便なところに作れなかったと考えてもいいと思う。



古代駅路は小川駅から北上して日本坂峠に向かう。小川駅跡は発見されていないが、旧小川村の小字「鈴宮」が駅鈴に関係があるのではないかと考えられている(古代日本の交通路Ⅰ、p.138、大明堂)。その現在地は美容院、YELLFOREME(焼津市小川1052-1)或いは、道から奥に入った、焼津市立黒石小学校辺り(静岡県焼津市大住1246)に当る。

「古代(奈良時代)東路推定略図」を以下に示す。

古代駅路の通過経路を地形図にプロットするとおおよそ次のようになる。

小川駅―塩津―岡当目―石脇―吉津―花沢―日本坂―小坂―大和田―井尻ー細工所―丸子―宗小路―手児の呼坂―向屋敷-猿郷―舟山―(安倍川)―駿河国府―横田駅
この区間の小川から日本坂の駅路はページ末に示した地形図からわかるように、明治時代には水田であり、古代には低湿地であったと想像される。建設時には蘆原を切り開いて直線道を作ったと考えられる。このため、低湿地の道路は水害に弱く早期に放棄され、次項(3)で述べる宇津ノ谷ルートに変わったと考えられる。

尚、丸子地区には駅路建設に関する重要地点がある。古代駅路は可能な限り直線で設計され、駿河中部も直線路線である。その基点は丸子地区の的山(丸子芹が谷町の裏山)にあり、そこから北東方向の興津駅推定地にある前山を望む線が駅路線であることが曲金北遺跡の調査から判明している。当時、駿河平野では既に活発に水田耕作が行われていたが、発掘調査によれば条里施工以前の一枚の田んぼは2~4m四方の小さなものであったようだ。それが、駅路線を基準に条里が施工された後は、一区画が大きくなり水路も同時に整備されている。いわば道路建設と同時に古代の圃場整備事業が行われていたのである。現在、的山には草木が生い茂り登る道もなさそうなので、眺望を確認することはできない。当時は静岡市方面にビルもなく、耕地化していたので蘆荻の繁茂もなく眺望はよかったのではないだろうか。下の画像は丸子1-7付近の江戸東海道から見た、たぶん的山?



<手児の呼坂>


手児の呼坂は丘陵沿いの街道が金山丘陵を横断する峠道である。峠と言っても標高60mもなく、“坂”という語がふさわしい。現代では歴史愛好家が訪れる程度だが、かつては多くの人が往来する東海道であり、多くの歌や紀行文が残された。この道は江戸東海道が南の丘陵下の平野部、佐渡(沢渡り)に移る迄使われた。現在の平野部は奈良時代以前も、またそれ以後も地名から連想される通りの湿地帯であった。
万葉集に詠まれた「手児の呼坂」3首

東路の手児の呼坂越えがねて山にかねむと宿りは無しに(3442)


東路の手児の呼坂越えて去(い)なば吾は恋ひなむ後は逢ひぬとも(3447)

坂越えて阿倍の田の面(も)に居る鶴のともしき君は明日さへもがな(3523)

明治22年測図の2万5千分の1地形図に奈良時代の駅路、平安東海道、鎌倉街道を示した。


拡大地形図はこちら

(3)平安東海道・鎌倉街道

  小川駅以北の駅路が不通になると初倉駅を出て色尾から大井川を渡ったのち、焼津方面に向かわず、藤枝から宇津ノ谷を越えに変わった。そのコースは
初倉駅―(大井川)―藤枝―岡部―蔦の細道―芹が谷―宗小路―手児の呼坂―向敷地―猿郷―舟山―(安倍川)―駿河国府―横田駅
東海道がこのコースに変わった時期は「宇津ノ谷」の初出、伊勢物語、在原業平の東下り(貞観4年(863))の記事から、平安時代初期と考えられる。この東海道北方ルートは、以前の駅路と丸子地区にある宗小路で合流し、手児の呼坂を越えて駿河国府に至る。

「古代(奈良時代)東路推定略図」を以下に示す。宇津ノ谷越え(蔦の細道を通る)脇官道が平安時代の東海道となる。


<手越>

東海道は手児の呼坂を北上し舟山で安倍川を渡っていたが、ある時期から手児の呼坂から手越を経て、後世の江戸東海道と同じルートをとり国府に向かうようになる。この時期についての文献初出は平家物語、「平重衡の海道下り」寿永3年(1184年)である。 『宇都の山辺の蔦の道、心ぼそくもうつこえて、手ごしをすぎてゆけば、北にとをざかって、雪しろきやまあり。とへば甲斐のしら根といふ。其の時三位中将おつる涙ををさへて、かうぞおもひつヾけ給ふ、
おしからぬ命なれどもけふまでぞ つれなきかひのしらねをもみつ』(平家物語、下、p.260、日本古典文学大系32、岩波書店)
※滝本氏は伊勢物語にも手越の通過記事があると述べておられるが、該当箇所がなく、勘違いであろう。
鎌倉時代になると海道記、十六夜日記など紀行文に手越が出現する。これらの点から東海道が手児の呼坂―手越経由に移るのは、平安時代中期以降と想像される。その頃には手越以南の平野部の乾地化が進み安定した道路が出来たと考えられる。従って鎌倉街道はおおよそ後世の江戸東海道と同じルートとなる。但し、江戸東海道が手越-佐渡―丸子の平地を通過する時代になっても手児の呼坂は間道として利用し続けられたという。
<平安時代中期の交通路>
更級日記の菅原孝標の家族がここを通った寛仁4年(1020年)に手越が通れるようになっていたかは疑問である。大人数での移動には、実績のある安定した道が選ばれるので、以下のように考えておくのが無難だろう。
国府ー(安倍川)―舟山―向敷地―手児の呼坂―宗小路―蔦の細道―岡部―藤枝―初倉

<木枯の森>(タイトル画像)

  上記「古代(奈良時代)東路推定略図」には宇津ノ谷コースから勧昌院坂を経由して羽鳥に向かい安倍川を上流で渡って国府に向かうコースが示されている。これは東海道の間道の一つとして古くからあったものと思われる。特筆すべきは藁科川の中州である“木枯森”が清少納言の『枕草子』に取り上げられていることである。森は…の段で他の名所と共に列挙されているに過ぎないが、少なくとも「木枯森は素晴らしい」と書かれた本か歌が当時流布していたことを示している。

 

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