更級日記の東海道の旅をもとに平安時代の古地形や文献で平安時代日本を再現
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平安時代東海道が大井川を上流の金谷でなく初倉駅家がある(渡河地点:色尾)下流で渡った理由

  江戸時代の東海道は大井川を島田から金谷に渡る。ここには橋が架けられず、人足渡しであった。渡河後、金谷から急峻な崖を登り、古来からの東海道に出て、小夜の中山を経由し掛川に下る。この金谷の坂道は室町時代以降に開かれたと見られ、それ以前は大井川を下流で渡り、初倉集落を経由し当時権現原と飛ばれた牧之原台地を歩いて菊川、小夜の中山を経由し掛川方面に下った。この古いルートは距離的には江戸時代東海道に比べかなり遠回りである。ここではその迂回路を取らざるを得なかった理由と経由地である初倉駅家集落について述べる。

タイトル画像はウィキペディア掲載された静岡空港建設中の航空写真である(一部編集を加えた)。この画像には平安・鎌倉東海道が牧之原台地上を一直線に走る様子が明瞭に認められる。

https://ja.wikipedia.org/w/index.php?curid=698323



(1)地形



  江戸時代東海道が大井川を渡る位置は金谷である。かなり上流であるが雨の季節でなければ、人間の背が立つ深さなので橋がなくても何とか渡れた。平安・鎌倉時代にも流路が異なっていたにしても、おそらく徒渉可能であっただろう。問題は金谷から東海道が通る牧之原台地に登る崖が急峻であったことである。ここを登ることが出来れば平安時代でもここが大井川渡河地点になっていたかもしれない。それが出来なかったということは平安時代には技術的にも、経済的にも金谷の登攀道路は建設出来なかったということである。

  大井川を下流で渡る大きなメリットは流れが浅く渡りやすい事である。鎌倉時代の紀行文にあるように下流では流れが網状に分散し、一つ一つの流れは浅く容易にわることができたようだ。更級日記、鎌倉時代の紀行文には次のような記述がある。

<更級日記>

『大井川といふ渡あり。水の、世の常ならず、すり粉などを、濃くて流したらむやうに、白き水、早く流れたり』

<東関紀行> 『はるばると広き河原の中に、一筋ならず流れ分れたる川瀬ども、とかく入違ひたるやうにて、 すながしといふ物したるに似たり』

中世日記紀行集p142 新日本古典文学大系51(岩波書店)

<十六夜日記>弘安2年(1279)10月25日

『廿五日、菊川を出でて、今日は大井川といふ河を渡る。水いとあせて(浅くなって) 、聞きしには違ひてわづらひなし。いと遥か也。水の出でたらん面影、推し量らる』

中世日記紀行集p192 新日本古典文学大系51(岩波書店)



(2)初倉駅家地域は平安・鎌倉時代には重要な交通集落であった



  谷岡氏は大井川扇状地の集落につき起源とその後に継承された集落について考察している。それによれば、古代東海道の通る権現原と初倉周辺地区についての状況は以下のようであった。

この地域には縄文時代弥生時代を通じて人が生活し多くの遺跡を残している。牧之原台地上には多くの縄文遺跡がある。一方、弥生遺跡は少ない。これは日本全国について言えることだが稲作を中心とする弥生時代には集落は農業活動に便利な低地で営まれたため住居遺跡が残りにくいためである。しかし台地上には多くの古墳が残ることから人の居住が続いたことは明らかである。初倉のある台地の南側下の低地には条里の跡が残り安定した農業生産があったことが分かる。

牧之原台地上の平安・鎌倉東海道周辺の古代遺跡分布

※谷岡武雄:大井川扇状地における散居集落:その起源と集落方の継承性に関する若干の考察

https://doi.org/10.14989/shirin_56_319





   ここには二つの式内社、敬満神社、標高85m)と大楠神社(静岡県島田市阪本 4278)がある。遠江国は大国ではないが62座の式内社があるので、式内社が二つあるからと言って、ここが特別な地域だった訳ではない。しかし、現代まで存続しているということは、それなりに地域に維持する経済力があったことを意味する。

   以上の事から初倉には駅家が置かれる地理的要件を満たし、それを支える経済力があったことが分かる。



(3)初倉駅家の現在地推定



  初倉駅家が島田市坂本地域にあることは共通認識となっているが具体的遺構は発見されていない。この地域は古くから人間活動が見られ多くの遺跡が確認されている。宮上遺跡では「驛」と墨書された土器が出土していて、遺跡がある敬満神社あたりが驛家候補地とも見られたが、遺跡が平安時代中期のものとみられることで疑問視されている(下記文献)。 駅家が置かれる基本条件としてa.街道沿線、b.水場がある、c.開けた場所で80m~100m四方の敷地がある、ということから絞り込むと、敬満神社(標高85m)は丘陵の最高標高に近い場所にあり、水場がないので候補としては難しい。

三条件を満たすのは丘陵の登り口に近い、曹洞宗寺院である種月院(静岡県島田市阪本3371)の周辺である。ここは標高35mで大井川による水害の影響はない。平安東海道想定コース沿道にあり、周囲に丘陵に降った雨が流れる水路もあり水場が確保されている。敷地としても充分な平坦地がある。本稿ではここを候補地として提案したい。

更級日記の菅原家一行が通過した時には既に駅家の跡形もなかったであろうが、跡地そのものは依然として利用されていたと考えられる。

初倉周辺地域(島田市阪本)の遺跡

※宮裏遺跡Ⅲ

https://sitereports.nabunken.go.jp › 15811_1_宮裏遺跡



(4)牧之原台地上の平安・鎌倉東海道の現在



  更級日記で歩かれた古い東海道を案内するガイドブックはない。実際に歩くと、ここはお天気が良ければ目印となる遠景の山は良く見え、御茶畑の中をほぼ一直線に走る快適な街道である。もちろん往時は人の背より高い薄などの草、灌木が生い茂る野原であった(権現原)。水がないため集落もなかった。



①大井川渡河地点


平安・鎌倉東海道では大井川を下流で舟を使って渡ったか、徒(かち)渡りであったか、何れの文献にも明記されていない。おそらく舟を使わなかったのではないかと思われる。更級日記では『すり粉などを、濃くて流したらむやうに、白き水』と表現し、非常に水が浅かったようである。この水深では船は無理で、歩いて渡ったか、女性子供だけ輿で濡れないように渡してもらったかもしれない。鎌倉時代の紀行文でも水深は浅かったことを思わせる。

  この渡河地点は西岸で言えばの初倉の下の色尾辺りであると言われている。現代の河川整理された大井川は水深が深く歩いては渡れないが、往時は浅い細流が一面に流れていたようである。


②現代の地図における平安・鎌倉東海道牧之原台地上の通過地点



  古道探索の場合、当初は明治時代の旧版地図でコース検討するが、現地を歩く場合には、現代地図上に目印がないと歩けない。以下に目安地点を挙げる。

・スタート地点:34号線色尾交差点(静岡県島田市阪本、34.807960,138.219703)

・初倉駅家想定地:種月院、静岡県島田市阪本3371

・敬満神社交差点:静岡県島田市坂本4054-1

・天神社:静岡県島田市湯日2006-3

・農道分岐:一般道路から、茶畑の間の狭い農道に入る(標識なし)。目印:静岡県島田市金谷富士見町3395-95のお宅。

・473号線との交差点:農道から国道に出る(増商牧之原油槽所、 静岡県島田市金谷猪土居3261-1)。473号線を渡ってJA大井川牧之原支店(静岡県島田市金谷猪土居3227-6)脇を進む。

・テレビ静岡島田中継局鉄塔:鉄塔脇農道から自動車道に出る.静岡県島田市金谷富士見町(334.811918,138.129260)

・江戸東海道との合流点:明治天皇御駐輦趾(静岡県島田市金谷坂町14-2)

 

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