駿河国における東海道、大井川の渡河コースは三度変わった
駿河国と遠江国の国境である大井川は古来より交通の障害であったが、他の大河川とは少し様相が異なっている。
大井川は現代の地図でも分かるように流れが平野部に出たところで、大きく散開し歴史を遡る程、広大であった。その景観は鎌倉時代の紀行文、『十六夜日記』、『東関紀行』、『海道記』などに描写されている。大井川の太平洋岸に面する下流域は高低差が小さいため流れが網目状に無秩序に散開し大雨の後にはあちこちに沼や池ができやすい。平安時代前期、大井川には類聚三代格によると渡船4艘が置かれていた。
大井川を渡河するコースは時代により変遷している。尾藤卓男氏の『平安鎌倉古道』には次の3コースが主道として挙げられている。
(1)上古(平安時代以前)
(2)鎌倉時代、室町時代
(3)江戸時代
しかし、『平安鎌倉古道』掲載図(p131)”頼朝上洛と菊川島田間の通路”をよく見ると、時系列的には大きく以下の様な変遷が読みとれる。
- ①延喜式駅路(平安時代前期以前)
- ②平安時代、鎌倉時代
- ③鎌倉街道軍道
- ④江戸時代
タイトル画像には現代の藤枝地域の地形図上の大井川扇状地部分を白地図化して、そこに各コースの大体の位置を示した。但し、千年前の地形ではないことに注意。
①駅路(奈良時代以前)コース(京から関東下向の方向で記述)
延喜式には遠江の東端の駅家として『初倉駅』が、駿河の西端の駅として『小川(こがわ)駅』が挙げられている。 この区間は無数の細かい水路や沼沢があるものの全く平坦で見通しが利く。恐らく当初の駅路は一直線に建設されたのだろう。駅路は現代の高速道や新幹線のルートに類似している場合が多く、推定駅路と現代の新幹線はほぼ並行して敷設されている。両駅間は約10㎞である。好天が続く季節には平坦な道で歩きやすかったと思われる。しかし、雨の季節になれば状況は一転し、増水の結果、水路、沼がいたるところにできて、ぬかるみ、砂利、岩で足元は非常に悪く通行は頗る困難であったと想像される。大雨に襲われれば通行すら不能となり水位が下がるまで待つしかなかった。その場合、旅人は最寄りの集落に足止めされ、両駅を抱える集落には重い負担がかかっていたと想像される。言うまでもなく、駅家自体は公用以外の利用は禁止されていたが、平時でも権力者や縁者による飲食宿泊の強要は多かったといわれる。 駅制は全国的に見れば平安時代前期迄まで存続したとされるが、実際にはそれ以前に廃絶していた路線も多かったと推測される。それは事実に基づく作品と考えられる在原業平の『伊勢物語、東下り』で、貞観6年(862年)頃、危険な扇状地横断距離が1/3で済む、初倉、前島経由、蔦の細道越えで駿河国府に向かうコースを取ったことをみても裏付けられる。
②平安・鎌倉時代は宇津山越えコース(京から関東下向の方向で記述)
大井川南岸、初倉を起点とし大井川を渡船で渡ったのち北上し前島に到る。扇状地を横断する距離は約3㎞に短縮される(平安時代の大井川主流の位置が分からないので正確な渡河地点は不明)。平安時代において前島集落の存在は不明だが、鎌倉時代には、はっきりと前島宿として紀行文に現われる。言い換えれば宿は官道に置かれるものなので、このコースが東海道の本道であったと考えられる。ちなみに、前島と小川駅を結ぶ線はほぼは大井川扇状地の台地との境界線上の微高地にある。
尚、更級日記に於いては『ぬまじり』という場所を通過した事が述べられている。この場所については別項で述べる。
③鎌倉街道軍旅道
この道は源頼朝上洛時にも使われたそうだが、日常の東海道ではなく、危急の事態に早馬や兵を移動するための道と考えたい。このコースの特徴は大井川を向谷付近で渡り、丘陵の裾を辿り落合を経て東光寺から尾根道を辿って藤枝の②の東海道との合流点に出る。その後は②の平安時代東海道と同じく宇津山を越え(蔦の細道)で安倍川河畔に出る。このルートは典型的鎌倉街道で、雨の季節にも大井川扇状地の氾濫の影響を受けない利点がある。
④江戸時代の東海道
③の鎌倉街道軍道は雨の影響は受けないものの、山間を辿る道はやはり労力、時間の点で問題であった。江戸時代には、大規模な土木工事が可能になり山沿いの高低差が小さく、水の影響も受けにくいコースが整備された。但し、駿府防衛の目的で渡船は禁ぜられ、大井川を人足渡しで渡る不便さは残った。イメージ画像を見ても分かる通り、近世東海道はJR東海道本線とほぼ平行に山側を走り、これは扇状地の縁の線とほぼ一致する。