武蔵国の東海道を一路南下し弘明寺へ
武蔵野国の東海道を一路南下し弘明寺に
寛仁4年9月23日、グレゴリオ暦10月18日)
夜が明ける頃すでに下の河原では人足たちの立ち騒ぐ声がする。穏やかな朝だ。東の空が少しづつ白らみかかったと思ったらほんのり赤みが差してくる。と見とれているうちにまばゆいばかりの光が辺り一面にまき散らされた。この神々しい「天照る大神(あまてるおおかみ)」のご出御に手を合わせ、深々と礼拝する。気が付くと家族も庵から出て、外で準備をしている者達と一緒に東を向き、合掌していた。
庵を片付け、皆一同河原に降りて食事をする。
虎吉がやってきて、父に向かい
「今日から山道になりますが、大変なのは最初の尾根に上がるところです。とにかく、ここで荷物を上にあげてしまわないことには始まりません。いったん上に上がってしまえば、多少の起伏はありますが、ただただ、南に向かって歩くだけです。弘明寺は一日では無理なので途中の峠で野営ということになります」
昨日、石瀬川(現代の多摩川)に着いたところで荷駄を運んできた牛は持ち主に返してしまった。今日、舟で川を渡った後は、馬は侍が乗る馬と駄馬4頭だけとなる。聞けば平地なら牛馬は、たくさん荷物を運んでくれるので大いに助かるが、傾斜が急な狭い山道は荷物を積んで登らせるのは本当に大変なのだそうだ。急な坂では荷物をおろし空身で登らせるので二度手間になり、結局人の背で運んだ方がましだという。
川を渡りしばらく西に進んだところで、大きな木の根方に子供くらいの石が立ててあり注連縄(しめなわ)が飾ってあった。(現在の大戸神社あたり)ここで小休止をする。 三郎が馬の上から鞭で南を指し
「ここから、南のあの山に取り付き、尾根に上がって歩きます。天気が良くてよかったです」。
東海道はここから直角に南に曲がるらしい。護衛の侍だけは馬に乗っているが、父も兄も馬から下りて、その馬には荷物を積んである。
登り口に着き上を見上げると「ひぇー、こんなところを登るの」と悲鳴がでる。「来た時は、こんなところを下ったかなー」と一人ごつと、
姉が「あなたは侍の背で寝ていたのよ」。
馬の轡を引いた侍たちを先頭に細い坂道を登り始め、私たち家族もそれに続く。確かに急は急だが登ってしまうと、上は比較的木が切り払われ平らになっている。ここで一休みしながら荷物が上がるのを待つ。人足もうちの家人たちも汗だくで何度も往復して下から荷物を運び上げた。周りを見渡すとずっと南まで見渡せる。「ここからまっすぐ南に歩いてゆくのよ」
聞けば、今運んでいる荷物は全体のほんの一部で大半はこれから上総から海を渡って弘明寺に着くのだそうだ。今は衣類、布など高価なもの、紙のように濡らしてはいけないもの、宿泊のための庵、当座の食糧だけだからそれほど大量の荷物ではない。一休みしたのち隊列を整え出発だ。一刻(いっとき、2時間)歩いて一休みする。休んでいるとき鳶丸や侍たちは鉈で尾根の上に生えている木々の細枝を刈り取っている。「一体何をしているの」と聞くと、「これは今夜から山の中で野営するでしょう。真っ暗になると足元が見えなくなって危ないので、夜に使う松明(たいまつ)を作っているんです。どうせ枝を刈るなら尾根道になっている部分の木を切っておくと、見通しがよくなるので、なるべくその辺を切るんですよ。枝もなるべく風で折れて枯れた、松のような木が脂が多く長持ちします。細枝を手で持てる太さにツタで束ねてこれを背負っておくと暗くなっても安心です」
まだ日が高いうちにいったん坂を下り、峠のようなところで宿営をすることになった(神奈川県横浜市港北区菊名あたり)。
峠は木が伐り払われ、広場になっていて焚火の跡がところどころにある。荷物を担いだ人足や家の者も散々伍々尾根から下ってきた。最後に三郎が馬をひいてやれやれという顔で転がるように降りてきた。一息入れたところで源蔵が点呼を始める。
「おい、みんな広場に入れ、人足どもは右、お家の郎党連は左だ。周りを良く見て居ないい者はないか」しばらくして「お家の者、ほか郎党15人、人足12人全員揃っています」と虎吉に向かって報告した。その間にも、彼は私たち家族の方にもちらっと鋭い視線を向け数を確認した。
「荷物はこの真ん中に積むんだ。」と鞭で6丈(18m)四方ほどの広場の中心をぐるっと円を描いて指し示した。「馬は荷物を下ろしたら水場に連れてゆく。人足たちは木を伐って焚火の用意だ」
虎吉は家の者に向かい「男は桶を持って水場まで水汲みだ。鳶丸と猪(イノ)、犬丸は庵(いお)の設営、女たちは食事の準備にかかってくれ」
この場所は尾根から下った道と直角に細い道が東西に交差している。東西方向は少し低くなっているようだが、なだらかな草原のようだ。今日はお天気が良く程よい小春日和だったが、じっとしているとわづかに吹く秋風が冷たい。宿営場所に着いてやることはいつも大体同じだが、これまでは水場のすぐそばだったので水汲み作業はなかった。女たちは荷物を片付け終わると、調理する場所を決め食事の支度にかかる。今回は荷物を積み上げた場所を囲むように4か所で火を焚くらしい。人足たちはまず周囲に落ちている枯れ枝を集め、それが終わると広場の周囲の木を伐り倒し始めた。さらにそれが終わると峠から明日向かう道を登りながら両脇の木を刈り始めた。
そばで庵を組み立てている犬丸に向かい「ねえ、いくら焚火に必要だってあんなところまで木を刈る必要があるの?」と聞いてみた。
「今切っている枝は、たぶん今日は使わないんですよ。今晩の分はこのあたりに落ちている枯れ枝で大体間に合います。この枯れた枝は前に通った旅人が伐って残していったものです。木というのは生木だと燃えづらく煙ばかり出てどうしようもないんですよ。だから今は前の旅人が残したものを使わせてもらい、今切っているのは次の旅人のために残すんです。それに道の入り口は木が刈り払ってあるとわかりやすく道を間違えることがありませんからね」
4か所に薪木が積み上げられた。その間、女たちは今晩の夕食の下ごしらえをする。水桶が調理の焚火の場所に運ばれてきた。調理は見ていて、とても楽しい。身分のある大人達はそばに寄って覗き込むような不作法はできないが、子供は大目に見られる。調理の話も書きたいが今回は夜中に起きた事件について書かねばならないのでまたの機会にする。
今日はたくさん歩いてくたびれたけれど、黄昏の中でおいしい夕食をみんなと一緒に食べられて本当に楽しかった。たくさんおしゃべりもした。あー眠くなってきた。隣の焚火では虎吉はじめ源蔵、三郎らが明日の段取りについて話し合っているみたい。ちなみに、庵の中で眠るのは自分たち家族と乳母だけだ。天気の良い晩は皆、筵(むしろ)をかぶってそれぞれの焚火の周りで草枕だ。
この後、夜中に起こったことについては私は全く知らない。以下は兄が翌朝になって話してくれた、侍の失踪事件だ。夜中は3人一組で侍が交代で寝ずの番をする。その間4つの火を絶やさないよう薪を足して回る。こうしないと狼に襲われたり、盗賊が近づいても気が付くのが遅れる。侍たちは弓矢を傍らに夜番をするのだが、何分手持ちぶさたなので何か手仕事をしながら時間をつぶす。この夜は、薪の中から適当な枝を選り出して籌木(ちゅうぎ)、平たく言えば「糞ベラ」を作っていた。大したものではないが、これは結構みんなに喜ばれる。半尺より少し長め(20cm位)の大人の小指くらいの太さの枝の両端を平たくヘラのように削るだけだが、そのあと石で磨いて角や表面をササクレがないよう滑らかにする、これがちゃんとやってあると、気持ちよく用が足せる。3人がぼそぼそとしゃべりながらそんな作業をやっているところに、仲間の侍が寝ぼけ眼(まなこ)でてやってきた。
「与平治、どうした眠れねえのか」
「いや、そうじゃないんだ。今日は疲れてしまって馬の世話をして、すぐ横になったんだが、寝ているうちに急に腹が張って催してきたんだ」
「そんじゃ、ちょうどいい。これ持っていきな」と作っていた籌木(ちゅうぎ)を二本渡し
「そのあたりでやるんなら、松明(たいまつ)はいるまい。そこから燃えさしを1本引き抜いて持っていったらいい」と焚火を指差した。
「ありがとう。じゃあ、すぐ戻ってくる」
「あまり遠くに行くなよ。今晩は狼が出そうだからな。」
この夜は天気は良かったが、月の出が遅く山中では焚火から少し離れると漆黒の闇だった。
それから四半刻(約30分)、侍たちが騒ぎ始めた。 「おかしいな、いくらなんでもこんなに時間がかかるわけはあるまい。ちょっとその辺を探してみるか」
3人で松明をかかげ周辺を侍の名を呼びながら探し回った。しかし、何の応答もないので源蔵を起こしに行った。そのあと侍たち全員で周辺の捜索を始めたが、手掛かりがないまま夜が明けた。この夜は月が登り始める時刻(午後10時過ぎ)から狼の遠吠えが始まり一晩やまなかった。
寛仁4年9月24日(グレゴリオ暦10月19日)
夜が明けてから大騒動だった。侍、人足たち全員で与平治の名を呼び捜索を始めた。しかし、一刻(2時間)経ってもまったく手がかりはなかった。虎吉、源造ら主だったものが父に向かい、
「このまま探し続けても、見つかるかどうかわかりません。人を残して捜索を続けますが、本隊は弘明寺に向かってはどうでしょう。少なくともあそこには2日は逗留しますので、もし見つかれば追いつけるでしょう。」
「着物一枚で出て行ったんでは、尻抜け(逃亡)でもないし、狼に襲われたのなら悲鳴ぐらい聞こえそうなものですが…」と源造が首をひねった。
「神隠しということがあるそうだが、まさか山の神に消されてしまったのではないだろうな。」と父。
「山の中で糞したぐらいで、神様はお怒りにならないと思うんですがね。誰だってやることですから。」と真面目な顔をして三郎がつぶやくと、
父は苦笑しながら、
「仕方ない、出発の準備をして、居残るものを決めてくれ。弘明寺で待つことにしよう。あちらでは、もう船が着いて待っているかもしれないからな」
こんなことで、慌ただしく出発した。結局侍2人と地元に詳しい人足1人の合計3人を残し捜索を続けることになった。
弘明寺では上総からの荷物が海を渡って届けられることになっていた。その荷物の一部は土地の産物と交換もするが、大半は次の大きな村など人が集まる場所まで運ばねばならない。必要な人足の
手配は父や虎吉等がいなければ始まらない。秋の弱い日差しが高くなる頃、また尾根に上がり南を指して歩き始めた。お天気はまずまずだが、今日は皆、黙々と歩く。心が晴れるのは木々の間からわづかに見える海の輝きだ。前を歩いていた蓬(よもぎ)が振り返って
「姫様、ほら上総の方が見えますよ。ずいぶん歩いてきたんですね」
指差す方を見ると、海を隔ててちょうど真東にうっすらと一筋、上総の海岸が見える。目を凝らしてもはっきりとは分からないが、
「私たちが居た辺りはあの海岸から少し上がった辺りだよね」
そんな会話を交わしながら、登ったり、下ったりしながらようやく川のほとりまでたどり着いた。(鶴見川)
ここには舟が一艘しかなく、濡らしてはいけないものや大事な物だけ舟を使い、他は男たちが肩に担いで徒(かち)渡しした。大した川ではないが深いところもあるので、あらかじめ土地の者に浅い場所を示す竹竿を立てさせてある。私たちは輿で渡してもらった。荷物を渡す間、馬には草を食ませ私たちもお握りをいただいた。塩をまぶしただけだが、とてもおいしい。荷運びを終えた人足たちにも一個づつ配られた。その若者たちの食べる表情がとてもいい。ボロを着て髪はぼさぼさで、とてもむさ苦しいが、ただ食べられるこのひと時の幸せを噛みしめてるみたい。まだ、これまでは荷物も少なくご飯を炊く余裕があったから、おむすびを出しているが、そのうち、糒(ほしいい)だけしか出せなくなるときも来るのだとか。
この渡しでは少し時間をとって待ったが、ついに追い付いて来る者はなかった。同じような道をさらに南に進み、陽が傾きかかる頃、港のある村、弘明寺に着いた。久しぶりに海の香りがする。
弘明寺のにぎわい
弘明寺は川に面しているが、すぐ先は入り江で何艘か大型の舟が繋いである。弘明寺は川に面して裏は低い丘になっていて、その中腹にかけて粗末な掘っ立て小屋が何軒かあり、さらにその上に小さいな草堂らしきものが見える。どうやらその境内で2、3日逗留するらしい。昨日、山に上がってから、まったく住人の人影を見なかったが、この村は結構人がいる。
「ほら、あそこに見える船が、上総からやってきた船だって」と姉が声をかけてきた。見れば、船の中には菰をかけて荷物が山のように積んである。
「いつ、上総を発ったんだろうね」
「たぶん、今朝、早くに出たのじゃないかしら」
「船ってそんなに速いのか。だったら私たちも何日も山に上ったり下ったりしないで、船でここまで渡ったら楽だったんじゃないの?」
「あんたに、船に乗る勇気があるかしら?上総の家で馬に乗せられた時も大泣きだったでしょう。船は馬なんてもんじゃないよ。波に持ち上げられたり水しぶきをかぶったり。もし海に落ちたら絶対助からないよ」
確かにそうだ。川を渡し船で渡るのとは訳が違う。あんな広い海の真ん中で振り落されたら命はない。おー恐わ。
寛仁4年9月25日(グレゴリオ暦10月20日)
寺の境内は少し小高い位置にあるので入り江の様子がよくわかる。久しぶりに多くの人が集まって働くのを見た。昨日着いた船から荷物が下され、寺の下の広場の小屋掛けした場所に積まれている。荷物の大部分は米俵のようだ。現場では虎吉が帳面を広げ、荷揚げする人足頭と何やら話しこんでいる。
父や兄も今朝は大急ぎで食事を済ませると、境内の石に腰掛け、数人の地元の役人か長者を相手に話し込んでいる。河岸から上がってきた虎吉もこれに加わった。
「ねえ、今日はここで何をするの?」と乳母のユリに聞いてみた。
「いろいろですよ。殿方はこれから、船で運んで来た上総の産物を売り捌いて、かさばらず、もっと価値の高いものに交換するんです。たぶんその取引に一日はかかるでしょうね。それと同時に、これから荷物が増えるので人足も新たに雇わなければなりません。源造がさっき馬で出かけましたでしょう。たぶん地元の村を回って人集めに行ったんだと思いますよ。私たち女は洗濯をしたり、ご飯を炊いて糒(干し飯)を作ったり次の旅に備えて大忙しです。食料の買い入れもしなくちゃならないし」
湊の景色を眺める風を装って、少し離れたところから父達の話を聞いてみた。
「布の品質は上物だろうな。安いものはいらんのだ。極上の品だけを集めてくれ」
「干し鮑(あわび)だが、カチカチに乾いて塩をしっかり吹いたものが欲しい。食べるのには生乾きの方が旨いが、遠くに運ぶには重くて困るんだ。集まるだけ持って来てみてくれ。支払いは昨日着いたばかりの新米だ。支払額はそちらの品質を見て決める」
「では布の方は午後にでも持ってまいりますので、ご検分ください。干し鮑(あわび)はこれから浜に行って集めさせますから明日の午前中になります」
お昼少し前、ちょっとした騒ぎがあった。おとといの晩に行方不明になった侍の与平治が、仲間に連れられて戻ってきたのだ。仲間の侍が手綱を引き、馬の背に覆いかぶさるように、苦しげにしがみついていた。下の方の騒ぎがママ母さんも気になるらしく、庵の繕いをしていた鳶丸をそばに呼んで、言った。
「下に行って様子を聞いて来てはくれないか」
暫くして、息を切らしながら鳶丸が戻ってきた。
「奥様、あの与平治とかいう、お侍は糞をしに行ったんですが、藪の中の窪みというか穴のようなところに落ち込んで、頭を打って気を失っていたようです。焚火に近いところで、不浄のものを出しては憚かられるので少し先まで行ったんだそうです。ところが、燃えさしの先が折れ真っ暗闇になってしまい、大体の勘で藪に少し入り袴を下ししゃがみこんだところ、なんと、そこが斜面の縁で背中から後ろに落ちてしまったのだそうです。そのまま気を失って翌朝、日が高くなって、仲間が自分を探す声で気づき穴から這い上がってきたということです。穴に落ちる時とっさに手を着いて腕を折っているらしいということです。頭の擦り傷は大したことはないようですが、まだ、正気ではなくふらふらするということです。
とりあえず傷の手当てをしてから、行列の後を追ったんですが、途中で日が暮れ道に迷いそうになったので、その場で夜を明かし、今朝やっと着いたということです」
「それはよかった。怪我が大したことないといいんだけどね。」
「そのことですが、あの腕の様子ではとても弓は引けまいから、上総に返そうと話していました。ちょうど船が明日戻るので便乗させてもらうそうです」
やれやれ、大ごとでなく良かったけれど、あまり笑えない話だ。私たちも夜中に用足しに出ないようにしなければ。
寛仁4年9月26日(ユリウス暦1020年10月15日 、グレゴリオ暦10月21日 )
早朝から商人や地元の村人が出入りし、まるで市のようだ。どうやら出発は明日らしい。私たちは自分の事だけすれば後は暇なので、湊の船着き場まで船見物に出かけることにした。ママ母さんとチビちゃん、姉さん、私と乳母のユリそれに案内役の鳶丸だ。上総から来た船が、相模の産物を積んで、戻るところだ。荷物だけでなく、旅人も乗せることがあり、その中に昨日戻ってきた侍の与平治の姿もあった。船は3艘で、来たときは、かなりの荷物を運んで来たようだ。
鳶丸が
「向こうから積んで来たのはほとんど米だそうです。上総は米がたくさん取れますが、こちらは広い田んぼが少なくて、米が足りなくて困っているそうです。食べるものがないというわけではないんですが、必要な物を手に入れる時、代価として渡すのに一番便利なものは米ですから。多くを買い上げているのは郡衙の役人と聞きました」
船は長さがどのくらいかしら。海を渡る船はさすがに大きい。長さ5丈(約15m)位もあろうか。真ん中には帆柱が立っている。荷物の積みこみは終わっていて筵(むしろ)がかけてある。私たちが、寺に戻ろうとしていたところ、後ろから船頭はじめ水手(かこ)たちがぞろぞろと着いてきた。あら、どうしたのだろうと振り向くと、船頭がぺこりと頭を下げ
「奥様、手前どもこれから船出しますので、寺の観音様に航海の安全をお願いに行くところなんです。毎度のことですが、これだけは欠かせません」
普通なら、船頭の方から声をかけてくることは考えられないが、私たちが上総の前司の一行なので、つい声をかけてみたくなったようだ。 ユリがママ母さんに代わり
「ああそうなんですね。天気が良くても海では何が起こるか分からりませんからね。私たちも一緒に観音様にお願いさせていただきますから、どうぞ、ご無事で上総に帰ってください」
草堂の前で船頭は一斗もありそうな米袋を祭壇に供えた後、十一面観音様の前に額ずき何やら呪文のような言葉を唱え、じっと祈りをささげた。ちらっと横を向いたら船頭以下水手(かこ)たちの表情は必死の形相に見えた。やはり海を渡るのは簡単なことではないんだ。
メイン画像は粉河寺縁起絵巻より(火災による焼け焦げの跡を消去修正)