更級日記の東海道の旅をもとに平安時代の古地形や文献で平安時代日本を再現
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東海道・相模路をゆく

弘明寺で旅支度をして草原の旅へ



寛仁4年9月27日(ユリウス暦、グレゴリオ暦10月22日 )

 昨日出発の予定だったが、買い付けの荷物が届かず、馬も集めるのに手間取って、今日の出発になった。

私には、もう、ずいぶん旅をしてきたように思えるけど、兄に言わせればこれからが本当の旅なんだという。荷物も増えるし、人数も増える。そして盗賊の危険も増し、天候も悪くなる。旅だけならともかく、これからは、取引が本格的に始まるので、自分にはえらい事だと頭を抱えていた。何の事かと思われるかもしれない。兄の長い説明は、半分も理解できなかったが、かいつまんで書いておこう。



  国司が京の都に帰るとき、4年間務めた報酬を持ち帰るが、大量の米を担いで帰るわけではない。携行する米は旅の途中の食糧と取引用だけにする。つまり船で弘明寺まで運んできた米の一部は、あらかじめ他の物品に替えるためのものだ。たとえば布、あしぎぬ等の繊維製品とか乾燥海産物、塩等、軽くて価値の高いものに交換する。国司の報酬分の大半の米は上総国衙で切符というものを発行してもらって、京都に帰ってから同じ価値の物品と交換してもらう。弘明寺で交換した品物もほとんどは京まで持ち帰らず途中でほかのもっと価値の高いものに替えたり、人足の給料や旅の食糧の買い入れ、その他いろんな経費を払うためのものだ。これだけ膨大な売買をやるためには、きちんと帳簿をつけ、何をどの商品とどういう割合で交換したかを把握していないと訳が分からなくなる。

 今度の旅では父の孝標と執事の虎吉が全体の売買計画を立て、細かいことは虎吉の配下の3人の手代が分担している。兄の定義は、旅の直接の経費の収支記帳を任されている。食料の調達、人足の給料、草鞋(わらじ)や必要物品の調達。宿を借りればその支払、他いろんなことがある。それは頭の中でできることではないので、すべて帳簿を作って記録しておかねばならない。文字を書ける人間は私たち家族と虎吉の配下だけなので、それは大変だ。実は書くだけの事ではなく、取引を間違いなく行うには算法(計算)が必要で、そちらの方が大変なのだという。私にはまったく分からない。上総を出発する時かなりの紙を持ってきたが、京で売るだけでなく、途中でもかなり使いそうだ。

  ところで昨日、父がママ母さんに

「橘殿、すまないが、手が空いていたら、この帳簿を出発前に清書してもらえないだろうか。いろいろ書き込みをして分かりづらくなっているのだが、清書まで手が回らんので、お願いしたいのだが」と頼みに来た。

『橘(たちばな)』というのはママ母さんの普段の呼び名で、何も父が妻をそう呼ぶことはないのだが、遠慮しているみたいで、ちょっと変。ついでだが、姉さんは皆から『りんどう』様と呼ばれている。私は『あかね』。小さいころ頬っぺが赤いので『アカネちゃん』と呼ばれ、そのまま、そうなってしまったそうだ。

ともあれ昨日は宿にしている寺の一室で女も奮闘した。姉さんも母さんが清書した書類を乾かし、こよりで綴じたり大忙しだった。私も墨をすったり、紙を切ったり、少しは手伝ったが、チビちゃんを母さんの邪魔をしないように庭に連れ出して遊んでやったことの方が助けになったかな。



 旅の一行は夜明けとともに寺の下の広場に勢ぞろいした。一体どこから連れてきたのか、すごい数だ。人も多いが荷物を運ぶ駄馬が20頭もいる。それぞれに米俵を2俵ずつ振り分けに積む。これに上総から連れてきた侍の馬が6頭。人足に至っては40人はいる。護衛の侍は最初からいる7人に加え、上総からの荷物を積んできた船で新たにやってきた6人を加え13人となった。本当は怪我で上総に戻ることになった与平治も京まで行く予定だった。お給金のこともあるが、田舎では誰しも一生に一度は京の都を見てみたいというのが夢だから本人も残念だったろう。与平治は三郎のところの郎党で弓自慢だという。でも結構ひょうきんで上総にいる時も門の外で父を待つ間、いつも仲間を笑わせていた。一緒に行けたら、どんなに楽しい土産話を上総に持ち帰っただろう。河原で草を食んでいる駄馬は相模の砥上の渡しまで行ったら持ち主に返し、それから先はまた相模の馬を集めるとか。大変な事だ。勢ぞろいしたところで、みんなに、あらかじめ用意してあったお握りと、瓜の漬物が配られ腹ごしらえをした。

(※画像は石山寺縁起絵巻より)



 餅井坂という坂道から裏山に上がり、また尾根道を南にとり旅が始まった。秋が深まり吐く息も白い。今日はどんよりとして風があり寒い。体を動かしていないと冷えてしまう。父は馬に乗るよう勧められていたが、

「いや、わしは歩く。その馬には荷物を積んでくれ」と断った。

兄と並んでひそひそしゃべっている声が耳に入る。

「暖かい時分には馬もいいが、寒くなると腰から下が冷えてどうにもならん。足には革沓を履いても、すぐ感覚がなくなってしまうんだ」

「父上のおっしゃる通りです。私も馬は苦手です。馬は出発の時と、到着の時だけで十分ですね。冬はとにかく体を動かしていないと凍り付いてしまいます」と兄が返す。私たち女も当然歩いている。輿は2丁用意してあるがそれには荷物が積んである。で、チビはどうしているかというと、鳶丸におんぶされている。

ママ母さんが

「鳶丸は大人じゃないからあんたは重いのよ。藤太(侍)に負ぶってもらいなさい」

チビ曰く

「やだ、鳶丸がいい。」と駄々をこねる。

「奥様、構いません、疲れたら犬丸に代わってもらいますから」と鳶丸 。

仕方ない、チビはいつも遊んでもらっている鳶丸が大好きだ。

尾根の道は木こそ刈り払ってあるが、大人の背丈ほどもある薄(すすき)や荻で覆われている。半刻(1時間)おきに小休止し馬には草を食べさせるが、緑の草も減って、いい草場がない。

源造が虎吉に向かい

「薄や荻ばかりじゃ、馬も力が出ないんで、昼には少し米糠(米ぬか)を食わしてやらんといけませんかね。」

「そうだな、じゃあ、尾根から下りる前に一休みするから、少ないが褒美に二合づつ食わしてやるか」



 とにかく今日は草の中を只々掻き分け歩く旅だった。尾根を西に下り、川に出たところで宿営となった(鼬川いたちがわ、横浜市栄区笠間町新橋あたり)。ここは、まだ草が青々としていて川の水も清らかだ。馬達もおいしそうに水を飲んでいる。しっかり食べて明日も頑張ってね。

今晩は冷え込みそうなので、立木を利用して侍や人足が入る簡単な庵がいくつも張られた。

 まだ明るいうちに、片付け、食事が終わり、皆、いくつも焚かれた、焚火の周りで、くつろぎ談笑を始めた。

隣の焚火で父と兄がこんな話をしている。



「東海道といえば官道ですよね。今日もすごい草道でしたが、もっと通りやすく手入れができないものですかね。下手すると道に迷ってしまいますよ」

「確かにそうだ。しかし手入れをするとすれば久良岐(くらき)郡衙だろうが、彼らが自分たちの実入りが増える訳でもないのに、そんなことに費用を出すかな。確かに国衙の役目に旅人の利便を図るということもあるが、渡し船のように目に見えるもの以外にはなかなか手が回らないんだ。上総でもそうだったが、田の水路、ため池、川の堤防、橋の修復など、やることが山ほどあって、農業以外の工事には頭も体も回らないよ」

兄が声を潜め父の耳もとで

「でも、上総では費用の面なら十分出せる余裕はあったんじゃないですか」

父の表情が面白い。苦笑いをかみ殺し、

「問題は費用だけじゃないんだ。人手だ。何をやるにしろ、百姓の手を借りねばならんが、彼らとて忙しいんだ。農作業はもちろん、米以外の税目でとられる物品の製作、自分の家の修理、村の共同作業、着るものを作るための機織り、そのほか細々ある。俺も上総に来るまでは、正直まったく知らなかったが、彼らの生活は楽じゃない。昔、奈良の都を造っていた頃、あまりに多くの政策を一緒に推し進めたものだから、百姓等が負担に耐えかね村を逃げ出し、盗賊になったり、行き倒れたり、結局多くを望んだがため、却って、取れる税も減り、人手もいなくなり、何もできなくなってしまった。必ずやらなければいかんところを、まづやって、後は時期を見ながら、やるしかないだろう」

更に続けて父が

「ところで東海道といえば、大昔は今朝の尾根道を更に南にたどり岬の先端に出て、そこから船で上総に渡ったというのを知っているか?それが大昔の東海道だ」

「えーっ、何でまたそんなことをしたんです? 船で海を渡るなんて命懸けじゃないですか」

父「大昔には隅田川と太日川(現在の江戸川)の間は沼と葦原だらけで、とにかく舟でも足でも通れる場所じゃなかったらしい。その後、奈良の都ができた頃か、その前かは知らんが、この前通ってきた葛飾の大道ができて初めて武蔵の方から上総に渡れるようになったんだ」

「ところで東海道といえば、延喜の頃まで立派な駅路があったといいますが、あれは一体どうなったんですか?」

「あんなものは、とおの昔に草に埋もれているさ。だって道というのはいつも人が通っていれば、手入れしないでも、足や蹄で踏み固められ、わからなくなることはないが、あの駅路という東海道は御上が紙の上に線を引いて作った道だ。管理する費用が出なければ、途端に草に埋もれて分からなくなるよ。駅路という道は地元の人間は使ってはいけない道だったからな。もちろん駅路でも地元の人間が使ってもよかった区間は今も残っているよ。この前通った葛飾の大道はその名残さ」



西富



寛仁4年9月28日(グレゴリオ暦10月23日 )



 川沿いの道を草をかき分け、ただ歩き、境川の砥上の渡し(神奈川県藤沢市石上)に着いた。お日様はぼわーと白くかすみ、まだ頭の上に来ていない。ここでは先駆けして手配をする手代の猪野次が出迎えた。

虎吉に向かい「お待ちしていました。何事もなく何よりでしたが、ちょっと困ったことになっています」

「どうした、何かあったのか」と虎吉。

「渡し舟がこの前の野分(台風)で一艘海に流されてしまったそうで、今は一艘だけで瀬渡しをやっているんですよ。それに馬の方も明日まで待たないと、とても集まらないと西富の方から言ってきました」

「ということは、今日は向こう岸に渡すのがせいぜいだな。ま、仕方ない。では庵や炊事の道具類を先に渡して、それから米俵だ」

 私たちは最初の舟で向こう岸に渡された。船着場から少し上がった砂山のような場所が砥上(とがみ)の渡しだ。

「まあー、見晴らしがいいこと。海が見えるじゃない。左手には山が!まるで屏風に描いた絵のようじゃない」と、まま母さん。

姉さんも

「ほら浜の方を見て。すごい波が寄せている。上総の浜の波とは全然違うね」

 境の川を渡っただけで、景色はガラッと変わった。これまで荻や薄(すすき)の一面の原だったがこちら岸の相模の海岸にはびっしり蘆がが生え茂り、根方は水たまりになっている。西富の部落はここから少し北に上がったところらしいが、馬がいないので荷物を運べない。仕方ないので今日はここで宿営する。向こう岸から舟に山積みにされた俵が着くと、人足たちは一俵づつ背に担いでこの砂山を登り始めた。

「あれはとても重いんです。運んできた馬は戻ってしまいましたから、岸からここまでは人が運び上げるしかありません」と鳶丸が気の毒そうに言う。

でも、俵に押しつぶされそうになって登ってきた人足達も荷を地面に下し、今登ってきた道を振り返ると一様に「ほおー」と感動の溜息をもらす。誰が見ても、この景色は万金に値する。

 そこに、一人の地元の者らしい背は低いががっしりとした男が小走りでやってきた。手代の猪野次の姿を見つけると、

「お着きになりましたか。ご挨拶だけでもと思い参上いたしました」

猪野次が父に向かい

「こちらが西富の長者でございます。この辺りの村長(むらおさ)をやっておりまして、人足、馬の手配を頼んでおります」

「これは上総の前司様、ようこそおいでになりました」と片膝をつき挨拶をした。

「このたびは、折角のご用命でしたが、あいにく、今は村に馬はおりません。と申しますのは、この前の野分(台風)で村のあちこちで家屋敷がつぶれました。建て直しやら修理で材木が必要になり、村の男は馬を連れて山に入っております。使いを出しましたので、明日には下りて参ると存じます。それまで前司様ご一行にはどうか手前どもの屋敷でお休み願えませんでしょうか。むさ苦しいところですが、お天気も崩れそうですのでどうかお運びください」

「殿、それがよろしいかと思います。こちらは馬が着き次第、合流しますので」と虎吉。



 西富長者の屋敷は渡し場から一里ほど北にあった。垣根で囲われた広い敷地の中に茅葺きの母屋に板葺きの倉庫、庭の真ん中には壁のない作業場のようなものがいくつかある。長者の妻、娘、下女と年老いた作男が出迎えてくれた。なるほど若い男の姿はない。

「今、若い者はみんな山で木を伐り出しております。山仕事は人手がかかりますので、村の者総出で協力してやります」

と長者の妻は部屋に案内しながら語った。通された部屋は結構広く、真ん中に囲炉裏がある。久しぶりにくつろげそうだ。

 食事の後、父と長者はひとしきり世間話をしていたが、長者は思い切ったように

「前司様、今回のお荷物の中に釘や鎹(かすがい)をお持ちではないでしょうか。これから村のあちこちで造作をしなくてはなりません。鉄製品は注文して作らせなければなりませんが、急に必要になり困っております」

「そう沢山はないが、ある筈だ。明日、猪野次が来たら言っておこう」と父。

「それは助かります。あと、上総の紙を少し分けていただけないでしょうか。この辺では紙を作っておらず、手に入れるのが大変です。それに、上総の紅花をこれは少しでいいのですが、分けていただけると助かります。」

「もちろん上総の特産だから持って来ているよ。紅花とはこちらでは染色もやっているのか?」

「いえ、機織りはやっておりますが染色まではやりません。実は虫下しでございます。大人は腹の中に虫がいても時々腹痛を起こすくらいですが、小さな子供は命取りになります。せめて小さい間だけでも飲ませてやりたいのです」

このあと延々とこの地の産物や商売の話が続き、私たちは眠くなって寝てしまったが、兄は、男だから興味があるのか、聞き漏らすまいと真剣な顔をしていた。



相模国府を経て国府津へ



寛仁4年9月29日(グレゴリオ暦10月24日 )



 昨日の夕方、山から戻った馬たちは、長者の屋敷の庭に集められていた。もちろんこれはすべて長者の持ち物ではなく、近在の馬を馬子付きで借り上げたものだ。昨夜は雨が降ったらしく地面は濡れていたが、朝には上がった。馬たちは壁のない小屋に入れられ雨には濡れなかったようだ。

西富の長者は父に向かい、揉み手をしながら、

「今日は昼までに渡し場から、お荷物を取ってきますので、ご一行様は午後もこのままご逗留ください。馬たちも少し休ませなければなりません。その間、お取引のお話もさせていただきとう存じます」

 午後は庭に下ろされた荷物を前に市が始まったような騒ぎになった。長者とその息子達は虎吉はじめ手代達を相手に、高いの安いの、多いの少ないのと、口やかましく取引を始めた。兄は左手で帳面を広げ、右手に筆を持って記帳をしている。村人たちも物珍しそうに覗きには来たが、早々に家の者に追い払われてしまった。



寛仁4年10月1日(グレゴリオ暦10月25日 )



 海沿いの道を、といっても海まではかなりあり、海の音は聞こえない。聞こえるのはただ風の音ばかり。砂の一本道をただ歩く。前を歩いている父と虎吉の声が風に流されて漏れ聞こえる。

「あの長者にはうまくやられましたな。鉄製品は結局全部置いてきました。今度の馬、人足の代価は米で払うつもりだったのですが、それは要らぬとぬかすのです。米はこちらでも採れますからと」

「わしが鉄を持っていると言わなければよかったんだ。この東海道を行き来する者は、必ずあの長者の屋敷の前を通る。知恵がついているから、わし等には太刀打ちできまいよ」と父。

「米は価値の割に重いのでなるべく早めに処分したかったのですが、足元を見られてしまいました。鉄はかさばらない割には高く売れるので、足柄を越えたところで売りたかったんですがね。お釣りの代価には布を渡されました。並みの品質で都まで持ち帰るほどの物でもなく、かさばるので断りたかったのですが、何せ、押しが強くてまいりました」

兄が口を挟み「米で支払えば、その分だけ荷物が減るので、馬も4頭くらい減らせたね」

虎吉が笑いながら「その通りです、若殿。あの長者はちゃーんと計算しているんですよ。私らで直接百姓から馬を借り集める訳にはゆかないこともね。米を受け取らなければ、私らは米を運んでゆくしかない。そうすれば馬の駄賃も増え、鉄は、こちらでは欲しい者はいくらでもいて、高く売りつけられる。まさに一石二鳥という奴です」

兄は初めて気が付いたように

「東海道は一本道だから、ああやって蜘蛛のように待ち構えていれば、必ず、獲物は引っ掛かる。それで、あんなに大きな屋敷が造れるんだね」

父は笑いながら「世の中とはそうしたものさ。でも我々はその蜘蛛のおかげで、旅を続けられる」

今日は相模川という川を渡った。それほど大きな川ではないが舟が一艘しかなかった。濡れてはいけない荷物だけ舟で渡し、そのほかの荷を積んだ馬は遠回りになるが少し上流の浅瀬で渡ってから合流することになった。



 まだ日は高かったが馬の一隊を待ちがてら、今晩は小さな川のほとりで宿営する(花水川:神奈川県平塚市、はなみずがわ)。川の後ろにはお椀を伏せたような山があり(高麗山:こまやま神奈川県大磯町)その間は一面の草原だ。人足の一人が虎吉に向かい、

「この辺りは、もろこしが原と申します。夏なら大和撫子(やまとなでしこ)が濃いの薄いの、それは錦を一面に広げたように見事に咲くのですが、今は秋も終わりなのでありません」。

でもそう言われて良く見れば、枯れた草の間には、けなげに咲き残っている撫子の花があちこちにのぞいている。

水汲みから戻った蓬(よもぎ)達はそれを聞いて

「よりによって、もろこし(唐)が原に大和撫子(やまとなでしこ)が咲くなんて」

などと面白がって大笑いした。



寛仁4年10月2日(グレゴリオ暦10月26日 )



 ひたすら砂地の道を歩いた。随分海が近くなったようで時折、潮の香りがする。お天気は雨こそ降らないが、ずっと曇りで暗くこのまま冬になってしまいそうだ。海風が冷たく上着を一枚重ねたが、動いていないと寒い。 父は朝から落ち着かない。実は途中で相模国衙に立ち寄ることになっている。昨日、先触れの使いを出したところ、相模の守様は御在庁とのことで面会に行くことになった。もちろん私たちは近所の六所神社で休憩するだけで、ご挨拶には伺わない。父は、少し手前の休憩の時に正装の衣冠束帯に着替えて馬に乗ったが、気が重たそうだ。

  相模の六所神社まで来たところで、小休止。ここで父と兄、それと三郎は郎党二人を伴い、国衙に向かった。私たちは手を洗い、口を漱いでから相模の神様に旅の安全をお願いする。

 海沿いの道をただ歩き、たどりついた今日の宿りは国府津(こうず)だ。上り下りも、渡るに困るほどの川もなかったので日暮れよりかなり早くに着いた。ここは西富よりは家が多いみたい。どんよりした重い雲がかかる陰鬱な気分を少し軽くしてくれた。旅では人の住む里が一番恋しい。市でも立つのか、開けた広場があり、そこで庵を組み立て始める。

とっぷり日が暮れた頃、父と従者たちが戻ってきた。兄はご挨拶しただけだったので、先に戻っていた。

「いや参ったよ。相模の守様とすっかり話が合って、酒まで出され遅くなってしまった。途中で日が暮れ、松明(たいまつ)がないので、海明かりを頼りにやっとたどり着けた。ここの焚火が見えた時には、我ながら、いい齢をしてほっとしたよ」と庵に入るなりつぶやいた。



 庵の入り口から差し込む焚火の光を頼りに、父は普段着に着替えた。腰を下ろすと、やっとくつろいだ顔になり、改まった顔で兄をそばに呼んだ。

「相模の国には大変な問題があって、相模の守様も随分ご苦労されているようだ」

「何のことですか?」と兄。

「毎年の水害だよ。この国府津、昔は小総駅といわれていたんだが、この前に広がる平野は昔はとてもいい水田で相模の宝だったらしい。南向きで広大、加えて水が豊富とくれば、米がとれないわけはない。ちょうど上総の我らが美田と同じだ。ところが富士の嶺が火を噴くようになってから、もう無茶苦茶になってしまったというんだ」

「富士の嶺というと、灰が田に積もって困るということですか?」

「いや、延暦の噴火(800-802)では確かに足柄峠が埋まるほどに灰が降ったんだが、それはずいぶん昔のことだ。今はそれほど灰は降っていない。今問題になっているのは、昔積もって、山のあちこちにたまっている灰が五月雨(さみだれ梅雨)や野分(のわき台風)のたびに降る大雨で流れ出し、川をふさいで田を押し流してしまうことなんだ」

「つまり大水が出るということですね」

「そうだ。これが毎年の事なら、もうそこに田を作ることは諦めるさ。ところが、普通の年は多少の被害はあっても、そこそこ収穫がある。ところが7~8年あるいは10年に一度ドカッと大きな水が出ると一切合財流してしまう。せっかく堤防を築き直し田を復旧しても、いつまた振出しに戻るかわからない。国司は4年のうちに何もなければいいが、その間に大水が出れば大変だ。現在の税制では決められた額を国庫に納めればいいのだが、もし、災害があって収穫がなくなっても国司(守、介、掾、史)は自分たちで負担しなければならない。しかし、そんなこと実際に可能か?この足柄平野の収穫を当てにできなくなったら、他の郡の収穫を当てるしかないから、ほとんど国司の取り分等なくなってしまうじゃないか。それがわかれば正直、相模の受領などなりたくないだろう」

兄「相模の大水は、これまでのところ大丈夫だったのですか?」

「今のところな。しかし相模の守様はまだ任期が一年ある。今年は何とか過ごせたが来年何があるか分からない。この国でいかに力を尽くしても、一度大水が出れば全て水の泡だ。ここでは気が休まる時など一刻もないとぼやいておられた。同じ受領仲間で気を許し、つい本音が出たのだろう。」

「そうでしたか、父上。私は上総をずっと草深い地の果てと思っていましたが、幸いだったのですね」

 「それはそうと、足柄を越える時には十分気を付けるようにとのことだ。足柄は人一人しか通れない道ばかりで、隊列が長く伸びる、そこを盗賊に狙われるというのだ。帰任の旅は財物を持っているので特に危ない。うちの侍の人数では足りないので、峠越えのために相模国衙の武士(つわもの)を十人程手伝いによこしてくれるそうだ。ありがたいことだ」



関本での夢の一夜、遊女の歌声を聞く



寛仁4年10月3日(ユリウス暦1020年10月21日 、グレゴリオ暦10月27日 )
三人の遊び


 朝というのに、空はどんよりとした雲に覆われて晴れない。こんな天気が四、五日も続いている。山の方に近づくにつれだんだん森が深くなり、風が不気味にざわめき、これほど恐ろしいと思ったことはなかった。関本に着いた時、まだ暗くなる時刻とは思えなかったが、辺りは夕暮れのように暗かった。関本といえば何か村でもあるように聞こえるが、実は何もない。ただ、広場があるだけだ。早々に庵の設営を始めているところに、闇の中から三人の女が現れた。皆あっけにとられていると、

「私どもは、この辺りで旅の皆様に芸をご披露させていただいている遊女(あそびめ)でございます。よろしかったら、私どもの芸をご覧にいれ、皆様の旅のお疲れをお慰めしとう存じます」

一人は五十ほど、一人は二十くらい、もう一人は十四、五くらい。

虎吉が「よかろう、それではこれから火を焚くからその前でやってくれ」というと

「ありがとうございます。それではこちらで」と、私たちの庵の前に大きな唐傘を立て準備を始めた。

「暫くしたら、食事にするから、一緒に食べて、仕事が終わって皆が揃ったところで始めてくれないか」と虎吉が声をかけると、

「それは勿体ないお言葉でございます。遠慮のういただかせていただきます」と年増の女が答える。

例によって焚火が五か所で焚かれ、それぞれの場所で食事がふるまわれた。とはいえ今日は大したものは出なかった。糒(ほしいい)を湯で戻したものと干し魚が配られ、めいめい目の前の焚火で炙ってかじるのだ。



 いよいよ、芸が始まる。いつの間に支度をしたのか、女たちは赤や黄の布を頭から肩にかけ、手には扇を持っている。ゆらめく火に照らされ、その姿は女の私にもあでやかに見えた。庵の前の焚火に、ひときわたくさんの薪がくべられると、炎が大きく立ち上り周囲を昼のように明るく照らした。周りには数十人の人々が居並び開演を待つ。

三人は唐傘と焚火の間に並んで立ち、自己紹介を始めた。

「皆様、私は、昔この辺りでは知らぬ者はないと言われた遊女(あそびめ)、木幡(こはた)の孫にございます。本日は遠方より、この地にお出で下さり深く御礼申し上げます。皆様お疲れのところと存じますが、代々受け継ぎました私どもの芸で多少なりとも、おくつろぎ頂ければ、嬉しゅう存じます」と口上を述べ拍子木を「カラーン」と打つと、二十ばかりの女が扇を片手に中央に一歩踏み出し、歌い始めた。実にきれいな声だ。

歌う横顔を見ると色白の肌に長い黒髪が形よくかかり、顔形も整っている。これはしかるべきお屋敷に奉公しているといっても不思議じゃない、もったいない、などと囁く声がが聞こえてきた。声はこれまで聞いたこともない程、澄みとおって空に昇ってゆくようにのびやかだった。みんな、これは素晴らしいとばかり、そばに寄って来てやんやと喝采し

「西国(関西)の遊女でもとてもこれには及ばんな」等と言ってざわめいた。それを聞くと、

『難波の渡し(の遊女)に比ぶれば…』と、即興で見事に歌い返す。歌は何曲も続き、三人で合唱するもの、独唱、語り等、観客を飽きさせることがなかった。

一刻足らず(2時間弱)で、今宵の予期せぬ出し物は終わった。虎吉が父の傍らに寄り、

「布を半端程つかわそうと思いますが、いかがでしょうか」と言うと、

父は「一端遣わせ」と小声で返し、横にいるママ母さんの顔を見た。少し涙目になったママ母さんも、にっこり小さくうなづいた。とてもきれいな顔をして歌声は比類がない。こんな彼女たちが、一礼して恐ろしい真っ暗な山の中に戻ってゆくのを見送りながら、皆、感動のあまり涙を浮かべ、もっとやってくれればいいのにと思っていることがありありだった。子供の私にはこの宿りを明日引き払うことすら心残りに思えた。ここにいればまた、あの三人の歌声が聞けるかもしれないのに。思わぬ夢のような一夜だった。






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この記事のレビュー ★★★★★ (2)

  • 2022/04/30 タニグチ さん ★★★★★

    楽しく拝読しました、ありがとうございます

    今住んでいる所からサイクリングして、鎌倉時代の渋谷氏の城址の1つ、清色城へ行ってきました。その際に、律令制の頃〜鎌倉時代、どういった交通手段でやって来たんだろう?と思いました。検索していてたどり着きました。
    幼稚園〜小学校と平塚で育ったので、ここから読み入っていました。ありがとうございます。
    2017/09/08 17:35

  • 2022/04/30 海風 kaihuuinternet さん ★★★★★

    郷愁さそう現代語訳に、参りました。感謝。

    この夏、還暦後初の長旅で、JR東日本東北新幹線35周年及び山形新幹線25周年で、米沢・山形~仙台・石巻・南三陸をひとり旅。その余韻の内、千年前に大所帯の移動。まさに、千年に一度の津波、被災地大川小学校跡地訪問等。それらが重なって。当時の東奔西走ならぬ、役職の上意に伴う遠路。大変な事なんですね。そこに現れた芸人たち。彼女たちにとっても、確率的にも、別格の一行客。双方が、その一期一会を、十分楽しみ励ました。大いなる自然の中に、人が居て、出会い、別れる。その切なさが、来ますね。
    ありがとう。
    2017/07/06 23:00

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