平安時代の物流
※タイトル画像:男たちが乗っている馬は轡をしていないので駄馬とみられる。荷物を届け終わり、その馬に乗って家路を急ぐ馬借たち。頭上の鳥を射る仕草には仕事を終えた後のリラックスした気分が現れている。(石山寺縁起絵巻より)
平安時代に遠隔地から物資を輸送する目的は、大部分が諸国から京都への貢納品の輸送であった。奈良時代の貢納品の主体は官物輸送であったが、平安時代になると、有力貴族や寺社の荘園からの貢物が増加して来た。一方、人の移動は役人の赴任帰任などの公務に限られていた。在原業平の東下りのような観光旅行は例外中の例外であった。ところが小規模ながらも、ひそかに長距離の旅をする商人達がいた。
この時代の交通、運輸の仕組みについて、西岡虎之助氏は『荘園史の研究(上)』(岩波書店)の「港湾の荘園における問の発達」p.238、「私牧の発達による武士階級の結成過程」p.438において、前時代と異なる新たな流通・輸送手段が生まれていた事を論じ、新城常三氏は『鎌倉時代の交通』p.1~(吉川弘文館)で平安時代に始まる荘園年貢輸送の観点から駄馬輸送の実態を具体的に解説している。実際に担っていた人々の実像については高橋隆博氏の論文『古代輸送考(上)(下)』(関西大学学術リポジトリ、史泉、巻44、p.1,1972および巻45,p.34,1972)で論じられている。これらの文献を参照しながら、平安時代中期の輸送の実態を概観する。
(1)諸国から中央への貢納品
平安時代初期の諸国が中央に進上する調庸品の品目は延喜式に定められている。基本的には律令下で収取されていたものが多いが、平安時代に産地の事情で変更を加えられ、継続したものが多い。櫛木謙周氏は律令制下の諸国産物を整理し奈良時代、平安前期における地方の産業構造を論じている。京都府立大学学術報告68号、p.167(2016年12月)。
当時の諸国からの貢納品の概要
(2)輸送手段は西船東馬
古代日本の交通・流通は一言で言えば“西船東馬”であった。京都に向かう荷物は、尾張国を境として西は瀬戸内海や琵琶湖を利用する水運で、東の諸国からは、主として駄馬の隊商によって運ばれた。太平洋岸諸国で海運が利用されなかったのは船舶構造、航海技術の他、決定的要因は黒潮など厳しい自然環境であった。東国の太平洋岸は波浪に耐える大型船があったとしても、太平洋に突き出した潮岬、御前崎、石廊崎、野島崎、犬吠埼等の沖合を無事に越えられる保証はなかった。瀬戸内海の水運が利用できる西国は重量物や嵩張る物資、一方、陸送の東国は繊維品などの軽貨、希少高価な乾燥海産物が中心である。

図.1 平安時代の国内交通
①瀬戸内海の水運
瀬戸内海は図2に示すように古くから多くの湊があり、物資輸送の大動脈となっていた。奈良時代には九州から難波に直接乗り入れることは禁じられていた。運上船が、秘かに私的交易品を持ち込み、難波で取引のたびに多くの争擾沙汰を起こしていたからである。
<水運の主体者と規模>
平安時代中期には既に官船はなく地方富豪の所有になる船で梶取や水主(かこ)を雇い水運が行われていた。大きさは備前国鹿田荘の例で約260石積みであったという。平安時代半ばになると博多にやってくる宋の貿易船も増え、もたらされた舶来品もこのルートで運ばれている。
図.2 平安時代の瀬戸内海沿岸の港津の分布
②瀬戸内海航路の解禁
平安時代になると官物運上に不便をきたすので、延暦15年の太政官符を以て、過所(通行証)のある場合に限り解禁された。過所は摂津で検査された。太政官符は以下の通り。
草野(かやの)、国埼、坂門等より公私の船往還するを許す(延暦15年(796年)11月21日)
大宰府の解によれば、以下のように言っている。
太政官は去る天平18年7月21日の符に官人百姓商旅の徒は豊前国草野(かやの)津から豊後国国埼、坂門等の津に好きなように往来して、国の産物を運送している。今後は固く禁止する。但し、豊後、日向などの兵衛、采女、資物、人物を漕送する船は国埼の津を経由すればその限りではない。それ以外はすべて禁止する。
大宰府は符の通り重ねて禁じています。
上に述べた三津には今でも、ならず者が多く、昔から何度禁じても効果がなく又検問所がある豊前門司を通らず、そのような者どもは皆難波に集まります。
以下のように請願します。摂津国司が通行証を検査し、もし通行証がなく門司を通過してきた者は法に依り処分されんことを。そうすれば悪者の発生源は自然に浄化し度外れたことも収まります。
謹んで官裁を求めます。
大納言正三位紀朝臣古作美宣す。
勅 今後、公私の船、豊前豊後の三津からの往来を許す。その際、通行証は従来通り大宰府で発行する。当所(摂津)通行証で門司も通ることはできない(※注)。但し、従来から禁じている所は許可されない。長門、伊予等の国も承知するように。
※注 門司(現、北九州市)は古くから門司関と呼ばれ、往来船の検問所となっていた。杜埼駅は当地にあったという。この一文は難波方面に行くことは許可するが博多方面に行くことは禁止という意味か?。
出典:類聚三代格巻16、『類聚三代格後編・弘仁格抄』p.495、国史大系、吉川弘文館
平安時代の駄馬輸送
東国からの物資輸送は古く奈良時代以前は、郡司等に率られた歩荷(ぼっか)、運脚と呼ばれた農民たちが貢納品を担いで直接奈良まで運んでいた。人が運べる荷物の重量は自分の食料を含めてもせいぜい30㎏で多寡が知れている。なぜ、当時から馬で輸送しなかったかといえば、馬は高価でほとんどの農民には費用負担できなかったからである。富裕農民は当然に馬を使っていた。因みに現代でも山岳地域で荷を担ぎ上げる人を歩荷(ぼっか)というのは、この運脚からきているという。
しかし、物流量が増えた平安時代には、そのような細々とした輸送量では間に合わなくなり、駄馬の隊商による輸送が始まった。延喜式によれば馬の積載量は一頭当たり60kg、米であれば90㎏とされている。人であれば30㎏が限度なので馬の活用は必然であった。当初は貢納、郡司、富裕層が担っていたが次第に僦馬(しゅうば、馬貸)といわれた運送業者も出現した。これは集団で盗賊行為を働くこともあった。
さて、馬の運送が加わっても、その頭数は十分でなく人の肩による運送も鎌倉時代まで依然として主要な輸送手段として残った。積載量だけでなく山地の細道など道路事情も関係しているとされる。日本において陸送手段が完全に駄馬隊に変わるのは戦国時代以降である。
①日本における馬の利用と育成
馬を運送手段に使うことになると相当な頭数が必要になる。平安社会はどのようにして馬を育成したのだろうか。弥生時代の伝承を伝えるという古事記上巻には高天原で須佐之男命が機屋に皮を剥いだ馬を放り込んだという話があるので、おそらく弥生時代には馬は存在しただろう。しかし乗用に耐える体躯をした馬が出現するのは古墳時代以降である。当時日本は朝鮮半島における高句麗、新羅との争いの中で騎馬が重要な兵種であることに気づき、5世紀頃、九州に持ち帰ったと思われる。以後日本でも騎兵用馬匹の育成が始まる。我が国での馬産が国家政策として始まるのは律令体制の中で軍団制が整備される天武朝以降である。西岡虎之助氏は前掲書の中で古代から中世の牧が形成されていった経過について詳細に論考している。(武士階級結成の一要因としての「牧」の発展、『荘園史の研究(上)』p.301~(岩波書店)
②官牧における軍団用馬の生産
大化改新以降、それまで地方首長の“国造軍”の連合体であったものが、再編、軍団化がすすめられた。大宝令には全国に牧を設置が定められたという。その内容は更新版である養老令にあり(『律令』厩牧令(きゅうもくりょう)23、日本思想体系3、p.413、岩波書店)、牧での馬の管理、給餌、繁殖法等詳細に規定されている。残念なことに牧の設置場所については触れられていない。おそらく当時は牧に適する草地、原野が全国いたるところにあったので軍団の近くに簡単な柵で囲って設けられていたのではないだろうか。この初期官牧のほとんどは平安初期に軍団が廃止(延暦11年792年)されるとともに廃止されたと思われるが、一部は、官牧、勅旨牧として存続し、京都の防備、儀式用の需要の為存続したようだ。しかし、これも牧官の不正、怠惰、非行により平安時代中期ごろまでに廃止されていったとみられる。
③私牧の発生
騎乗用馬の需要は横ばいであったにしろ、京での儀式、上級貴族の威儀用、検非違使等の警察目的の馬の需要は残り、更に運送用駄馬、農耕馬の需要は大きく伸びていた。そのため各地の在地の郡司、富裕層によって牧が営まれるようになった。その場所は初期の官牧が畿内周辺であったのに対し東国、備前以西の周辺地域が多かった。これは耕地開発の進展に伴い畿内周辺地域では放牧に適した山野がなくなったためとされる。関東、甲信地域には未開発の原野が多く残されており、ここが有数の馬匹生産地となっていた。更に時代が下り開墾が進んでゆくと、牧は陸奥、出羽地方に北上してゆく。
新城常三氏は文献に表れる関東諸国の牧、信濃周辺国の牧の位置を図.3,図.4のように推定している。

図.3 信濃牧
図.4 関東牧
毎年地方から京都に貢上されてくる馬は、一方通行では京内にあふれてしまう。儀式・行事の期間、京内の施設で飼われていた諸官庁の馬たちは休止期間には京都周辺の小規模な牧で放牧されていた。京内で牛馬の放牧は禁じられていたが、それでも使役しない時期には放して放牧する者が後を絶たなかった。現代の感覚なら牛馬を盗まれることが心配だが、厩舎内に飼えば秣(まぐさ)代がかかるので、放牧して近在の草を食べさせていたわけである。道端の草を食べているうちは構わないだろうが、屋敷に侵入し庭園や菜園の葉を食べ荒らし問題になっていた。
前述のようにまとまった数の馬は京都周辺の牧に放牧されていた。例えば『蜻蛉日記』には近江、石山寺下の瀬田川の河原に放牧された馬の描写がある。河原のような場所は川と土手で空間が仕切られるので簡易な牧となる。
『夜の明くるまヽに見やりたれば東に風はいとのどかにて、霧立渡り、川のあなたは、絵にかきたるやうに見えたり。川面(かわづら)に、放ち馬どもの、あさり歩くも遥かに見えたり』(蜻蛉日記)

図.5 石山寺から瀬田川を望む(図説日本の古典6、蜻蛉日記・枕草紙、p.55、集英社)
④運送用馬(駄馬)はどこで育成されたか
京都の官庁に貢進される騎乗用の馬は特別な品種が育成されていた訳ではなく、育成された馬たちの中から馬高の高いもの、馬体のしっかりしたものが選抜された。逆に言えば、それに満たない馬が駄馬や、農耕馬として使役された。又騎乗用でも老齢になったものは払い下げられ駄馬として使われた。従って用途による生産地の区別はなく、同じ各地の私牧であった。
⑤駄馬運送を担った者たち
平安時代になると畿内周辺でもなければ、個々の納税者が直接貢納品を運ぶことはなくなり、官物納入は専門の業者に委託されるようになった。奈良時代に、運脚が帰郷時に餓死するなど、あまりに非合理、非効率であったからである。平安時代には駄馬を使い運送する者達が現れた。僦馬の党と呼ばれ、強盗団のように考えられているが、本質は運送請負業者集団で、この構成主体は太政官符に云うように富裕の百姓・郡司達であり、浮浪の輩、浪人などを雇い入れ運送隊を編成したと思われる。因みに駄馬隊といっても多くの人数も必要であった。駄馬毎に一人の口取りが着き、盗賊から身を守るために護衛もいた。彼らは馬の世話・荷物の積下ろしだけでなく、自分達の食料・生活用具を一切を背負って運ぶ必要があった。そのため相当数の歩荷も随伴したはずである。図.6は當麻曼荼羅縁起の一場面である。平安時代の運送隊も出発前には、このように郡司の屋敷前で馬を集め準備を進めたのではないだろうか。題材は飛鳥時代だが、描かれている風俗は鎌倉時代である。

図.6 當麻曼荼羅縁起 (出典:當麻曼荼羅縁起・稚児観音縁起、p.9、日本絵巻大成24、中央公論社、補作修正)
<綱領の選任>
官物運送隊の綱領と呼ばれる隊長は延喜式・民部下には綱領になれる者を以下の三者としている。
- a.国司(目、史生)
- b.郡司及び子弟
- c.百姓殷富口重大
※c.の口重大の意味が不明だが“輩下に多くの郎等・寄食者を抱えている”という意味か?、或いは富裕百姓の家の重きをなす者、子弟係累か?
以上に述べた有資格者はあくまで法の建前で、実際には綱領として素性の怪しい者も任用されていた。
<官物損失の場合の弁済>
損害額の5割について弁済の責任を問われ、綱領3、綱丁(運脚)2の割合で補填しなければならない。これは貢納品の欠損はかなりの頻度で起きていたから、これは過酷な規定である。このため綱領を勤めた郡司は多額の負債を抱えることがあった。
(原典:延喜式、巻23民部下、延喜式中編p.582、国史大系、吉川弘文館)
<綱領が行うべき官物納入の手続き>
諸国から京都に運ばれた貢納物は諸手続きを経て大蔵省の倉庫(正倉院)に収納され、返抄という領収書が発行され納入が終わる。ところが折角遠方から荷物を運んで来ても、役人達の驚くべきサボタージュ、お役所仕事に綱領達は苦しめられた。平安時代前期に出された官人の怠慢を戒める「勅」の中に官物納入の手順規定が示されている。それをそのまま(現代語訳)下に示す。
勅 元慶7年(884年)11月2日
民部省は諸国の貢調郡司が民部省にやってきた日には現物を勘会(定められた仕様の物か調べる)後、5日以内に大蔵省に移(連絡文書)を送らねばならない。以前から大蔵省は次のように言っている。
民部式では調庸物の勘納とは、郡司がやってきた日に民部省の録(書記)は史生らを連れて正倉院に向かう。大蔵省の録(書記)と一緒に現物を勘会し、その後、調物を受け取ってよい旨を大蔵省に移(文書で連絡)する。
ところが、民部省は、郡司が来てから翌月になっても現物を改めなかったり、またある時は現物を勘会したのに十日たっても移文を送らない。郡司らは調物を守ったり、移文を請求するのであるが、両省の間で疲れ果て、食料も長旅で尽き、官物が盗まれたり、服長(運搬現場責任者)は餓死してしまうことになる。人民の苦しみと雖も、これでは国家の浪費である。また式にはこうも言っている。
調庸雑物を受納後、その月から二十日以内に順次収納してゆけば勘納の期限があっても多少遅くなったり早かったりという程度である。移文を言い訳にしているが、法律を作る訳でもあるまいに、何の面倒があろうか。
式の通り実施する。但し、勘会後五日以内に移文を送らせるようにせよ。もし違失があれば処罰する。
(日本三代実録、巻44、『日本三代実録・後編』、p.543、吉川弘文館)
<運送隊の構成員>
綱領には官物損失があると重い賠償責任を負わされていた。延喜式には綱領の報酬規定はなく、諸国の国衙内での取り決めで支給されていたと思われるが、簡単に引き受けられる仕事ではなかった。そのため綱領のなり手が居なくなり、結局c.の富裕の農民層が増えていった。しかし、彼らが、これだけリスクが大きい苦労の多い仕事を正規の報酬だけで引き受けるとは思えない。官物納入数量のごまかし、旅の途中での強盗行為など、何か旨味がなければやれない仕事であった。高橋隆博氏は文献に現れる綱領がいかなる出自から任用されたかを一覧表にまとめている(出典:前出、高橋隆弘、古代輸送考(上)p.16)。結論を引用すると、
『九世紀末頃では、郡司が綱領とされることより、部内の百姓、富裕・遊蕩の輩が徴され、その傾向は九世紀中葉から見られる。また綱領は、運上においては綱丁を宰領したのであり、実際の輸送機能は綱丁の力量に依っていた。ところが、綱丁自身が、門文・送状・解文を随身して運上し、納入の勘了とともに結解の作成、返抄の受領を積極的に行う主体となっていた。その結果官物の横領、門文・結解の偽造をも行なうことになる。 それは「土浪を駆役し官に進むる雑物の綱丁とす」と綱丁の徴発も必ずしも一定していたためではないことに理由があった。そのため、綱丁は自ら量進することなく、競って嘱託を行い、未進は増大し、「未進猥積、実は是れ綱丁盗犯」という状況を呈したのである』(以上引用)
要するに綱丁の徴発に困り、結果身元の怪しい、ならず者、詐欺師や泥棒になりかねない者たちに、重要な運上の仕事を任せることが起きていたのである。実際、農村には何か月も家を空けられる身体強健な者はおらず、雇えるとしたら、社会からはみ出し荘園に逃込んだり、豪農に寄食していた無頼の者しかいなかった。これらの人々の出自として、駅制や牧の崩壊で行き場を失った駅子や牧子に求める説もある。馬の扱いに慣れているので、あり得る話だが、農村からはみ出した人々はあふれていたので、馬の関係者に限る必要はないだろう。
平安時代の官物・封物運送隊の実態
既に見てきたが、諸国から京都に運上を実際に行っていた駄馬運送隊に関係する機関・人の役割、問題を下表にまとめてみた。ここから単なる運送業の問題を越えて、平安時代日本の社会構造が見えてくる。
表.1平安時代流通システムの問題
| 関係者 | 職務・目的 | 施策 | 結果、問題点 | |
|---|---|---|---|---|
| 中央政府 | 太政官 | 治安 運上確保 |
検非違使派遣 関の設置 官庁の綱紀粛清 |
不徹底 運上未済累積・国家財政窮乏 |
| 院宮王臣家 | 自家封物優先確保 | 徴物使派遣 郡司へ直接圧力 強雇 |
ほとんどお咎めなし | |
| 地方の諸国 | 国衙(国司) | 綱領の選任 | 運送隊の一括委託 | 運上未完では解由状がもらえない |
| 郡司・富裕農民 | 運送隊の編成 | 過酷な賠償責任 綱丁の不正 公文の偽造、 官物横領 |
負債で逃亡 賄賂で官人・貴族の使用人となる |
|
| 無宿人 | 土浪 浮浪人 遊蕩の輩 |
運送隊に潜り込む | 官物窃盗 農村侵入、官人、舎人を詐称し農民恐喝 運送隊で折あらば山賊行為 |
悪事失敗すれば逃亡 |
① 中央政府内の利益相反
太政官は院宮王臣家(上流貴族)から参議など主要閣僚を出しているので、本来、一体となって国家財政を運営する立場である。ところが、院宮王臣家は国家への貢納より自家の封物を優先的に取るべく、様々な脱法行為を行っている。それに対し太政官から禁令が出されているが、さして効果があったとも見えない。利益相反関係では、結局何も生まれない。また太政官の貢納を扱う民部省など官人の職務怠慢、不正もひどく、地方から上ってきた綱領らを苦しめている。
② 諸国国衙内の利害対立
国司は4年の任期で京都からやって来るのに対し、郡司は地元で農民と直接接する者達である。中央への納税(貢納)は両者が協力して行わなければ円滑に進まない。運上の綱領は郡司が務めるのが普通だが、その責務はあまりに過酷だった。前出延喜式の損失弁済の定めは、不正、事故はほとんど起きないという前提で制定されたものだろうが、常に何か起こっていたのである。現代のように損害補償保険などない時代に、これで綱領を引き受ける者等いなくなる。困った官は専當郡司なる運送専門の郡司を作り、それに一括請負させることにした。勿論、これを引き受ける側にも何かの思惑があった。富裕百姓とは言われるが、地方のボス、やくざの親分に近い者であろう。でなければ浮浪人、土浪、遊蕩の輩等は使えない。
運送隊には少なからぬ人数が必要だが、ここに雇用される者は、一言で言えば社会のはみ出し者である。言ってみれば何を考えているのかわからない、隙あらば官物の横領、馬泥棒、場合によっては殺人だってやりかねない連中であった。図.7の米の抜き取り等可愛いものである。

③平安日本は相互不信の社会
奈良時代までは支配者階級は被支配者である大多数の農民を収奪の対象とは見ていなかった。むしろ、万民に土地を与え等しく収税するという理想的なものであった。平安時代もこの理念は一応継承されるが国家財政が窮乏してくると、その姿勢は変化してくる。其の最たる動きは院宮王臣家の自己保身の動きである。にも拘わらず太政官は実効ある取り締まりができなかった。これに対し、『上に政策あり、下に対策あり』とばかりに民の側も巧妙に生きる術を工夫する。かくして政府の内部でも上級貴族と官人、太政官と諸国国司、諸国の中では国司と郡司間で互いが信じられなくなる。このような相互不信の社会では国富やエネルギーが無駄に費やされ、社会は停滞する。その壊れかかった社会で輸送を担った僦馬の党は経済を回すため、逞しく機能した必要悪と結論付けられるであろう。

