更級日記の東海道の旅をもとに平安時代の古地形や文献で平安時代日本を再現
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十六夜日記に見る大垣市東部揖斐川湿地帯における平安・鎌倉街道と小野の長橋

  広大な濃尾平野は江戸時代以前には多くの河川が網流する大湿地帯であった。特に西部の養老山地側は濃尾傾動地塊運動のため水が流入しやすく治水工事が行われない時代にあっては、耕作地以外は自然のなすがままの野原、湿地のままであった。美濃路のような主要街道でも迂回する丘陵がなければ、そのような所を通らざるをえなかった。そのため、晴天の日はともかく雨の季節は大変であった。その様子を鎌倉時代の『十六夜日記』は鮮烈に伝えている。この十六夜日記の記述を、ここで取り上げる理由は、当時の旅の苦労を紹介する為だけではなく、鎌倉街道の重要な経由地情報が含まれているからである。


(1)十六夜日記、雨天の旅の様子


『関よりかきくらしつる雨、時雨に過(すぎ)て降くらせば、道もいと悪しくて、心より外に笠縫の駅(うまや)といふ所にとゞまる。

旅人は蓑うち払ふ夕暮れの雨に宿借る笠縫の里
(十月)十九日、又こゝを出でて行く

夜もすがら降つる雨に、平野とかやいふ程、道いとゞわろくて、人通ふべくもあらねば、水田の面(おも)をぞさながら渡り行く。明くるまゝに、雨は降らずなりぬ。昼つ方、過行道に目に立つ社あり。人に問へば、結ぶの神とぞ聞ゆると言へば、

まぼれたゞ契結ぶの神ならば解けぬ恨みにわれ迷はさで

<現代語訳>

  不破の関を出たときからずっと降っていた雨は、止むこともなく降り続き、道の状態もとても悪かった。予定外ではあったが笠縫の駅という所に泊まった。

(歌意)旅人はびっしょり濡れた蓑を打ち払っている。夕暮れの雨に(たまらず)笠縫の里で宿を借りることになったよ
十月十九日(グレゴリオ暦1279年11月30日)、ここを出発。夜じゅう降った雨で、平野とかいう辺りは道がとても悪く人が通るようなところではなく、まるで水田の上を渡ってゆくようにして渡った。夜が明けるころ雨がやんだ。昼頃、通った道に目立つお社があった。人に聞くと「結ぶの神と聞いています」と言うので、

(歌意)守ってください。契りを結ぶ神様ということであれば解決しない悩みごとで私を悩まさないで


(2)「平野」の現在地は大垣市「小野(この)」である


  十六夜日記によれば、街道が田んぼのように冠水していた場所を「平野」としている。しかし、笠縫から結神社の間に該当する地名はない。地形上もっとも蓋然性が高いのは、「小野(この)の長橋」があったとされる「この(小野)」地域である。「小野」は普通「おの」と読むが、地元では、「この」と読んでいる。ちなみに小野(この)小学校もある。「この」は何かこの地域の古環境を伝えるものかもしれない。ともあれ、十六夜日記、作者原本には「乎野(この)」と書かれてあったものを書き写した人が「平野」と誤って書写したと考えられる。


  室町時代になると、ここには「小野の長橋」が架橋され、次の歌が残されている。現在は東中之江川という用水路に短い橋が架かっているだけだが、橋のたもとには鎌倉街道の標柱が立っている。

なか橋と申所を通侍るに、あたりの田の面(も)も遠く見渡されて

秋深き川面に続くなか橋はほなみをかけて渡すとぞ見る(富士紀行、1432年)

なかはしと聞こゆるは、げにぞはるばる見わたされるにや。

数ならぬみの長橋長らへて渡るも嬉しかゝるたよりに(覧富士記、1433年)


この橋は長さ四、五百メートルもあったと言われるが、大きな河にかかる橋ではなく湿地に渡された木道に近いものではなかったかと想像される。既に別ページで論じたが戦国時代以前に揖斐川は存在せず現在の河道は湿地であった。かつての結神社は現在の揖斐川河川敷、河道の中にあったという(現在は少し北の川岸に移転している)。下の地図には揖斐川が存在しなかった時代の結神社の位置を示している。地図が測図された大正9年時点まで、小野(この)の長橋の周辺は水田である。しかし鎌倉時代以前はおそらく湿地であった。秋の長雨の季節が終われば通るのにさほどの苦労はなかっただろうが、十六夜日記の阿仏尼が通った時は現在の暦で十一月なのに雨降りで運が悪かった。しかし、鎌倉街道が小野(この)を通っていたことが明らかになった。


 

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