更級日記の東海道の旅をもとに平安時代の古地形や文献で平安時代日本を再現
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萱津から墨俣間の平安・鎌倉街道

この地域の鎌倉街道を以下の区間に分けて検討する。尾張国熱田から美濃国青墓までの美濃路全行程を明治期の地形図に記入したものはこちらを参照




  1. 萱津から一宮

  2. 一宮から玉ノ井

  3. 玉ノ井から墨俣



(1)萱津から一宮



  萱津から一宮への道は、古代駅路から外れ、自然発生的な地方道を連結したコースとなる。道には全く幾何学性がなく、計画的に作られた跡が見られない。

鎌倉時代の萱津宿の地図は円覚寺領尾張国富田荘知行古図に描かれて残されている(下図の右上端)。この作成時期は寄進が行われた弘安6年(1283年)以降で、書き込まれた地名の研究から14世紀、室町時代であろうとされている。従って、この地図をもとに鎌倉時代、平安時代迄さかのぼって交通路の議論をするのは無理があるが、名古屋市内の平安鎌倉街道が古代駅路を踏襲していることを考えれば、東宿から庄内川を渡り、西に一直線に向かっていた筈の駅路がどうなったのか、痕跡の有無を調べてみたい。

富田荘知行古図



①駅路の痕跡



   富田荘古図中でAが鎌倉街道である。藤原氏富田庄内と書かれた地域の南に接する途中で途切れた道路Bが存在するが、これが駅路の痕跡かどうかはわからない。少なくとも富田荘内には、これ以外に西に向かう道路は存在しない。一方、鎌倉時代の紀行文『海道記』では貞応2年に海路で津島に渡り、萱津にやって来ているので、かつての駅路が富田荘の北に位置する甚目寺経由の道であった可能性もある。

上記富田荘図にある光明寺は今も同じ場所にある。

萱津光明寺

②萱津宿から一宮



   現代の地図に尾藤卓夫氏『平安鎌倉古道』の調査に従って、鎌倉街道をプロットしているが、多くのルートは不規則で幾何学性がなくJR東海道線より東側を通っている。 このことから、地元に古くからある標高の高い水没しない地方道を連結したものであると考えられる。 西側に古道がほとんど見られない理由は、濃尾平野の地質構造、河川の状況と平安・鎌倉古道の項で解説したように西側が徐々に沈降していることにより水害を受けやすいことによる。ちなみに東側でも、現代では耕地整理のため沿道にあった古社、古寺の周辺にしか古道は残されていない。

現代地図上の鎌倉街道

住吉神社>

この神社の周囲は耕地整理が行われ鎌倉街道の痕跡は残されていない。神社の位置のみが街道位置を示すポイントとなっている。

(愛知県稲沢市下津住吉町45(下津保育園隣)

鎌倉街道趾(住吉神社の隣家前)案内板

この地は古く折戸の宿といって鎌倉街道が通り交通の要路を占めて戦国時代には下津城も築かれていたが、西方に岐阜街道が整備されるとともに街道も移転して、街道としての機能を果たさなくなった。

昭和五十八年八月 稲沢市教育委員会


下津住吉神社


住吉神社鎌倉街道碑



尾張一の宮、真清田(ますみだ)神社

愛知県一宮市真清田1-2-1

真清田神社は延喜式、式内社で尾張国の一の宮として古くからこの地域の尊崇を集めてきた。神社の脇を鎌倉街道が通り、多くの人が立ち寄ったと思われる。

十六夜日記の阿仏尼は

『一の宮といふ社を過ぐとて、

  一宮名さへなつかし二つなく三つなき法(のり)を守るべし

廿日尾張国下戸といふ駅(うまや)を行く』


一宮真清田神社



(2)一宮から玉ノ井



  一宮から玉ノ井を経て墨俣へ至るコースも『平安鎌倉古道』に示されているが、いささか疑問がある。タイトル画像の地図を見ればわかるように、玉ノ井に向かうには黒田を経由するため明らかに北側に迂回し遠回りになる。一方、明治22年の5万分の一地形図を見ると、古道かどうかは不明だが一宮から玉ノ井に向かう道路がある。この道が使われていた可能性はないだろうか。まづ、黒田を迂回する元史料ともいえる吾妻鏡を再確認してみたい。



①吾妻鏡の頼朝上洛時の尾張・美濃の鎌倉街道旅程には間違いがある



  源頼朝は将軍宣下のため建久元年十月に上洛した。この時の通過地点は吾妻鏡に明らかであるので、これを参考に旅程を考えることができる。

関連の宿泊地は以下の通りである。

<上洛>

10月26日 野間(内海)、東海道から外れ、父、義朝の墓参

10月27日 熱田

10月28日 小熊

10月29日 墨俣

<下向>

12月16日 青波賀(青墓)

12月17日 黒田

12月18日 小熊


12月19日 宮路山



下向の日程には誰にも分る明らかな間違いがある。 日程の順序がおかしく、12月17日と18日は順序が入れ替わっている。 さらに順序を入れ替えても黒田から宮路山はおおよそ80㎞以上あり一日で歩ける距離ではない。 「黒田」は「熱田」の誤写と考えざるを得ない。日にちを入れ替え黒田を熱田とすれば強行軍ではあるものの、上洛の際とほぼ同じ旅程となる。とはいえ、熱田から宮路山も約50㎞であり(注.1)、かなりの強行軍である。軍旅であれば、こうした無理も、日々の鍛錬の一環と考えられていたのだろうか。宮路山の具体的宿泊地については一考を要する。

注.1:吾妻鏡には宮路山泊と書いてあるが、実際に宿営した場所は登山口から約5㎞岡崎よりの岡崎市本宿(もとじゅく)ではないかと『尾張地名考』(注.2)は述べている。実際、宮路山の尾根筋は細い山道で二千人近い人数が宿営できる場所ではない。本宿は鎌倉時代に入って整備される宿場だが鎌倉幕府成立頃にはこのような山間地には、まだ恒久的な宿泊施設がなく地名もなかった。そこで宿泊地を示す地名として、少し先の宮路山と書いたとも考えられる。とすれば、この日の移動距離は約45㎞となる。

注.2:津田正生、尾張地名考、p.108、昭和45年復刻版(愛知県海部郡教育会) 『右大将頼朝卿の上洛の時往来ともに宮路の山中に宿ると見へたるは、今、村民の嶽の城と呼ぶ山の、その山下か、又は本宿村といふ所にやあらん』

※津田は嶽の城の下の山下(現在の赤坂)かもと言っているが鎌倉時代初期には、まだその辺りは低湿地であったと考えられる。また移動距離が長すぎて無理がある。本宿は鎌倉時代にはいって出来た宿であり、頼朝通過時にはまだその地名もなかった。ところが、この本宿の位置はかつての東海道駅路の山綱駅家の想定地である。もちろん、とおの昔に駅は廃絶していたが、駅家としての好立地には変わりなく、旅人はこの宿営地を利用し続けたと考えられる。



下向の正しい旅程は以下のようになる。

12月16日青墓

12月17日小熊

12月18日熱田

12月19日、日没後宮路山着、(山中泊)

他の記録には知る限り、鎌倉街道が黒田を経由したという記述はない。

(全譯吾妻鏡(二)p.170、貴志正造 新人物往来社)



②飛鳥井雅有の日記



   飛鳥井雅有は鎌倉と京都の間を何度も往復している。下に引用する旅日記の中で二度、墨俣ー萱津間を歩いているが、いづれも夜が完全に明けてから出発し、日が高いうちに着いている。つまり黒田でお参りなどせずまっしぐらに萱津にやってきたのである。

<都のわかれ>

建治元年(1275年)

墨俣といふ所に留まりぬ。苦しさに何事も覚えず。辺(ほとり)近ければ、日高く萱津に着きぬ。

<春のみやまぢ>

弘安三年十一月(1280年)

十七日、(墨俣)今日道近しと、てをしのとめたり。夜明けはてゝ河の堤にて見れば、この河は美濃と尾張との中に流れたり。待つ雑人どもを渡す川端にゐつゝ渡し舟待つほどに、東路の隅田川ならずとも言問ふ鳥もがなとうち眺めらる。(中略)玉の井の宿ひととせ(先年の意)見しには三葉四葉に造り重ねたりしが、焼けて藁屋の軒竹の網戸いまだ疎(おろそ)かなり。是へ昨夜(よべ)の宿より二里也。はや馬とて馳せ歩く。げに世の中の静 かならぬ程もあはれ也。顔回が巷になきけんも思ひしらる。くろとといふ所にたち入る。この国をゝはり(尾張)と申す事は昔恋する人のこの国まで尋ね来てこれにて死にゝけるよりをはり(尾張)とは申すとかや。をりと(現、下津)ゝいふ宿も過ぎぬれば、やうやう今宵の泊りも近くなりぬ。今日は道良くて駒もなつまず。日の入り程よりもとく萱津に着きぬ。




   以上の事より、この区間で黒田を経由する理由は何もなく、旅人は最短距離で玉ノ井から萱津に向かったと推定される。ちなみに、概算であるが、玉ノ井から一宮に直行すると約1.5㎞程近道になる。



※なお黒田が宿場であったことは間違いないが、玉ノ井から岐阜に向かう街道筋と考えるべきである。 尾張黒田宿については別項



③玉ノ井から萱津に直行する道はどこか



直行ルートの痕跡は現代の地図には全くないが、明治22年の5万分の1地形図には一宮市、真清田神社の北よりから宮後村、開明村奥村を経由した玉ノ井を結ぶ道がある。ところが、大正9年測図の2.5万分の1地形図では耕地整理がされ上記道路は消滅している。おそらく明治30年開業の尾西鉄道(現、名鉄尾西線)の開業と関係あると想像される。

タイトル画像にも玉ノ井・一宮間の近道のコースを赤点で示している。

明治22年測図5万地形図名古屋北部

明治22年測図5万分の1地形図名古屋北部



大正9年測図地形図2.5万分の1一宮

大正9年測図2.5万分の1地形図名古屋北部


 

玉ノ井 この地の賀茂神社内に出る霊泉により玉ノ井の名がある。古来、旅人の水場として休憩、宿泊の場であったと思われる。(愛知県一宮市木曽川町玉ノ井穴太部4)

鎌倉時代の飛鳥井雅有日記、「春のみやまぢ」では、玉ノ井宿を通過したとき、村が火災に遭い先年のにぎわいを失っていたことを伝えている。

尾西線玉ノ井駅

木曽川 この川は現在では水量豊かな大河だが、昔からあったものでなく、一説には天正14年(1586年)に出現したものであるという。この過程については濃尾平野の地質構造、河川状況と平安・鎌倉街道で述べた。

現在の木曽川の位置は室町時代以前は一面の耕地であったのだが、それを想像できるだろうか。木曽川を流れる水は往時は境川を経由し、全て長良川に流れ込んでいた。

木曽川

(3)玉ノ井から墨俣

兒(ちご)神社 岐阜県羽島郡笠松町北及1100
木曽川を渡って最初の鎌倉街道の目印である。鳥居の前に鎌倉街道趾の標識柱がある。 木曽川が出現する以前は、この北及、南及村は対岸と同じ地域だった。鎌倉街道の道影はかなり失われているが、おおよその位置を下の現代地図にプロットした。
街道の経由寺社など詳細はこちらの拡大図を参照


兒神社
現在、玉ノ井の西にある木曽川は鎌倉時代以前にはなかったことが明らかになっている。川が存在したとしても及(および)川と呼ばれる渡るに苦労しない細い流れがあるだけだった。

江戸時代の『尾張地名考』は次のように言及しており、木曽川は戦国時代以降、江戸時代以前に出現したことがわかる。以下引用

『及(および)村 むかしは此処も街道筋にや。永享四年(1432年)足利義教将軍、富士御覧紀行におはりの国および川にて
  我君のめぐみやとほく逮(および)川 ゆたかにすめる水の色かな 法印尭行
及川は今なし。南及の東頭に今の木曽川あり 南及は大かた今の木曽川の西堤にあり。 北及村は離れてあり。北及の南に今高須街道と呼ぶ細道あり。その道に小さき土橋あり。これを隷(および)の橋の古跡といふ。昔の橋は出水に流れうせたり。』
尾張地名考:津田正生、昭和45年復刻版 p.314(引用終わり)

平安時代には更に細い流れか、雨の季節だけ流れる枯れ川であったと想像される。
児(ちご)神社の裏(北側)にある誓広寺の前身の寺もかつては鎌倉街道沿いにあったということだが、現在は今の場所に移転している。
<誓広寺>



児(ちご)神社前から街道は以下のように続く。
児子神社→大栄食品裏→神明神社→秋葉神社→白山神社→誓養寺→西方寺→足近(阿遅加)神社→坂井の道標(親鸞聖人御聖跡)→小熊の一里塚→秋葉神社→恩立寺→墨俣渡し

<神明神社>
神明社

神明社クロガネモチ笠松町指定天然記念物、クロガネモチの大木
<神明神社略記(現地案内碑)>
  鎌倉街道に沿った此の下門間荘は大河だった足近川の畔いつも水害に悩まされ続けてきた祖先たちは水難を守り給う神明様を心より祀ったものであろう。
藩主旗本中川氏の代官荒川氏が神社の鍵を預かっていたと伝えられるのは藩主も尊崇していたものであろう。
昭和六十一年熊笹の生い茂った神域を整美し社殿幣伝新築手水所新設
昭和六十年玉垣寛政
尚、秋葉社については昭和六十年玉垣完成
昭和六十一年五月十八日

<白山神社>

今も残る古道を行く。

<誓養寺>

<西方寺>
西方寺は羽島市最古の寺院である。

西方寺 美濃国太子寺跡、親鸞聖人御旧跡(現地案内板)
  当山の興隆は推古天皇十年(602)四月、供奉された善光寺如来を安置したのが始まりである。
  同二十年(612)聖徳太子は山背大兄王御俵胎のみぎり、安産を祈り七堂伽藍を建立し、太子自刻の阿弥陀如来を安置、三尊院太子寺と号する。
  同八年(817)法相宗を天台宗に改める。
  斉衛三年(856)十二月、太子寺を西方寺と称する。(このとき善光寺村も直道(すぐみち)村とあらためられた。)
貞永元年(1232)より寺田山西方寺と称する。
嘉禎元年(1235)四月親鸞聖人関東より御帰洛の途、当時に留銭。当時の住僧は祐善(渋谷金王丸の三男祐俊の法名)であり、この時より浄土真宗に改宗し、聖人と師弟の契を結び法名を西円坊と称する。
  聖人は自画の寿影のほか「都へはもう足近き直道の国へ土産は南無阿弥陀仏」という自詠を残され、これより足近西方寺と称し西方を以て浄土真宗開基となし今日に至る。
  文化財名
第一次指定(昭和四十八年七月八日指定)
木造 阿弥陀如来立像
絹本着色 聖徳太子像
絹本着色 羅漢之図
絹本着色 方便法身
絹本着色 善導太子並法然上人像
絹本着色 親鸞聖人御絵伝
絹本着色 蓮如上人筆名号
蟇股(かえるまた)
土器
  平成八年六月建立
       羽島市教育委員会


西方寺を過ぎて境川の堤防に上がる。この堤防は遅くとも鎌倉時代には足近の輪中を守ってきた。


<阿遅加(足近)神社>

<阿遅加神社、現地案内板>
鎮座地  羽島市足近町直道1088の1
祭神  日本武尊
神格等  式内社(小)、元郷社
由緒  創建年来不詳。「延喜式神明帳」に登録されている。(千年以上の歴史的生命のある宗教施設となる。)旧号を八剣宮(通称八剣様)と言った。古来足近近郷十ヶ村(足近輪中内の村々)直道・北宿・市場・南宿・小荒井・南之川・坂井・東西小熊・川口・島の総社であった。
  古くは「尾張国神明帳」の従三位阿遅加天神は当神の事であり、今は当国の内にあらず美濃の足近荘直道八剣の社是也とある。(1586年木曽川の大洪水により大きく流れを変えてしまう。尾張国と美濃国の境が新しい木曽川の流れに変更される。)一方「濃陽誌略」に葉栗郡直道八剣宮は十郷の総社と記している。
  里伝によれば東征を終え、尾張国にたどり着いた日本武尊は、伊吹山の荒神を平定するために熱田の宮から舟によって当地方をお通りになり、この地に霊泉があって暫く休まれた。土地の人がお食事と水を差し上げたところ、大変おいしかったので思わず「味佳(あじか)」といわれたことが地名化したものである。尊は、大和国に帰る途中で亡くなった後、尊の子である稚武彦王がこの地を訪れ、日本武尊を祀る社を建てたのが即ち阿遅加神社である。

伝説
阿遅加神社の本殿に安置してある社宝の「雨石様」(雨乞石)は、昔は神官さんが榊(さかき)で清水をふりかけ祈願すると、不思議と程よい雨が降ったそうです。
例祭  十月十日前後
  阿遅加神社  氏子会

<坂井の道標(親鸞聖人御聖跡)>

一里塚と普明院
普明院裏の堤防上に江戸時代の美濃路一里塚がある。


鎌倉街道は足近町坂井から境川の堤防の上を小熊に向かう。鎌倉時代に飛鳥井雅有も堤防の上から対岸の高桑の宮を望みながら旅していったのだが、平安時代に、そのような堤防は築かれていただろうか。いずれにせよ、この区間は平坦で歩きやすく、さしたることもなく小熊に達し墨俣川(長良川)河畔に出る。墨俣の渡を舟で渡れば美濃国に入る。現在の境川の水量は少ないが、河川敷の幅は河道の十倍以上あり往時の流れがしのばれる。

 境川堤防から高桑

<秋葉神社>
堤防の縁に秋葉神社が鎮座する。これを目印に堤防を輪中の中に下る。そこがかつての小熊宿である。集落の中を恩立寺を経て墨俣渡しに出る。

恩立寺と神明神社
かつては、この寺の正面を西に進み川岸に出れば渡し場があった筈だが、今はない。川沿いの道路を北に上がり長良大橋を渡って迂回する。


沿道の寺社・関連施設一覧
①誓広寺:岐阜県羽島郡笠松町北及524-2
②児(ちご)神社:岐阜県羽島郡笠松町北及100
③大栄食品:岐阜県羽島郡笠松町門間2288-1
④神明社:岐阜県羽島郡笠松町門間1882-1
⑤慈眼寺:岐阜県羽島郡笠松町門間2891
⑥秋葉神社:岐阜県羽島郡笠松町門間2659
⑦白山神社:岐阜県足近町北宿407
⑧誓養寺:岐阜県足近町北宿421
〇西方寺:岐阜県羽島市足近町直道601-2
⑨足近(阿遅加)神社:岐阜県足近町直道(すぐみち)1088-2
⑩坂井の道標(親鸞聖人御聖跡):岐阜県羽島市足近町坂井(境川の堤防上)

⑪小熊の一里塚:岐阜県羽島市小熊町東子熊3442-2普明院裏の境川の堤防上
⑫秋葉神社:岐阜県羽島市小熊町西小熊1432-1裏の堤防上
⑬恩立寺:岐阜県羽島町小熊町1536-1

墨俣の情景

室町時代以前は現在の木曽川の水は境川を通じて長良川に合流していた。従って合流点である墨俣は滔々と水が流れ、上流、下流から多くの運送船が集まり、大きな河港となっていた。平安・鎌倉街道も更級日記や鎌倉時代紀行文に見るように多くはここを通っていた。その様子は将軍足利義教の関東下向に随行した尭行の日記に表現されている。


『すのまた川は興おほかる処のさまなりけり。河の面いとひろくて、海づらなどのこゝち侍り、舟ばし遙につゞきて行く人征馬ひまもなし。あるは木々のもとたちゆへびて、庭のをもむき覚ゆるかたもあり。御舟からめいて、かざりうかべたり、 又かたはしに鵜飼船などもみえ侍り』(覧富士記、永享四年九月(1432年))

現在、墨俣に接続する鎌倉街道はほとんど連続して存在しない。わづかに旧鎌倉街道沿道にあった寺社の周囲に残るのみである。しかし、その位置を地図上で連結すると旧街道のコースが浮かびあがってくる。現代の航空写真に鎌倉街道、墨俣渡、境川の位置を記入した。現在、長良川への合流口は小さなものである。

往来が激しかった鎌倉時代の墨俣宿は上宿と下宿があり繁栄していたが、江戸時代になると美濃路となり、北の墨俣宿に移転した。下の図は大垣市墨俣歴史資料館にパネル展示されている航空写真に加筆した。

墨俣航空写真

不破神社 (岐阜県大垣市墨俣町上宿348-1)

墨俣の渡りを渡ると目印になるのが不破神社である。ここには鎌倉街道の石碑がある。

墨俣、不破神社

<不破神社案内板>
大海人皇子と不破明神
西暦六百七十一年天智天皇崩ず。先に吉野に難を逃れていた東宮である弟の大海人皇子(天武天皇)と太政大臣である皇子の大友皇子(弘文天皇)の間に皇位継承の争いが起きた。壬申の乱である。
中央集権国家成立期における最大の悲劇である。
大海人皇子は逃れて伊賀、鈴鹿より東宮の領地である美濃に入る。安八磨郡(あんぱちまのこおり)の湯沐令多臣治に告げて兵を集め、不破道より近江に入り、大友皇子を討ち滅ぼし、飛鳥浄御原に即位された。
宇治拾遺物語に「大海人皇子墨俣の渡にて難を逃れたまう」と記してある。その一節を示すと
この国の洲俣のわたしに舟もなく立っておられた。 女が大きな湯舟で布を入れて洗っておるのを見て、「何とかして渡って行きたいが」といわれると、女は「一昨日大友の御使といふものが来て、渡し船をみな隠して行ったので、ここを渡っても多くの渡舟場を通過することはできない。こうして話している内に今敵軍が攻めてくるでしょう。どうして逃れられますか」という、「さてどうしたらよいか」と申されると、その女が言うには「あなたは拝見するとただ人でなく貴い人のようです。ではこうして下さい」と言って、湯舟をうつぶせにして、その下に伏せ奉りて、上に布を多く置いて、水汲みかけて洗っていた。しばらくして兵共、五百人ばかり来て、女に問うて言う。「ここより人がわたっていったか」といえば、女は「貴い人が軍兵千人ばかり率いてこられた。今頃は信濃の国に入っておられるでしょう。すばらしい龍のような馬に乗って飛ぶように見えた。この少勢では追いついても皆殺されてしまうでしょう。これから帰って軍を多く備えて追うとよいでしょう」というと、ほんとうにそうだと思って大友の皇子の兵は引き返した。
その後大海人皇子は女に仰せられるには「この辺で軍勢を集めたいができないだろうか」と問われると、その女しりまといて、その国のむねとあるものどもを集め語り合うと、二、三千人の兵が出来た。それを引き具して大友皇子を近江国大津に追い討ち滅された。このすのまたの女は不破明神の化身であると伝えられている。
鎌倉街道
千数百年前から東海道の熱田の宮より東山道美濃の国府を結ぶ官道があった。当時墨俣の宿駅は現在の上宿・下宿の地にあたる。日本武尊が伊吹平定に通ったとも伝えられている。
仁明天皇承和二年官費にて二そうの渡船を四そうに増し、布施屋(無料休泊所)二ケ所・墨俣川両岸(上宿と小熊)に造立したと太政官符に記録されている。この道は鎌倉に幕府がおかれて、京都と鎌倉を結ぶ重要な街道として整備された。
源頼朝・藤原頼経・十六夜日記の阿仏尼・東関紀行の源光行等が通っている。
室町末期以降中町・本町へ移り、美濃路となる。重要な歴史の道である。

⑤源平墨俣川の合戦、義圓の死から見える墨俣川の水深

  平安末期(養和元年3月10日、グレゴリオ暦1181年5月2日)源平合戦の前哨戦ともいうべき墨俣川合戦が行われた。 ここで、源頼朝の弟、義圓が討ち死にするのだが、その死に様がなんとも残念であった。 若気の至りとはいえ、功を焦りこっそり夜のうちに一人で川を渡ったものの敵に見つかり、 あっけなく討取られてしまった。その経緯は下に示す現地案内板を読んでいただくとして、 歴史事実から、当時の大河であった墨俣川でも、5月初めには徒渉できたことがわかる。 江戸時代までは大河と雖もたくさんの中州があったので、そのような浅瀬を渡ってゆけば、 渇水期には舟を使わず渡れる場合もあったのである。明治以後、河川管理が行なわれた結果、川の中の洲が取り除かれ水深が増した。

義圓地蔵、現地案内板

養和元年三月十日(1181年)長良川をはさんで源平の大激戦が展開された。世にいう源平墨俣川の合戦である。
同年二月四日平清盛病死す。東国源氏は勢を得て、京へ攻め上る。これを迎え討つため、平重盛を総大将として維盛・通盛・忠度・盛綱・盛久等の武将七千余騎杭瀬川を渡り、右岸の墨俣側(上宿下宿)に陣す。
一方源氏の将行家(新宮十郎蔵人)は千余騎を率いて左岸の羽島側(小熊)に着陣す。
源頼朝は応援のため弟の源義圓をつけ、西上させたが合流せず、二町を隔てて軍を整えた。
義圓は行家に先陣されては兄頼朝に合わす顔がないと考え、唯一人馬に乗り、敵陣側の西岸にひそみ、夜明けとともに「義圓は今日の大将軍なり」と名乗って先陣のさきがけをしようと、白む夜明けを待っていたところ、見廻り夜警兵に見とがめられ、「兵衛之佐の弟で卿の公義圓という者だ」というが早いか勇敢に戦い、武運つたなく、力つき、平盛綱に討たれた。
源氏は戦利あらず、尾張源氏の泉太郎重光兄弟が討死し行家の泉太郎光家兄弟は平忠度に捕らえられた。討死・溺死するもの六百九十余人に及ぶ。
敗れた源氏は退き、矢作川の東岸まで退き当国源氏の大兵来ると宣伝し、勢を盛り返してついに平家を滅ぼすことになる。
源義圓は頼朝の異腹の弟で義朝の妻常盤御前の子、義経と同腹の兄にあたる。幼名を乙若といい、天王寺に預けられていた。兄の挙兵を聞き、比叡山の僧兵のごとく坊主頭を頭巾に包み、墨染の衣を着て鎌倉に駆けつけたと思われる。 墨俣川の合戦で悲運の生涯を閉じた。二十五才であった。里人義圓地蔵を刻み、堂を建て、毎年三月十日に供養を続けている。
これより百五十米西に義圓の墓がある。
昭和五十六年三月十日八百年祭が行われた。(源平盛衰記・平家物語・吾妻鑑より)

墨俣・義圓の墓墨俣義圓地蔵

 

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