更級日記の東海道の旅をもとに平安時代の古地形や文献で平安時代日本を再現
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平安時代の太政官符に見る地方統治の混乱(根源は政権内部の利益相反)

  一般に戦乱や大規模災害さえなければ、時代が下れば技術、経済システムが発達し社会は豊かになるものである。ところが平安時代には、この通念は当てはまらない。奈良時代に綻びを見せ始めた律令体制は平安遷都後、ますます矛盾が大きくなり、立て直しは容易ではなかった。おそらく国家財政はマイナス成長になっていたと想像される。当時の経済規模は水田数を見れば大よその傾向をたどれる。大石直正氏は東大寺の天暦4年(950年)時の寺田3246.6町のうち9~10世紀に耕作できたのは1割に満たなかったと述べている(体系日本史叢書10産業史Ⅰ、p.172、山川出版社)。全国で95万町歩あったとされる(倭名類聚抄)水田の荒廃は、そこまでひどくなかったにしろ稼働田数は表向きの数字より相当下回っていたことは確実である。この原因は用水管理の崩壊にあると考えられている。つまり水田は絶えず水路や貯水池を修理維持管理して初めて持続的耕作が可能である。律令国家とは国民にあまねく墾田を与え、平等に収税するという壮大な構想のもとに押し進められたが、その維持能力が伴っていなかった。用水管理を実際に担当するのは勿論地元の農民で、雑庸等の無償労働で負担した。しかし農民には正税だけでなく調の貢納、その他の労役で疲弊しており、そこに自然災害が加われば、一挙に生活基盤が失われた。正史である続日本紀、日本三代実録には多くの災害が記録されている。こうして多くの耕地が復旧することなく失われ、納税することのできなくなった農民は流浪の民となっていった。


衰亡する社会では、必然的に富の奪い合いが起こる。それは尾張郡司百姓等解文に見られる国司と農民の間だけでな政府(太政官)内部でも官とその構成員である院宮王臣家が利益をめぐり争い、それに郡司、富裕農民層が巻き込まれ問題が複雑化していた。

ここでは当時の社会の動きを太政官から次々と出された官符(現代の政令)を現代語訳で読み、混乱する社会の雰囲気を再現してみたい。



(1)諸国に浮浪人が入り込むことを禁止


  班田制崩壊の過程にあった諸国から多くの農民が浮浪人として京都に流れ込んだ。彼らのうち幸運な者は貴族皇族の家に使用人として雇用される者もあっただろうが、多くは都の底辺でかろうじて食いつないでいた。ところが、諸国からの貢納が滞るようになると院宮王臣家への分配も細るようになる。そうなると、おこぼれを頼りにしていた浮浪人たちは地方に戻らざるを得ず、その際、院宮王臣家の家人を詐称して農民を食い物にする者が出てきた。


【太政官符1】

諸国百姓が王臣家人と称し部内を騒擾するを禁断する
舎人、帳内、資人(注1)以外の者が官公庁・官家に仕えていると称することを一切禁ずる。去る寛平3年(891年)9月11日に制定された新しい制度がある。その符が出ていくらも経たぬうちに、無頼・狡賢い悪党どもはまだ王臣家の者だと言っている。国司を侮り舐めて国内を引っ掻き回している。誠に猾民之濫悪(悪党のでたらめ)とはいえ、そもそも法律が緩すぎるのである。厳しい禁制を設けないことには朝廷の権威は保てない。


左大臣(源融)宣する。

奉勅 重ねて法制を立て、暴悪を止めさせるので、諸国、以下の事を承知するように。
舎人、帳内、資人以外が、もし公官庁・官家の人を名乗ったら悪事を企んでいる者である。見つけ次第直ちに捕まえ、見逃してはならない。
        寛平6年(894年)11日30日

※注1 資人:位階官職に応じて与えられた従者、舎人の一種。帳内:親王・内親王の護衛や雑務を務める武官系舎人。
出典:類聚三代格巻19、『類聚三代格後編・弘仁格抄』p.617、国史大系(吉川弘文館)



(2)有力貴族層が国司の頭越しに地方郡司の支配を企む


  平安時代は建前上、朝廷が統治する中央集権国家であったが、根幹となる班田制は平安時代に入るころには破綻寸前に追い込まれていた。菅原道真は班田制を停止し、国の経営を国司の裁量に任せる(受領制)という改革『延喜の治』(901年~)を行うことでかろうじて崩壊を避けることができた。しかし昌泰の変(901年)というクーデターにより院宮王臣家など既得権者の特権はそのまま温存され、荘園の増加を防ぐことはできなかった。更級日記作者が生きた平安中期にはまだ荘園の面積は全耕地の半ばに満たなかったが、徴税やそれにまつわる輸送などの社会基盤には大きな影を落としていた。平安時代の政権は太政官という表の顔と、荘園を基盤とする貴族層の裏権力が合体したものであった。平安前期に既に、諸国から上進さるべき貢納品が都に送る前に有力貴族に差押えられ、深刻な問題となっていた。法的には貴族や寺社の持つ荘園からの貢納物は国司が徴収し、そこを通じて下賦されるものである。ところが地方が疲弊すると、国司としては第一優先はあくまで太政官であり院宮王臣家は二の次であった。そこで彼らは直接、荘園を管理する郡司を呼び出し、人質に取って貢納を迫るに至ったのである。その事例を寛平3年の太政官符に見ることができる。


【太政官符2】

  諸院諸家が国司を経ずして郡司雑色人等の召勘を停止する
播磨国の解には以下のように言っている。

   太政官は何度も山城、近江、美濃、紀伊等の国に下された太政官符で次のように言っています。
国内の違法行為は国司が取り締まる事であり、もし、違法行為を糺さなかったら罪に問われます。ところが院宮王臣家はひとえに田宅資財を狙い、国司を通さず直に家符(※注)を出し、郡司、雑色等を召捕り、囚人以上の監禁徴及を行います。ある場合は数か月にわたり放免せず、家の仕事は止まり、ある場合は長く捕らわれ公務ができません。その上、派遣された使いは多くの仲間を引き連れ、騒ぎ立てひどい暴力を加えます。家長が召捕られると、家中大騒動となり妻子は流浪し親族は鼠が逃げるように姿を消します。国司の政(まつりごと)は一体誰がやるのでしょうか。
このようなことを停めさせ、もし、強いて呼び出す者があれば直ちに捕まえて役所に突き出すという官裁を願う。

  中納言三位藤原諸葛宣する。申請によれば、この国は広く庶務は繁多である。なのに郡司雑色は犯過ありとして捕らえられている。このため行うべき務めや貢納すべき物が期限を過ぎてしまうのはこれが原因である。


  上記の国に準じ使いのために来る者の身柄を捕らえ突き出すという官裁を願う。

  左大臣(藤原時平)宣する。諸国上記の例にならえ

        延喜5年(905年)8月25日

※家符:有力貴族が発行する命令書。本来家中で通用する私的なものだったが、形式は官符と同じで、後には官符同様の機能を持つようになったといわれる。

出典:類聚三代格巻19禁制事、(類聚三代格後編p.618 国史大系、吉川弘文館)



【太政官符3】

王臣家が郡司百姓等の稲を横取り押収する事を禁制する


撰格所起請は次のように言っている。

太政官は去る斉衡2年(855年)8月26日五畿内諸国に下された符に云う。

太政官は承和12年(845年)6月23日摂津国の解に云う。


租税は郡司を使って収納するのが良く、まず官物納入を済ませ、その後に私事(王臣家など)にかかるものである。ところが王臣諸家は各々家印を出して未納物があると言い出し、競うように郡司や富豪の屋敷を押さえ、蓄えていた稲を取る。もし国司が異を唱えると別な理由を持ち出す。これはただ、国内を食い荒らすばかりでなく政府(公家)と争うようなものである。国の中に諸家の未納物があるという人がいるなら、今すぐその家は国に牒(※注)で連絡し、国はよく調査し、法や道理に従って、両者の立場を明らかにすべきである。このようにすれば公、私(諸家)とも収まり国内は平穏になる。


望請 早急に符を下して悪だくみの根源を絶っていただきたい。

謹請 官裁により右大臣(橘氏公)宣する。

他の四か国も摂津国にならうべきである。符の主旨を尊重しないので、既に間違って失われるものがあり、ますます、悪事が蔓延し、改められたということを聞かない。およそ人間の悪だくみ狡さは一つではなく、多くは私利のために貧乏人をいじめ奪うが、ある場合は、有力貴族の家を騙って巧妙に公の税を逃れる。今右大臣(藤原良房)が宣せられて、いわれるに、是よりひどい国家の白アリはいない。官吏の道は法(格式)が基本なのに、それを実施しない。これで良吏といえるだろうか。 早く下知して法の疎漏がないようにして、先の格を七道(全国)に実施すべきである。五畿に留めておけるものではない。諸国に下知して、でたらめ乱脈を起こさせないように、望む。


以前の撰格所は以上のような子細で起請されたものである。

中納言兼左近衛大将従三位藤原朝臣基経宣す。

奉勅 請に依れ

      貞観10年(868年)6月28日
(※注)牒:上下関係のない者間の文書

出典:類聚三代格巻9禁制事、類聚三代格後編・弘仁格抄、p.603、国史大系、吉川弘文館


(3)徴物使による貢納品の強奪


平安時代の政権は上級貴族から構成される政権であったが、太政官に上がるべき貢納物を院宮王臣家と言われる権勢家が徴物使という手先を使って暴力で奪い取ることが頻発していた。その事を伝える太政官符を示す。


【太政官符4】
諸氏諸家の徴物使、調綱郡司雑掌を寃勘(※注)するを禁止する

右につき丹波、伊予、土佐等の国からの解で以下のように言っている。


調庸雑物の貢進には期限があります。若し、その期限に間に合わなければ、法に依り罪に問われます。ところが、今、問題になっている徴物使等は郡司雑掌が京に入る日を見計らい、仲間を集め各人争うように言いがかりをつけ脅します。まず、前年の未払い分として官物を奪い、次に土毛(臨時の税)と称し個人の食料を奪います。たとい、(出しても)その求めに叶わなければ、遂に暴行を加えます。こうなると郡司は身の危険を避けようと、公に損をさせる事などすっかり忘れ、あるいは納官を内に防ぎとめ、わざと道端に落としたり、封戸物を取り(荘園の)本家の費用に戻します。又雑掌が職とする所はもっぱら公文(貢納の受領書類の取得)です。雑物(貢納品の名称)を管理できなければ、その結果、郡司は貢納未済で従前通り責任追及されます。支給された食料(公粮)は酒食に尽き、乏しくなった資金は賄賂に消えてしまいます。これにより、委託された貢納は完済できず、逃げ帰ることになります。調物未納で公文は棚上げされ、預かりの職がこのような状況なので、国司は常に解由(引継完了状)はお預けになります。郡司もまた厳しい罰を免れません。(こういうことを)禁止しないことには、どうして、この過酷な状況を止められましょうか。


官裁 くだんの(徴物)使を止め、貢調使並びに郡司進納の事、務められるようにせよ。そうすれば納官封家の未進はなくなり国司や郡司も罪を犯すことを免れられる。

左大臣(源融)宣す。

奉勅 願いによりもし(太政官)符の趣旨に背く乱暴者(強遮の輩)があれば、捕まえ、報告の上特に重科に処すべきである。宜しく有司また糾弾を加えしめよ。諸国もこれにならえ

        寛平3年(891年)5月29日、

出典:類聚三代格巻9禁制事、類聚三代格・弘仁格抄、p.616、国史大系、(吉川弘文館)

※注 寃勘:でっち上げの請求




(4)諸国浪人追放令

【太政官符5】

勅 上総国内の浪人を捕縛追放させよ
以前、上総国司は次のように言っている。

斉衡2年(855年)6月25日格でいわれますには、

  『去る延暦16年4月29日、太政官が大宰府に下した官符では、既に浮浪のならず者を捕縛するように命じている。今聞くところによれば任が明け解任された人と王臣子孫の連中が結託群集し、一緒に悪事を働き、役人に取り入り百姓を圧迫している。農業の邪魔をし収穫物を奪う。まさに蠧(キクイムシ)のために“良深”(注1)になる。厳重に捜査逮捕して元の村に返すように。もし、ここに住み続けたいと哀願しても即、籍を決めよ。出てゆくか留まるかは、夏三月(6~8月)の内に、大帳使に付し状況別に申請し決定させるように。もし、従わないものがあれば、縁故や賄賂(蔭贖注.2)を出そうが、違勅の罪を科し遠いところに追放する。地元民が隠して役所に届け出ず、そのままにした場合、同罪とする。


重ねて告知し、厳しく追及、捕まえれば、……(欠字)。なのに前司の子弟は国政になじまず、富豪浪人は吏の行うところを離れ、官物勘納の際には国司に盾着き、郡司を締め上げ租税の多くを逃れ、調庸は未納となる


  当職(上総国司)はこのような事情により、其の“格“にならい放逐をお願い申し上げます。但し国務に従い留任を懇願する者は状況により地元の籍に入れます。


  これに従うように

        元慶8年(884年)7月4日

注1.蠧のために良深:史記の格言、『良賈は深く蔵して虚しきが如し』(良い商人はその商品を奥深くしまい込み店先に出しておかない)。百姓はどうせ奪われるので、いいものを隠してしまうということか。
注.2蔭贖:地位、家柄に与えられた不逮捕特権や金品の贈与

出典:三代実録巻46 元慶8年(884年)7月4日、国史大系、日本三大実録後編p.569、(吉川弘文館)



(5)院宮王臣家と諸国の郡司百姓等が結託して官物を隠匿


度重なる禁令によっても、諸国の徴税現場責任者たる郡司等への圧力は形を変え弱まることはなかった。そうなれば彼らも生存方法を考えざるを得ない。国司から十分な保護が得られないのなら、院宮王臣家の傘下に入り手心を加えてもらう方がましと考えるのは当然である。以下は郡司等に対する禁令となったが効果はあったのだろうか。



【太政官符6】

郡司百姓が私物を宮家の物と偽る事を禁止し、正税を回避し田租を納めない輩の罪を追求せよ

  美濃国の解にこうある。
通例、郡司を国内に配置し、租税調庸の主責任者(専当)とし、地元の者を雑物綱丁(注.1)としてを差し向けます。もし官物に損失があれば、運送責任者(預り)の私物で其の不足分を穴埋めします。ところがこの国(美濃)の人は図り事が多く、いつもズルいごまかしをやり、官物が欠失します。国司がその私物を没収し官倉に運送しようとすれば、すぐに宮家に駆け込むのです。偽装寄進をするためにその家の家牒(注.2)を依頼し、この国に送ってもらい、或る場合はこの家の出挙物といったり、寄進借物の代といって、札を懸けたり、杭を打つ場合もあります。これ以上のでたらめはありません。国司は(その宮家の)家物でないことは、十分知りながら、権勢を恐れ目をしばたき黙り込んでしまいます。斯くして、その国司は借財を抱え込み、国を治めることが困難になるのです。


謹請   元からその家(官家など)の物という根拠がなければ、家牒があっても認めなければ国内には不正がなくなり官物は全納されます。

奉勅  請により大納言正三位兼行左近衛大将皇太子傅民部卿陸奥出羽按察使源朝臣能有 宣す。

  聞けば、諸司雑任以上、王臣僕従の中で国内に居住し、業(なりわい)が同じ編戸にある輩が、本主の威をかり、あるいは本司に事寄せ、春正税を割り当てられ、規則で官倉に置くことになっていながら何か月も受け付けず、秋、田租を徴税する時も、また収穫した稲を運ぶのを、ああだこうだ争って、期限を過ぎても納めない。このような連中は地元の者だろうが、理に随い責任追求を免れない。もしどうしても国や郡の説得に従わないのであれば、状況をまとめ、本司や本主に急ぎ連絡せよ。内容により罰を加える。もし国司が慮って言わなければ同じく重い責任を取らせる。諸国もこれに准へ


        寛平7年(895年)9月月27日

(注.1)雑物綱丁:京都に送る調物の運送担当者
(注.2)家牒:王臣家などが私的に出す文書、公的拘束力はないが、権威をひけらかす効果はある。

出典:類聚三代格巻9禁制事、類聚三代格弘仁格抄、p.604、国史大系、吉川弘文館


【太政官符7】

諸院諸宮王臣家が民の私宅を庄家と名付け、稲穀等を蓄えることを禁断する

  諸院諸宮王臣家は諸国内で元から田地が有るといって自ら庄家を建て、あるいは新たに山野を占拠しその地で利益を得ている。これらがもっぱら、各々便宜のために民の私宅を借り稲穀など物を集積して庄家と名付け、官物(納入)を妨げようとする。国の役人の力ではとても制止できず、出挙収納もままならない。公事が完了しない原因はここにある。去る天平9年(737年)9月21日、及び天平正宝3年(751年)9月4日の格の両方で、以後臣家の物を諸国に貯蓄することを禁断するといっている。もし、犯す者が有れば違勅の罪を科し、その物を没収し、国司、郡司は解任すべきである。左大臣藤原時平宣す。

奉勅  二つの格の主旨である禁制は厳しい。諸国の国司が履行していなければ、重ねて下知し、今後“使”がそのようなことをしてはならない。よって、庄家を騙って国の妨害をする者は違勅の罪とする。物は皆官に没収し、その“使”及び庄検校専當、預り等と称するものが放縦不遜に国務を妨げる場合は蔭贖が有ろうがなかろうが、杖六十に処すべきである。但し、元から実際に庄家をやっていて国務を妨げていなければこの限りではない。

        延喜2年(902年)3月13日


出典:類聚三代格巻9禁制事、類聚三代格弘仁格抄、p.605、国史大系、吉川弘文館

(6)諸国(地方)が疲弊・混乱していった原因の考察

  律令国家の根幹をなす班田収授制は奈良時代に既に綻びを見せ平安時代には破綻に近づいていた。しかも新都建設や東北征討の負担は継続し、行く手には暗雲が立ち込めていた。班田収授制の崩壊原因の最たるものは、社会モデルの構造欠陥であるが、問題がわかったとしても修復修正するための資源や知識も十分ではなかった。平安時代になっても立て直しの努力は続けられ、その一つの一里塚が菅原道真主導の“延喜の治”と言われる、土地と税制の改革であった。これで一息はついたものの、緩やかながら社会の衰退は続き、限られた国富をめぐって、官と民、官内部でも院宮王臣家という官の構成員の間の富の奪い合いが起こっていた。これらの争いが中間層の郡司・富裕農民を巻き込み複雑な社会問題を引き起こしていた。


①農村から京への浮浪民流入と不良王臣家子弟、使用人の諸国農村への侵入

  疲弊する農村から土地を失った農民は京に流れ込む者もいた。しかし、京で職を得られなかったものは地方に戻って、生きるため悪事に手を染めていった。一方、上層階級でも子弟が増えてくるとその処遇に困り、つて求めて諸国に出すのだが、これが不良化していた。浮浪人とグルになり、郡司・富豪層、一般農民にたかりを働いていた。これに対する禁令が幾度も出されている所を見れば、強制力に乏しく、ほとんど効果はなかったようだ。

日本三代実録には貞観3年(861年)11月16日、武蔵国郡ごとに検非違使1人、と同9年(867年)12月4日上総国に検非違使1人主典1人を置くとあるが、この位の警察力ではないに等しい。(太政官符1、太政官符5)


②院宮王臣家が封物の直接徴収に乗り出す

  いつの頃か院宮王臣家の荘園からの封物が止まりがちになり、官を通さず直接、徴物使という督促の使いを出したり、逆に当該荘園の郡司を呼びつけ恐喝して貢納物を取ろうとするようになった。これは官納物の横領であり、官との対立ともなったが、それより、官の欠失分を郡司等が負担させられる理不尽なものであった。「こういうことをするな」という官符を出しても、右手が左手を叩くようなもの(利益相反)で身内には甘く効果は疑問であった。(太政官符2、太政官符3、太政官符4)


③郡司・富裕農民層は自ら院宮王臣家の配下に入り地位保全

  前項のような状況下では郡司層は生存のため、暴力団のみかじめ料のように、むしろ院宮王臣家の傘下に入って保護を求めた方がましだった。(太政官符6、太政官符7)

④荘園の増加は必然

  平安時代に荘園は官に認められたものでも、当初は正税は官に納め、それ以外の調庸部分が封物として荘家に与えられた。ところが時代が下るにつれ支配比率が増え私領化が進む。荘園面積そのものも平安中期は全耕地の半ばに達していなかったが、末期には荘園が多数を占めるようになっていた。これは院宮王臣家や大社寺がもはや官による封を当てにできず、自らの力で徴収できる私領の獲得に努めてきた結果であったが、一方、農民、郡司層にしても荘園という小世界に入ってしまった方が生きやすかったであろう。本題からは外れるが、荘官となっていた郡司、富裕農民(富豪)層は武装自立し鎌倉時代に地頭などとして農村を実質支配することになってゆく。

 

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