浜松周辺の平安・鎌倉街道のルート推定
天竜川左岸から浜名湖東南岸の舞阪までの区間はほとんど平坦で難所がない。そのためランドマーク(地理的目印)がなく、また遠州灘沿岸で起こった地震津波、天竜川の氾濫などの自然災害により古道の痕跡が失われ、遺跡からの復元は困難である。
平安時代には一年を通じて最も楽に通行できるコースが選ばれるので、その観点から道筋を見付浜松5万分の一地形図(明治23年)に記入してみた。赤線が平安・鎌倉東海道、緑線が江戸東海道。結果的に両街道は重なる部分が多い。
(1)天竜河畔の次なる宿営地
天竜河畔から次の宿営地に向かうには渡河に時間がかかり荷駄を伴う集団が移動できるのは最大10㎞程度である。その条件に合致するのは後世の「浜松」である。
伊場遺跡
現在のJR浜松駅西北に隣接する伊場遺跡(浜松市中区東伊場2-22)は弥生時代から奈良時代、平安初期まで続いた大規模集落遺跡である。官衙遺構があることから奈良時代以降、郡家や駅家遺構がおかれていたのでないかと見られている。「栗原」の墨書土器が出土していることから栗原駅家説が有力になっている。浜松の語源として伊場遺跡出土の木簡にある『濱津』(はまづ)が考えられるとしている。伊場遺跡は湿地化により平安初期に終焉する(現在でも伊場遺跡公園は標高1m程度)。従って平安時代中期には駅家はもちろん集落もなかった。伊場遺跡は農村集落であるとともに東海道の要衝であり交通集落の性格もあった。廃村ののちにも交通集落としての位置の重要性は変わりなく人々は周辺に移転して新しい集落を作って存続した。それが、ひくま(引馬)、別名”浜松”であると考えられる。
ひくまの宿
鎌倉時代には十六夜日記に初めて浜松という地名が登場する。『ひくまの宿と云ふ所にとまる。此所の大かたの名は浜松とぞいひし。したしき人々も住むところ也。住みし人の面影もさまざま思ひ出られき』という記述により「ひくま」の宿は浜松の別名と言っている。
では、その引馬の宿は現在の浜松市のどこにあったのだろう。これについては静岡県編纂の調査報告が参考になる。
『曳駒拾遺』によると『ひくま坂は、今の城の坤(ひつじさる南西)の方にあたり、みかたか原につゝきて、高まちといふ所にのほる坂なりといへり、また城の北にあたり、天林寺の前を過て名残村にのほる坂なりともいへり、是も味方か原につゝけり』。このことから現在の神明町坂上から紺屋町をへて高町にのぼる坂以外には考えられない。
静岡県歴史の道調査報告書20ー東海道p.13(静岡県教育委員会)
以上のことから、「ひくまの宿」はひくま坂に隣接した坂下の地域つまり浜松市中区紺屋町あたりが最も可能性が高い。現在の紺屋町交差点(標高20m)は東海道と姫街道の交差する交通の要衝である。十六夜日記の阿仏尼がここに宿泊したのなら、平安時代に更級日記一行が宿営したとしても不思議ではない。宿泊施設はなくてもここには、かつての伊庭遺跡住民の子孫が新たな集落を作っていた可能性がある。
平安時代の旅行者も浜松の集落に宿営したと考えるのが自然である。
(2)見付から天竜の渡(後の池田)までのコース
遠江国府の見付から天竜川に向かう東海道は池田の渡しで渡ることには時代的に変わりはないが、平安・鎌倉東海道と江戸東海道は天竜河畔に異なる経路をたどる。そのコースを明治23年測図の地形図(見付村)に記入してみた。平安・鎌倉東海道は見付宿のはずれからそのまま天竜河畔に池田まで直進する。その道筋は明瞭で現代道路にも継承されている。
一方、江戸東海道は見付宿のはずれから南下し中泉(現在のJR磐田駅前)を経由し天竜河畔(長森)に出て川沿いに北上し池田に至る。迂回の理由は中泉に幕府の代官所があったからと思われるが、それなら、わざわざ池田に渡船を置かず長森に渡船(現在の天竜川橋の位置)を置けばよかろうと思うのだが、何か理由があったのだろう。
(3)天竜の渡(後の池田)から浜松までの経路
池田の渡し(平安初期には集落はなかった)で天竜川を渡河し、大甕(おおみか)神社を経由し現在の安新町付近で江戸東海道に合流し浜松まで同じルートをたどるとと考える。『平安鎌倉古道』p.166の中で尾藤卓夫氏は江戸東海道とは少しずれたルートを図示しているが、根拠が示されていない。明治23年測図の地形図にもそれらしき古道の痕跡が見られない。とすれば江戸時代東海道は、ほぼ直線的で、微高地をつなぐ形で設けられているので平安・鎌倉東海道を踏襲していると考えてよいのでないだろうか。
古道の沿道には古い寺社、古跡がある。上記『平安鎌倉古道』には目印となる次のような古跡が挙げられている。
- 松之浦神社(浜松市東区松小池町304-1)
- 大甕神社(松尾社)(浜松市東区中野町2203)
- 普伝院(浜松市東区安新町126)
- 八柱神社(浜松市中区船越町26-3)
- 妙恩寺(浜松市東区天竜川町179)
- 木船廃寺
- 蒲神明宮(浜松市東区神立町471)
- 山の神遺跡(浜松アリーナ浜松市東区和田町808-1)
(4)浜松から浜名湖岸へ
浜松から浜名湖湖岸に至る経路の痕跡を現代の地形に見出すのは非常に困難である。浜松から舞阪に至る地形図(明治23年測図)を示す。遠州灘沿岸はたびたび大地震・津波に襲われ道路跡はもちろん寺社なども流されているので、何も残っていなくても不思議ではない。それどころか地形も今切の出現など大きく変化しているので、現代の地形に推定路を描いても目安に過ぎない。
街道は海岸の砂浜をたどり、鎌倉時代の『海道記』はその様子を以下のように描写している。
『此所をうちすぎて浜松の浦にきたりぬ。長汀砂ふかくして行ば帰がごとし、万株しげくして風波こゑを争ふ。見れば、また洲嶋潮を呑む、のめば即曲浦の曲より吐出し、浜波珠を汰(ゆ)る、ゆれば即ち畳巌の畳に砕き敷く』(『海道記』1223年)
古跡としては
- 五社神社(諏訪神社含む。いずれも江戸時代の創建)(浜松市中区利町307-5)
- 鴨江寺(浜松市中区鴨江4-17-1)
(5)浜松の次なる宿営地
距離的に見れば舞坂あたりが適当である。鎌倉時代に入ればここに宿場ができる。廻沢、舞沢、舞坂などの名前で出現するがいづれも同じ場所であると考えられている。平安時代には、あったとしても小規模な漁村しかなかったので冬季の宿営は大変であったと思われる。
