更級日記の東海道の旅をもとに平安時代の古地形や文献で平安時代日本を再現
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宇津の谷越えで遠江に入る平安時代東海道・鎌倉街道と大井川を下流、色尾で渡った理由

宇津の谷越えで遠江に入る平安時代東海道・鎌倉街道(大井川を下流、色尾で渡る)

タイトル画像はウィキペディア掲載された静岡空港建設中の航空写真である(一部編集)。

https://ja.wikipedia.org/w/index.php?curid=698323


  駿河、丸子から宇津の山を蔦の細道で越え、岡部に下る。その後、藤枝、前島を経由し大井川の広大な氾濫原を横断し対岸の色尾に至る。牧之原台地に上がり権現原を横断、菊川に達する。

平安・鎌倉時代の旅人は、当時の東海道について次のように語っている。(更級日記は上京、それ以外は鎌倉への下向)
<更級日記>(1020年)

『大井川といふ渡あり。水の、世の常ならず、すり粉などを、濃くて流したらむやうに、白き水、早く流れたり。…ぬまじりといふ所もすがすがと過ぎて、いみじくわづらひ出でて、遠江にかゝる。』

<海道記>(1223年)

『播豆蔵宿を過て大堰川を渡る。此河は中に渡り多く、水又さかし。流を越へ嶋を阻(へだ)て、瀬ヾ方々に分たり。此道を二三里行けば、四望幽にして遠情をさへがたし。時に水風例よりも猛くて、白砂霧の如に立。笠を傾て駿河国に移ぬ。前嶋を過に波は立ねど、藤枝の市を通れば花はさきかゝりたり。

 前嶋の市には波の跡もなし みな藤枝の花にかへりつゝ
<東関紀行>(1242年)

『はるばると広き河原の中に、一筋ならず流れ分れたる川瀬ども、とかく入違ひたるやうにて、 すながしといふ物したるに似たり』
<十六夜日記>(1279年)

弘安2年(1279)10月25日

『廿五日、菊川を出でて、今日は大井川といふ河を渡る。水いとあせて(浅くなって) 、聞きしには違ひてわづらひなし。いと遥か也。水の出でたらん面影、推し量らる』


(1)大井川平野の地形


①大井川扇状地


  大井川は赤石山地を源流とする大河川である。大井川は金谷町横岡で平野部に出て、現在は牧之原台地に沿って22kmを流れ駿河湾に注ぐ。ところがこの扇状地は勾配が非常に小さく、いったん豪雨に見舞われるとテーブルに水を流す如く網状に広がり、広範囲に水と砂礫がぶちまかれる。大規模堤防工事がされない時代にあっては、いったん洪水が収まり水路、土砂堆積が安定したとしても、数年後に再び洪水が起これば、全てが御破算となり新しい流路が出来上がる。このようなことが江戸時代に至るまで繰り返されたため、この平坦で広大な土地には開発の手が入らなかった。

下の地形図(二万五千分の一、大正5年測図)に示すように、大正時代には扇状地はほとんど耕地化しているが、鎌倉時代の紀行文にみられるように平安・鎌倉時代には、見渡す限り砂礫の広がる荒蕪地であった。更級日記の『ぬまじり』という地名からから推し量られるような、“ずぶずぶ”の湿地帯もあった。



②平安・鎌倉東海道が大井川を下流(色尾)で渡らざるを得なかった理由


  江戸時代の東海道は大井川を島田から金谷に渡る。ここには橋が架けられず、人足渡しであった。渡河後、金谷から急峻な崖を登り、平安鎌倉時代の東海道に合流し、小夜の中山を経由し掛川に下る。この金谷の坂道は室町時代以降に開かれたと見られ、それ以前は流れが広範囲に広がり水深が浅い下流で渡り、初倉集落を経由し、権現原と呼ばれていた牧之原台地に上がり菊川に向かった。



(2)岡部から大井川を経て菊川までの平安・鎌倉街道のルート


  岡部から大井川河畔まで、ほぼ平坦な土地を歩く。


岡部―仮宿―水守―藤枝―前島―沼尻―八幡―(大井川)―色尾―初倉―権現原―菊川
岡部は宇津の山を越え駿河国府にぬける山道の入り口である。奈良時代の駅路は日本坂を越えていたが、平安時代に入ると東海道は宇津の山を「蔦の細道」で越えるルートに変わった。

<岡部、小野小町の姿見の橋>
岡部には鎌倉時代以降は宿がおかれたが、平安時代以前には定まった宿泊施設はなかった。岡部宿には小野の小町姿見の橋というのがある。平安前期に活躍した小野小町は出生が謎に包まれた女性である。近江国小野荘で出生という伝承があるほか、実は出羽出身で、近江の小野氏の養女となり、都に上ったともいわれる。そういう出自であれば、年老いて、出羽に里帰りすることがあってもおかしくない。そうでなければ、高名な貴婦人が草深い平安時代の東海道を下る理由もない。同様な伝承は和泉式部にもあり、多数の賢くて美しい少女たちが、貴族の宮廷対策要員として密かに都に集められていたのではないかという”疑惑”を感じさせる伝承である。蝦夷地の娘なら身元が割れず、色白美人が多く好都合だった。


この伝説は真偽不明だが、平安前期にこの東海道(蔦の細道ルート)を越えたとすれば在原業平に並ぶものである。
(小町現地案内板)

小野小町は絶世の美人であり、歌人としても有名であった。晩年に東国に下る途中この岡部宿に泊まったという。

 小町はこの橋の上に立ちどまって、夕陽に映える西山の景色の美しさに見とれていたが、ふと眼を橋の下の水面に移すと、そこには長旅で疲れ果てた自分の姿が映っていた。そして過ぎし昔の面影を失ってしまった老いの身を歎き悲しんだと言う。こんな事があって、宿場の人たちはこの橋を「小野小町の姿見の橋」と名づけたという。



<若宮八幡神社>

旅人はこの神社の前の岡部川を渡って宇津の山へ出入する。若宮八幡の創建は平安初期と伝えられるが、それ以前から、ここに、旅の安全を祈るための、岩の御神体があったかもしれない。現在の遊歩道として整備された“蔦の細道”からは想像しがたいが、当時、宇津ノ谷は暗く恐ろしい山であった。

若宮八幡宮(現地案内板)

祭神 仁徳天皇・応神天皇・神宮皇后

由緒

延喜8年(908年)8月13日堤中納言兼輔がここに祀る。

貞享3年(1686年)岡部長敬によって本殿を造営され、現在に至る。

例祭 毎年9月第2土曜日・日曜日

特殊神事

『神ころばしと七十五膳』(三年年に一度例祭の月曜日に行う)

昭和48年(1968年)岡部町指定民俗文化財に指定される。

 


<用雲寺>


岡部を出て街道は暫し朝比奈川沿いに南下する。その仮宿の地に室町時代に開かれた用雲寺がある。村はずれには街道の位置を示すための秋葉山常夜灯がある。



曹洞宗日行山用雲寺の沿革
 用雲寺は室町時代、弘治三年(1557)常楽院四世月洲秀隣大和尚により開創される(今より437年前)。開山、月洲秀隣大和尚は学識力量共に卓越せる禅僧で仮宿に用雲寺を開創の後、永禄十年(1567)懇請されて焼津市一色の成道寺の開山となる。永禄十二年(1569)榛原坂部の石雲院の輪番住職請状を受け輪住される。永禄十二年十一月十八日示寂さる。

当寺開山当時の駿河の国は今川氏の勢力下にあり、一五六〇年今川義元、桶狭間の戦いで織田信長と戦い敗れて戦死する。その子今川氏真が家督を継ぎ、永禄八年(1565)常楽院を今川氏の祈願寺として帰崇される。一五六九年松平家康(後の徳川)は今川氏の領地遠州を攻略、掛川城を明け渡すことになる。群雄割拠の室町戦国時代開創された当寺は、今日まで437年の歳月を閲している。本尊地蔵菩薩は日限(ひぎり)の地蔵菩薩として檀信徒はもとより、近隣遠在の善男善女の信心を集めている。

昭和五十九年本堂屋根替え大修復、昭和六十二年庫裏新築工事、平成二年位牌堂新築、平成六年境内地整備、東司建築、文殊菩薩台座新調安置。

是れ偏に、仏天の加護と歴住諸位大和尚、壇信徒帰崇の賜であり、茲に一文を草し、当寺護持継承を永く後世に残し、併せて当寺の隆昌と壇信徒の繁栄を祈念する。

平成六年七月吉日

 


<青山八幡宮>


この神社は潮山から延びた丘陵の先端にある。丘の下には葉梨川が流れ、城砦として東海道を見下ろす最適な位置にある。実際ここは八幡山砦という城塞であった。この砦がいつ誰によって築かれたかはっきりしないが、戦国時代におそらく徳川氏により修築されたものと推測されている。しかし、地元岡部氏の居城朝日山城の尾根続きであることから、室町時代から街道を監視する目的で設置されていた可能性もある。八幡社としては、平安時代後期に源義家により、石清水八幡宮を勧請されたものと言われる。

<左車神社>


鎌倉街道(東海道)は水守という集落を過ぎる。この辺は川の流路は入り組んで、いかにも昔は大水害が起こったことが想像される。事実、「水守」は葉梨川の屈曲を改修した時に付けられた地名だという。「水守」修築の時期は、以下の神社縁起から鎌倉時代、建長4年以前であったことがわかる。


建長4年(1252年)後嵯峨天皇の皇子、宗尊親王が鎌倉幕府の将軍として鎌倉に下向された際、この水守の地で乗っておられた車の輪が突然折れて旅を中断されました。壊れた左の車をこの地の大イチョウの根元に埋めたことが、神社の発祥と伝えられている。


<蓮生寺>

蓮生寺は蓮華寺池にほど近い街道沿いにある。

由緒

建久6年(1195)、法力房蓮生(熊谷直実)が開山。蓮生とは平家物語、『敦盛最期』に登場する熊谷次郎直実のことである。自分の息子と同じ齢格好の平家の公達を討ち取ったことで、武者の業とは言え、多くの人を殺してきたことに煩悶する。建久6年(1195)、法然上人と出会い、仏法によって救われることを知り出家した。蓮生が開いた寺は、その後、親鸞聖人に帰依し浄土真宗の寺となった。


<志太郡衙趾(御子ヶ谷遺跡)>

律令制のもとで郡衙は国衙の下で実質的に民を支配、徴税する要の機関であった。しかし、実際に遺構が発見された例は非常に少ない。この遺跡では出土した、「志太」という地名、「大領」、「少領」「主帳」などの郡の官職名が書かれた墨書土器が発見され郡衙趾であることが明らかになった。位置的にも古来から近世までの東海道の沿線にある。

志太郡衙趾跡 国指定史跡(現地案内板)

志太郡衙は、東・南・西側の三方を山で囲まれた奥行き130m、幅110mの谷あいにあり、この場所は、御子ヶ谷(みこがや)と呼ばれていました。奈良時代から平安時代にかけての志太郡の郡役所であったこの遺跡は、谷の入り口部分の少し高くなった南北70m、東西80mの範囲から掘立柱建物跡、井戸、土拡、板塀、柵、土塁、門、石敷道路などの遺構が発見されています。整備されている遺構は、奈良時代の終り頃から平安時代にかけての遺構群で、掘立柱(10棟の中で床張建物5棟、土間建物5棟)、門(2ヶ所)、板塀、井戸、石敷道路です。

 


<前島神社>

この神社は由緒書きにあるように江戸時代まで浅間神社であったが、明治になって他の社を合祀し、前島神社となった。前身の浅間神社は戦国時代、天正年間に創建されているので、江戸東海道が建設される以前の街道位置を示唆するものである。
因みに前島という地域は現在のJR藤枝駅あたりがを中心であった。海道記では「藤枝の市」、「前島の市」が区別せず使われている。言い換えれば、両者は一体で、当時の藤枝という集落そのものが江戸時代の藤枝宿より南西よりが中心地であったことを思わせる。


前島神社 現地案内板

例祭日 十月七日

由緒

当初は浅間神社と称し、今を去る四百年前の天正年間(1575年)の創立、明治八年村社に列せられ、明治十一年二月、横内大井神社、柴田稲荷神社を合祀、改めて前島神社と改称、明治四十年二月神饌幣帛料供進社に指定さる。
明治三十六年四月 岩田神社に奉斎の地区戦没者を祀る御霊神社を、又以前に津島神社を境内に遷座し境内社は二社とし今日に至る。

平成六年吉日

祭神

主神 木花咲耶姫命

天照大神の御孫瓊瓊杵命の御妃神で、その名も美しい女神であり、元の浅間神社の御祭神である。

元の浅間神社は天正年間(1573~1592年)約400年前に、創建のはじめと云い伝えられている。

昔第七代孝霊天皇の御代、富士山が噴火し鳴動常なく、人民恐れて逃散し、年久しく日本国中が荒れ果てたので第十一代垂仁天皇はこの神を富士 山足の地に祭り山霊を鎮めたと云う。

御祭神は子安神社の神であり、御神徳は、火難・消除・安産の神・航海・漁業・農業の守護神として信仰が著しい。

右神 彌都波能売(みつはのうめ)の神

元の大井神社の御祭神で、水の神様である。

今から1200年程の昔、大井川は凡そ16キロに及ぶ広大な河口を有し、志田平野一面に幾本もの支流をなして広い河口を有し、時には平野一面を濁流の海と化して、流されたこともあると伝えられる。大井川沿線、かつての流域を中心に八十社に近い大井神社があり当、前島神社もその一社である。

御本宮は奈良県の元官幣大社、丹生川上神社であり、御神徳は古来より水を恵み大地を治める女神で、鎮火の神様、安産の神として深く信仰されている。又、伊勢皇大神宮には五十鈴川に水の神様がある。

左神 宇加之御魂神

元の稲荷神社の御祭神である。

もともと五穀を始めとするすべての食物、蚕桑のことを司る神として信仰されていたが、中世から近世にかけて従来の農業の神から殖産興業神・商業神・屋敷神・と拡大し、農村だけでなく大名、町家の随所に奉祀されるようになった。

起源は元明天皇の和銅四年(711年)一二七三年前(現在の伏見稲荷大社)がはじまりと伝えられる。

全国に約四万を数える神社があり、当社はその一つである。

ご本宮は京都伏見の稲荷大社である。ご神威は日本の津々浦々に及んでいる。


<沼尻>

『ぬまじり』という地名は更級日記だけが伝える地名である。沼尻の現在地については別ページで論じた。その場所はかつて栃山川が蛇行してできた沼あるいは湿地帯で現在の地名で藤枝市下青島周辺と推測される。具体的には、いけがや接骨院から県立藤枝特別支援学校辺りではなかろうか。


<大井川渡河地点>

大正時代の地形図には大井川の渡し場が記入されている。西岸の「色尾」の対岸の「八幡」が船着き場かと思われる。但し、大井川の流路は時代により全く異なり、地形図にある大井川主流の位置は江戸時代以降のものである。河川整理が全くされていない平安、鎌倉時代の大井川下流では、本流のようなものはなく流れは大きく網状に散開し、水は細く浅かった。

更級日記では『すり粉などを、濃くて流したらむやうに、白き水』と表現し、非常に水が浅かったようである。歩いて渡ったか、女性子供だけ輿で濡れないように渡してもらったかもしれない。鎌倉時代の紀行文でも水深は浅かったとしている。

地形図(二万五千分の一、島田、大正5年測図)を下に示す。


<色尾、初倉>

初倉駅家地域は平安・鎌倉時代には重要な交通集落であった

   谷岡氏は大井川扇状地の集落につき起源とその後に継承された集落について考察している。それによれば、古代東海道の通る権現原と初倉周辺地区についての状況は以下のようであった。

この地域には縄文時代、弥生時代を通じて人が生活し多くの遺跡を残している。牧之原台地上には多くの縄文遺跡がある。一方、弥生遺跡は少ない。これは日本全国について言えることだが稲作を中心とする弥生時代には集落は農業活動に便利な低地で営まれたため住居遺跡が残りにくいためである。しかし台地上には多くの古墳が残ることから人の居住が続いたことは明らかである。初倉のある台地の南側下の低地には条里の跡が残り安定した農業生産があったことが分かる



※谷岡武雄:大井川扇状地における散居集落:その起源と集落方の継承性に関する若干の考察

https://doi.org/10.14989/shirin_56_319

  ここには二つの式内社、敬満神社(標高85m)と大楠神社がある。遠江国は大国ではないのに隣接して式内社が二つあるのは何か特別な意味があるのだろうか。以上の事から初倉には駅家が置かれる地理的要件を満たし、それを支える経済力があったことが分かる。

<敬満神社>

敬満(きょうまん)神社(現地案内板)

祭神 敬満神 少彦名命、天照皇大神・速須佐之男尊

合祀・建御名方命・事代主命・阿遇突知命・御食都神・高皇産霊神

例祭日・十月十五日

境内社・大楠神社・水神社

御由緒

   当社は、遠く垂仁の朝二十六年の創祀と伝えられ(社伝)文徳の朝、仁寿三年に名神に預る神社に列せられ(文徳実録)清和の朝、貞観二年には「正四位下」を授けられ(三代実録)醍醐の朝には、国幣大社の列にあった(延喜式)ほどで、まさに古社であり名社であった。近世に至り徳川幕府からは、先規に倣って社領を寄進せられるなど皇室を始め武門の崇敬が篤く、古代榛原郡の中心榛原郷、その主邑たる初倉の鎮護として、この地方の尊崇極めて温厚なるものがあった。降って明治維新の際、明治四年五月太政官より「官社以下定額」が布告された。それに因って郷土初倉の産土神として、明治六年郷社に列せられ、次で神饌幣帛料供進神社に指定された。

   尚昭和二十一年一月由緒上、県社たる資格のある旨神祇院から認定された。例祭日は郷内の祝日(旗日)として官公衙、学校を始め各戸休業して、敬意を表するのが通例であった。祭日には、諸社の管者としての地方長官の代理官として郡長、地方事務所長若くは村長が奉幣使となって参向し、また邑の名誉職、学校長、職員生徒児童など、多人数が参列して、盛大に祭典が執行されたものである。

   こんな状況は終戦時迄続いたが、戦争終結後の、神社制度変革を経て、国家管理をはなれた神社は、一抹の淋しさを帯びつつも、全氏子の団結力に支えられ、その赤誠こもる奉仕によって古社、名社のおもかげの保存につとめつゝ、現在に至っている。


 


初倉駅家の現在地は

  初倉駅家が島田市阪本地域にあることは共通認識となっているが具体的遺構は発見されていない。この地域は古くから人間活動が見られ多くの遺跡が確認されている。宮上遺跡では「驛」と墨書された土器が出土していて、遺跡がある敬満神社あたりが驛家候補地とも見られたが、遺跡が平安時代中期のものとみられることで疑問視されている(※下記文献)。 駅家が置かれる基本条件としてa.街道沿線、b.水場がある、c.開けた場所で80m~100m四方の敷地がある、ということから絞り込むと、敬満神社(標高85m)は条件を満たさない。満たすのは丘陵の登り口に近い、曹洞宗寺院である種月院の周辺である。ここは標高35mで大井川による水害の影響はない。平安東海道想定コース沿道にあり、周囲に丘陵に降った雨が流れる水路もあり水場が確保されている。敷地としても充分な平坦地がある。本稿ではここを候補地として提案したい。

更級日記の菅原家一行が通過した時には既に駅家の跡形もなかったであろうが、跡地そのものは依然として利用されていたと考えられる。

尚、境内には明治維新後、牧之原台地開拓に尽力した旧幕臣、中条金之助景昭、今井信郎の顕彰碑がある。
 

※宮裏遺跡Ⅲ

https://sitereports.nabunken.go.jp ? 15811_1_宮裏遺跡


(4)牧之原台地上の平安・鎌倉東海道


  更級日記で歩かれた牧之原東部は権現原とも呼ばれ、現在は、お天気さえ良ければ、茶畑の中をほぼ一直線に走る快適な街道である。しかし、平安、鎌倉時代には人の背より高い薄などの草、灌木が生い茂る原野であった。水がないため、明治期に至る迄、人の手が入らなかったが、いったん茶畑開墾が始まると、古道は消滅したと思われる。とはいえ、開墾は街道沿いに進めていったと思われるので、現在の県道73号細江金谷線は概ね古道を踏襲しているのかもしれない。


現代地図における平安・鎌倉東海道牧之原台地上の通過地点を以下の地図に示した。



水が天水しかない荒野であった牧之原台地が開墾され茶産地になるきっかけは明治維新であった。徳川家が駿河国に転封された際に、約二万数千人の御家人とその家族が移り住んだ。当然彼らを受け入れる働き口も耕地もなかったので、当時輸出商品として人気があった生糸と茶のうち、水が少ない土地でも育つ、茶の栽培に取り組むこととなった。この開拓は一筋縄ではいかず、多くの困難と紆余曲折を経たが、最終的に静岡県は日本一の茶産地となった。牧之原は見渡す限り一面の茶園であるが、ここまで大規模になると、いくら乾燥に強いとは言え、何らかの給水設備がなければ商品作物として高品質の茶葉は取れない。現代では給水設備や各所に下のような貯水槽が設けられている。


牧之原台地に川はないが、台地の窪地に細い流れがある。その辺りに天神社が祀られている。

上記現代地図の範囲から外れるが、テレビ中継塔の脇から農道をでると「金谷お茶の香通り」に出られる。道なりに進めば菊川坂道石畳の出口で江戸時代東海道に合流する。




関連寺社、施設


・若宮八幡神社:静岡県岡部町岡部80

・用雲寺:静岡県藤枝市刈宿1172

・青山八幡宮:藤枝市八幡997

・左車神社:静岡県藤枝市本町4-6-15

・蓮生寺:静岡県藤枝市本町1-3-31

・志太郡衙跡:静岡県藤枝市南駿河台1-12

・前島神社:静岡県藤枝市前島1-18-1

・いけがや接骨院:静岡県藤枝市忠兵衛584-1

・県立藤枝特別支援学校:静岡県藤枝市前島228-1

・元気整体院(廃業?):静岡市藤枝市善左衛門533-2

・種月院:静岡県島田市阪本3371

・敬満神社交差点:静岡県島田市阪本4054-1

・大楠神社:静岡県島田市阪本 4278

・天神社:静岡県島田市湯日2006-3

・農道分岐:一般道路から、茶畑の間の狭い農道に入る(標識なし)。目印:静岡県島田市金谷富士見町3395-95のお宅。

・473号線との交差点:農道から国道に出る(増商牧之原油槽所、 静岡県島田市金谷猪土居3261-1)。473号線を渡ってJA大井川牧之原支店(静岡県島田市金谷猪土居3227-6)脇を進む。

・テレビ静岡島田中継局鉄塔:鉄塔脇農道から自動車道に出る.静岡県島田市金谷富士見町(334.811918,138.129260)

・江戸東海道との合流点:明治天皇御駐輦趾(静岡県島田市金谷坂町14-2)

 

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