遠江国、大井川から天竜川までの平安時代東海道
平安時代東海道のルートは近世(江戸時代)東海道とはほとんど重ならないが、この区間に関しては、ある幅を許容すれば大体、一致する。大きな違いは江戸時代は島田から牧之原台地に登るコースとして島田から金谷に直登する道が開かれ藤枝からの距離が短縮された部分である。ただ、詳細に見れば、江戸時代のように水田地帯ではなく山裾を通過するコースを取ったであろう。
更級日記には
『さやの中山など越えけむほどもおぼえず。いみじく苦しければ天ちうという河のつらに、仮屋作り設けたりければ、そこにて日ごろ過ぐるほどにぞ、やうやうおこたる。冬深くなりたれば、河風けはしく吹き上げつゝ、堪へ難くおぼえけり。その渡りして浜名の橋に着いたり』
とあるように作者本人が病気になり、意識朦朧とした状態で旅の様子を書きとめるどころではなかった。
さやの中山を含む区間の経由地想定
初倉→(菊川)→(さやの中山)→横尾駅(掛川市)→伊摩駅、(見付の遠江国府)→天竜川(池田)
距離は約20㎞で普通なら約2日の行程であろうと思われる。しかし作者を輿で運んだり、寒さが強まっているため、露営の準備にも手間がかかるので菊川と横尾駅跡地での宿泊(2泊3日)を考えたい。菊川は鎌倉時代に現われる宿場で平安時代には単なる水場であったと考えられる。下の地図に赤点で平安・鎌倉街道の推定コースを示した。
経由地の詳細
・さやの中山
作者は「さやの中山」を病臥して越えたと思われるのに、その地名を記している。これは後年、日記をまとめる際、都人の間では既に歌枕として『さやの中山』が知られていたので記憶のない部分は後の知識で補ったのである。『さやの中山』の文献初出は古今和歌集であるので、貴族階級の間では誰もが知る地名であった。『さや』は清(さ)やの意味で「くっきりと、はっきりと」という意味。清(さや)か。さやの中山は鎌倉時代までは『さや』と発音されていたが、室町以降はだんだん『さよ』と読まれることが多くなった。恐らく「小夜」と漢字が当てられたため本来の語義が分からずそうなってしまったのであろう。
『甲斐がねを さやにも見しか けけれなく横をりふせる 小夜の中山』(古今集1097、読み人知らず)
『けけれ』当時の甲斐方言で「心」、『横をる』横たわる
歌意
「甲斐の山々をはっきりと見たい、なのにお構いなしに目の前に横たわって視野を遮るさやの中山よ」
ここで言及されている小夜の中山は実際には峠(標高252m)である。小夜の中山峠の北斜面は明治以後、木が伐採され茶畑となっている。現在は木がないのでタイトル画像のように見通しも良く遠くの山々を望める(甲斐の山まで見えるかは定かではない)。しかし江戸時代まではうっそうとした木々に覆われ眺望は良くなかったようだ。そのためこの場所は山賊が出没する緊張感を伴う場所であったという。では何故「さや」(すがすがしい、きよらかな)の中山という地名がついたのだろうか。
想像であるが峠は緑に覆われてはいるものの、清々しい立木の間からちらちらと、甲斐方面の山々が少しは見えたのではないだろうか。
>※さやの中山について安土桃山時代の連歌師里村紹巴(さとむら じょうは(1525-1602)は次のような一文を残しているという。(吉田東吾、大日本地名辞書)
『やや小夜の中山に上りぬ。雪斎大原大和尚開基の一宇、影前にて独酌、盃面に狂句のうかべるを、壁に書き付けゝる。
けけれなき山もうらみじ越て猶 甲斐が根見えぬ五月雨の空
麓に菊川と云ふ名も匂ひ浅からざるを過ぎて、金谷宿にて、大井川渡す。小夜の中山、長山と書くも、さもこそは、二三里が程、山の横一文字にして、さほやまの面影はさらなり。貫之土佐日記に、よこほりふせると、男山を川尻より見て書るも、道理なり。 (紹巴冨士見道記)』
紹巴は『さやの中山』の語源を「横一文字に2,3里続く丘陵状の長い山」からきていると考えている。彼の個人的見解とはいえ、500年前の『さやの中山』を実際に通った人の感想として無視しがたい。
参考:古今集にはもう一首「さやの中山」が登場する。そこでは単なる枕言葉として使われている。
東路のさやの中山なかなかに なにしか人を思ひそめけん 紀友則(古今集594)
・横尾駅
延喜式には初倉駅の西寄りは横尾駅が挙げられている。この駅は現在の掛川市街と想定されている。具体的遺構は発見されていないが金田氏によれば掛川市中宿あたりではないかとされている。金田章裕、古代日本の交通路Ⅰp.132(大明堂)

一方横尾駅については松尾駅の誤記ではないかという説がある。それは横尾駅が延喜式のみに現れる駅名だからである。また横尾という地名がこの地に残っていないことも挙げられる。ただ、駅家名が残らないのは全国どこにも見られるので決め手ではない。松尾については、後世の掛川城内にその名がある。松尾駅家説については別項で詳しく述べる。
”横尾駅”が金田氏推定の中宿付近であれ、掛川城松尾であれ、東海道全行程の中では誤差範囲なので、その位置については今後の研究を待ちたい。
・遠江国府(見付)伊摩駅
延喜式に遠江第三駅は□摩駅と記されているが欠字があった。現在は伊摩(今)駅と読むのが妥当と考えられている。金田章裕、古代日本の交通路Ⅰp.130(大明堂)
仮に伊摩駅であった場合、その位置は、現在の磐田市見付辺りと考えられている。ここには遠江国府が置かれていたと考えられるので、駅家と国府が同一場所に置かれていた例となる。遠江国府は奈良時代までは現在のJR磐田駅南にある御殿・二之宮遺跡にあったようであるが、低地で水害にあったためか移転している。移転先は見付の淡海国玉神社あたりと言われているが、まだ遺構は発見されていない。しかし磐田台地の先端部に位置し今之浦という沼沢に南面する好位置であるので可能性が高い。具体的国庁の位置としては現在の磐田北小学校の辺りという説がある。
平安時代中期に見付に国庁があったかどうか不明だが、実際に国司が執務している場所(国司館)は、既にどこかに移転していた可能性が高い。その場合、当時の見付は衰微していて、更級一行が宿泊できる場所も集落もなかった可能性がある。


上図は磐田市見付の現地案内板の図である。江戸時代に見付宿があった時にも見付宿南面に今之浦が描かれている。少なくとも鎌倉時代には今之浦という入江の水面が広がっていたことが知られているが、江戸時代には疑わしい。恐らく普段は湿地帯であって雨が降った時だけ湖水のように見えたのではないだろうか。その証拠は今之浦の真ん中に池があることである。
掛川市逆川流域の平安・鎌倉街道
大正時代の地形図を見ると逆川は南北の山地に挟まれた低地を東から西に流れる。現代地図を見てもわからないが、この流域は排水設備がない時代には、いったん大雨が降ると水浸しになる。季節的に不安定な道路では年間を通して利用される東海道としては不適当である。平安時代はもちろん鎌倉時代の街道についても明確な記録はないようである。小夜の中山から下って事任(ことのまま)神社までは江戸東海道とほぼ重なるがそれから西の鎌倉街道は独自のコースを取る。大正6年地形図に書き込んだ鎌倉街道は土屋善宏氏(静岡市在住)からご教授いただいた。一見して出来るだけ川沿いを避け山裾を通るコースであることがわかる。
<コース概略>
益津ー(大井川)ー湯日
ー菊川宿ー佐野(さや)中山峠ー汐井河原ー本所村ー(逆川)ー牛頭(ごうず)村ー(逆川)ー成滝村ー印内ー(切通)ー総合福祉センター(掛川東高跡地)ー掛川城内(松尾)ー掛川城天守閣北側の竹の丸前を西に向かい天王小路を下り、中宿・西宿を通り、倉真川を渡る。
飛鳥村殊勝寺の前を通り岡津村へ向かう。原野谷川を渡ってから山沿いに西に向かい浅間社を抜け、堀越から玉越へ、太田川を渡り見附に至る。
おおよその経路を現代の地図にプロットするために目印となる施設の住所を示す。
牛頭(ごうず)公会堂:静岡県掛川市逆川
切通:掛川城のある丘陵に上る崖を開削した坂道。両脇に青葉院(掛川市仁藤70)、神明宮(掛川市仁藤71)がある。
掛川市総合福祉センター:静岡県掛川市掛川910−1
殊勝寺:静岡県静岡県大池2437-1
浅間社(富士浅間宮):静岡県袋井市国本
この地域の鎌倉街道のルートについては『平安鎌倉街道』(尾藤卓夫著)でも述べられている。掛川城近くまでは概ね一致しているが、城から北上して山沿いに進まず、城南を一直線にほぼ西進する説をとっている。これは年代による変化があるかもしれない。時代が進むにつれ治水対策、開田が進み逆川沿岸も当然歩きやすくなってくるからだ。平安から室町に至る長い時代、時代ごとに鎌倉街道は当然変化していったと思われる。
平安時代には、原初的ルートとして、土屋説が適当なのではないかと思う。
