更級日記の東海道の旅をもとに平安時代の古地形や文献で平安時代日本を再現
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駿河、横走りの関(関山)での長逗留

悲しい知らせ



寛仁4年10月4日(グレゴリオ暦1020年10月28日)



関山に着いた晩から雨が降りだし、一日降り続いた。私たちには横走りの関、横山長者の屋敷の一室での仮住まいが始まり2日が経ち、ようやく人間らしい生活が戻ってきた。気の毒な話だが、私たち、家族以外の人々は、まだ足柄山の山中で雨の上がるのを待っていた。よりによって山越えの時に降らなくてもと思うのだが、こればかりはどうにもならない。天気が良ければ足柄峠からは素晴らしい冨士の嶺が見えるということだが、このたびは、雲の中で、何が何やらわからないままに山を下りてきてしまった。

雨が上がり、今日から荷下しが始まるはずだった。昼過ぎ外が人声で騒がしくなり

「どうやら、山から荷物が下りてきたたようですよ。姫様たちも庭に出ましょう」とユリが声をかけてきた。

庭に出てみると、確かに人足たちは来ているが、どうも様子がおかしい。

美代次が出てきて

「ああ、どうもご苦労だった。雨が降って大変だったろう」 と声をかけたものの、返事がない。皆うつむき、黙々と荷物を下している。美代次が 不審そうに、年かさの若者に声をかけ

「どうした、何かあったのか?」

「実は、若いのがひとり足を滑らせ転んで死にました」

「えっ、雨で足場が悪かったのか。他にけが人はなかったか?」

「幸いほかに怪我人はいません。死んだ若いのは、力自慢で今日も人より余計にしょっていたんです。下りだから楽だと思っていたんだと思います。頭(かしら)はあまり無理するなと言っていたんですが、きかなかったんです。奴がしょっていたのは鉄鋋(てってい)で、かさはさほどでもないんですが、とても重いものです。雨で濡れた岩で滑って坂道を転げ、止まろうと思って立木につかまろうとしたとたん、頭が木と背負っていた鉄の塊に挟まれて、つぶれてしまいました。」

「それはむごい。では、今日はその片付けで、もう荷物は来ないな」

「いえ、頭(かしら)ともう一人で遺体の始末をして、他の者は予定通りもう暫くしたら着くと思います。私らも一休みしたら山に戻ります」

「遺体は下さないのか?」

「いえ、あの山中では下ろすのも大変だし、下ろしたところで馬もいないので武蔵まで連れ帰ることもできません。それに家族にあのひどい遺体はとても見せられません。着物を脱がして斜面に下し落ち葉を被せておきました。狼がきれいにしてくれるでしょう」

「そうか、可哀そうなことをしたな。とにかく荷を片付けたら一休みしてくれ。わしは殿のお耳に入れてくる。」

午後から晴れ、富士の嶺が姿を現した。空は晴れ渡り冷たい風が吹き抜ける。朝の一団が食事を終えて山に戻って行くのと入れ替わりに、第2陣が到着した。こうして、荷物の山越えが始まった。父と兄も帳面を片手に庭に出て荷物の点検を始めた。不幸があったので、重苦しい雰囲気が漂う。



家の中でじっとしていても気が滅入るので、午後は姉さんとユリとでチビちゃんの手を引き一緒に村の中を探索した。この村は物を作る工房が多い。笊(ざる)や木工品、曲げ物を作っている小屋も多いが、あちこちから「トンテンカン」とか、「ガンガンガン…」という音がする。

「この村は鍛冶屋が多いそうです。山仕事には斧、鉈や鎌、鋸、山刀、それに猟にはたくさんの矢じりが必要でしょう。それをこの村では作っているそうです。」とユリが今朝、村長の妻から聞いた話をしてくれた。

「ひょっとしたら、今朝、亡くなった若者が背負っていた鉄鋋(てってい)とかいうのはそれに関係があるの?」

「そうなんです。あれは、鎌や斧を作るための鉄の地金だそうです。この村は駿河はもちろん相模、伊豆、甲斐の、ちょうど真ん中にあるので、あちこちから人が集まり、鉄製品を買いに来るんだそうです。あの地金はここにやってくる来る商人が持ってくる産物を買い上げるために使うんだとか。商人たちは引き取った鉄鋋をここの鍛冶屋に持って行き、必要な鉄製品を仕入れるそうです」

「そんな重いもの、上総から持ってきたの?」

「いえ、あれは相模に入ってから鼬川と云う処で仕入れたんですよ。弘明寺で出発が一日遅れましたでしょう。あの日に船で運んで来た上総の米を馬に積んで鼬川(いたちがわ)の近くにある「たたら場」という鉄を作る工房に運び、代わりに鉄鋋という鉄の塊を仕入れていたんだと美代次さんが言っていました」

「ああ、そうか相模の渡しで重そうに渡し場の土手に運び上げていたのは、米だけではなくて鉄もあったのね」

村はずれまで来ると、

「あら、あそこに泉があるわ。ちょっと行ってみよう」

姉の指差す先に林があり、岩の間から白い一筋の水が勢いよく噴き出している。目を上げると、上には雪を頂いた大きな冨士の嶺がそびえている。岩壺の形をした泉は街道から少し下がった村はずれにあり、細い流れは村の中に向かって流れている。ほとばしる水に手を出して一口飲んでみる。

「ねえ、このお水冷たくておいしいよ。みんなも飲んでみたら」

みんなで手を出して思う存分、お水を頂く。

「都ではこんな清らかなお水は飲めませんね。さすが不二のお水です、御蔭様でユリも長生きできそうです。」



甲斐の商人きたる



メイン画像:粉河寺縁起絵巻より。絵巻では長者の屋敷に供物を届ける場面だが、近在の商人が産物を持ち込む場面も同様であっただろう。



寛仁4年10月5日(グレゴリオ暦1020年10月29日)



ここの朝は随分冷える。寒くて早くから目が覚める。暗いうちから庭にあるかまどの前では栗女(くりめ)がご飯を炊いている。普段は先輩の蓬(よもぎ)と一緒に炊事をするのだが、、蓬は山の上で賄いをやっているから、今は彼女一人だ。さすがにユリも早起きして心配そうにそっと手助けをしている。炊事自体は栗女の仕事だが、薪拾いや水汲み、その他雑用は犬丸や鳶丸の仕事だ。三人は年齢が近いので仲がいい。仕事をしながら、ふざけあっているのを見ると羨ましい。私も同じ年代だけど、あの輪の中には入れない。もちろん声をかければ話はするが、仲間に対するものではない。そう、私は主家の姫様なのだ。ともかく、寒さに我慢がならず私もかまどを前にしゃがんで、おしゃべりに加わる。

「あら、あかね様、今朝はお早いですね」

「夜明けの冨士山を見たかったの。今日は晴れそうだからきっときれいだよね」

「そうですね。上総では西の方にちょこっと見えただけで騒いでいたのに、ここでは毎日立派な御姿を拝めるんですもの、感激です」

栗女は確か、私より一つ上だが、今度の旅に自分で同道を願い出て、親の反対を振り切って上総を出てきた。栗女は何事にも前向きで見るもの何にでも感激する。ご飯が炊きあがる頃、この宿の内儀が大きな鍋を抱えてやってきた。ユリに向かって

「昨日お話していました、干し大根とアユを炊き合わせたものをお持ちしました。熱いご飯にのせて頂いたらおしいしいですよ。」

「まあ、ありがとう。おいしそうな匂いですね。これはこちらで獲れたものなの?」

「そうでございます。アユは下の川(鮎沢川)で夏にはたくさん獲れます。食べきれないものは開いて塩干にします。生の魚もおいしいですが、干すと旨味が濃くなるというか却っておいしくなります」

鳶丸と犬丸が椀を用意しているうちに納屋で寝ていた侍や人足たちが食事をしに出てきた。昨日の午後峠から下りてきた者達はそのまま、ここに泊まり夜明けとともに出発し足柄峠を越え、向こうに置いてある荷物を取りに行く。

「皆さん、どうぞ支度のできた方から食べていってください。今日は朝から特別のごちそうですよ」

最初に腹巻(鎧の胴)をつけた侍が出てきて、床几の上にどっかと座り、犬丸の差し出す椀を受け取った。

「いい匂いだな、では遠慮なくいただくかな」

と云うなりかき込み始めた。 箸を数回動かすうちに、顔を上げ、後ろを向き

「これはうまい。栗ちゃん、賄いがうまくなったな。これは家でもめったに食わしてもらえんぞ。飯と一緒に大根を噛みしめると絶妙だ。この魚も…、とにかくうまい」

栗女は、恥ずかしそうにしながらも嬉しそうに微笑んだ。そんな栗女はとてもきれい。あの侍は上総から来ていて兄さん役として、同郷の犬丸、鳶丸など若い雑色や女たちに気を配っている。でも今朝の褒め言葉はお世辞ではなさそう。私もお腹が空いてきた。 半刻(1時間)も経たないうちに侍や人足は山に出発した。夜が明けてから私は母屋に戻り身支度をして家族と共に食事を頂いた。

父は兄に向かい

「牛養(うしかい)の話では今日あたり甲斐から商人がやってくるらしい。向こうが何を持ってくるかわからんが、甲斐の産物は大体わかっているから、何をこちらのどの品物と交換するか腹積もりを作っておかんといかん。」

「しかし、父上、あまり漠としていて見通しがつけられないですね」

「もちろんだ。具体的なことは向こうが持ってきたものを見てからの話だが、原則はある。一つは価値の低いものを高いものに替える、二つには重いものを軽いものに替えることだ」

「父上、価値の同じものを交換するならわかりますが、価値の低いものを高いものに替えるえることは、相手が馬鹿でない限り難しくないですか。」

父は声を潜め

「もちろんだ。ここが肝心だが、良いか、物の価値は場所が違えば変わる。つまり都で高く売れるものでも草深い田舎では何の価値もないものがあるんだ。たとえば、甲斐には水晶という石がある。これは都では仏の眼や、数珠の玉のほかいろんな宝物を作るのに珍重される。しかし、田舎ではただの石ころだ。もちろん、こちらの商人でもそれくらいは知っている。といっても、彼らが、それを持って都まで売りに行けるか?小人数で旅をしていたら追剥にやられるか、途中で食い物を調達できなくなって野垂れ死にだ。つまり、奴らもせいぜい、この横走りの関辺りで売るのが一番賢いと知っているんだ。そこに付け込んで如何に安く買い叩くかが腕の見せ所だ。うまくやれば我々は京の都の値からは考えられないはした金で仕入れることができるのだ。」

「こちらでは何が珍重されるんですか?」

「ここにやってくる商人は、甲斐、信濃、まれには越後からもやってくるらしい。山国では、まず塩だ。また海産物たとえば鰒(あわび)など貝類、魚の干物、海藻だ。これがなくては人間生きてゆけない。それから布、鉄製品だ」

「上総から船で持ってきた塩や俵物ですね。それは分かりますが布や鉄などは山国でも作れるでしょう」

「もちろんそうだ。しかし山国は寒さが厳しいので布もたくさん必要だが、人が少ないから機織りも十分できないので、多少粗末でも量が必要だ。武蔵の弘明寺で大量に仕入れた布はここで替えるためのものだ。」

「つまり、上総の米を軽い布に、それを甲斐、信濃の更に軽くて価値の高い産物に替えるということですね」

「そういうことだが、旅はこの後も続く。今後何が必要になるかも分からないから、食い物や必需品と交換しやすいものもある程度持っておかないと、お宝を背負って行き倒れることになる。」

「なかなか難しいですね。」

「まあ、取引の事は虎吉や美代次たちに任せておけばよい。お前は、とにかく記帳をしっかりやるのだ。物と物との交換は難しい。物によって同じ品物でも地域、品質によって交換比率が違い、いちいち計算が必要だ。その計算はお前もやるのだ。検算しないと間違えて思わぬ損を出す。聞いた話では、ここの商人たちは計算にたけていて、こちらが間違えても、自分の得になるなら素知らぬ顔をしているそうだ」

「計算ですか。苦手だなー」

「定義、良いか。受領が無能だと任国の報酬だけに目がゆき民を絞りとるだけになる。百姓達にもえらい迷惑だが、そういうことをすると国が疲弊し、結局自分の取り分も減る。そんなことにならんためには、日頃から報酬を元手に交易して利を得る工夫をせねばならん。だが山勘でやると大体損をする。つね日頃から計算して利があることを確認しながら取引をやるんだ。ま、こんなことは都にいては分からんがな。実のところ、俺も受領になって初めて虎吉に教わったんだ」

「そういえば、虎吉の爺様は母上の父上、陸奥の守様(藤原倫寧)の家司をしておられたそうですね。代々そういうことをしてきたから、商売や数理に強いのですね」

「そうだ、菅原の家系には受領は少ないので、お母さんの里の方から虎吉を世話してもらったんだ。でなければ、上総の受領になっても何もできなかったよ。陸奥の守様(藤原倫寧)は寒い僻遠の地で随分ご苦労なされたが、黄金や名馬の産地でそれを元手に大きな財をなされた」



お昼少し前に、山からの荷物が届き納屋に納められていった。この縦横3丈、5丈ほどもある納屋は村長から借りているものだが、来た時には中は空だった。どうも私たち国司帰任や、諸国の納税の旅のために用意されているものらしい。午後に着く人足や、侍たちはこの納屋の荷物の間で寝て、早朝に出かけてゆく。



午後は爽やかに晴れ渡り、女たちだけで村はずれを出て街道沿いに冨士の嶺が良く見えるところまで散策する。風が少し冷たいが歩いていると心地良い。今日のお供はユリに代わって栗女だ。朝の仕事をさっさと片付け、にこにこして尾いてきた。ママ母さんが

「一人で炊事は大変だね。もう少ししたら蓬(ヨモギ)が山から下りてくるから暫く頑張ってね」

「いえ、大丈夫です。犬丸さんや鳶丸さんが手伝ってくれますから」

「そういえば、あの二人は毎日山に薪集めに行っているけど休む暇もなくて大丈夫かね」それを聞くと栗女はくすっと笑い、

「ご心配には及ばないと思いますよ。二人は仕事の方は山に入るなり脇目も振らず片付けて薪の山を道の脇に置いて、あとは山葡萄を取ったり兎を追いかけたり好きなようにやっているようです。昼寝をしているうちに、お天道様が傾き、大汗をかいて戻ってきたこともあります」

「そうなの。危ない目に合わなければいいけどね…、まだ大人じゃないから」

富士の嶺


見上げると冨士の嶺がある。上総ではちょうど真西に見えていた山だ。この山はとてもこの世にあるものとは思えない。よその山とは全く異なる姿で、山体は紺青を塗ったようで、まるで濃い紺青の着物の上に白い衵(あこめ)を重ねているようだ。きっと雪が消えることもなく降り続けるのであんな風になるのだろう。目を凝らすと頂上の平らな所から煙が立ち上っている。昨日の夕方には火が燃え立っているのも見えた。

ママ母さんは冨士の嶺から立ち上る煙を見上げ

「あの煙の様子では帝の御用はまだ終わらないようだねえ」

何を言っているのかと、ぽかんとしていると、姉さんが

「でも、そう簡単に終わってしまったら、竹取の翁の物語を話すきっかけがなくなっちゃう。ずーっとゆっくりやってもらわなくちゃ」

母さんは、ぷっと噴出して

「確かにそうだね。いまも煙を上げているから、あの煙はこんな訳で立ち上っているのよって、お話ができるんだからね」

やっと、分かったが、栗女はまだぽかんとして

「その竹取の翁の物語ってなんですか。どんなお話ですか?」

「そうね、上総ではあまりしないけど、都では、下人の子でも知っているお話よ。かぐや姫という月からやってきたお姫様の物語なの」

「へえー、私も聞いてみたいです」

「そうね、今度時間があったら、お話ししてあげるよ」

「きっとですよ、楽しみにしてます」



村に戻り暫くしたころ、どやどやと外で音がした。聞きなれない声からすると、どうもうちの荷物ではなさそうだ。ユリが外に出て戻ってくるなり、

「来ましたよ。甲斐の商人(あきんど)の一行が着いたようです。馬5頭に人が7、8人はいます。」

朝の話に出ていた甲斐の商人らしい。兄様はこれから大変だ。商人一行は村の懇意にしている家があるらしく、そこに暫く逗留するそうだ。



取引が始まる



寛仁4年10月6日(グレゴリオ暦1020年10月30日)



外で美代次が誰かと話している。

「この度はよろしくお願い申し上げます。甲斐の国の良きものをたくさん持ってまいりました。」

「こちらこそよろしく頼む。とりあえず、持ってきたものを見せて貰おうか。こちらの荷物の方はまだ半分くらいしか届いていないが、あるものだけでも見てもらって、あるものから取引を始めよう。」

私も興味深々でユリに

「一体何を持ってきたんだろうね。見てみたいね」

「だめですよ。姫様がそんなとこにのこのこ出掛けては」

「取引が終わって品物がこちらの物になれば、ゆっくりご覧になれますからご辛抱ください」



昼下がり、兄が帳面や書類を床一杯に広げ、必死に何か書きつけていた。気になって夕食のあとそれとなく聞いてみた。

「お兄様、お仕事大変そうね。ところで、あの商人たちは何か珍しいものを持ってきた?」

「まだ、僕は品物を見ていないから良くわからない。それより、父上からこちらが持ってきた品物をすぐわかるよう、品名と数を書き出すよう言いつけられているんだ。紙の上半分にそれを書き、下半分はあけておく。取引があればその増減を書き込めるようにね。とにかく品物が同じでも、例えば布でも幅、長さ、産地、品質いろいろあって、書き出すのが大変なんだ。まだ今日のところは互いの品物を品定めしている段階で取引はなかったけど、嵐の前の静けさというところさ。」

 日も暮れかかった頃、午後の荷物が着いた。行列の最後尾に、あの赤牛おじさんと雑色の猪野がくっついてきた。赤牛おじさんは匠(たくみ)の目印でもある六尺の物差しを杖代わりに坂を上ってきた。その後に道具を担いだ猪野が続いたが、下を向き、念仏を唱えながら歩いている。それを見ていた姉さんがあきれ顔で

「見て、あれはまさか、猪野は匠の弟子になったのかね」と笑った。

匠はこれまで、山の仮屋の補修や何やらで山に残っていたが、天気も良くなり、荷物の運搬もはかどっているので、山を下りてきたらしい。もう少しで足柄越えも終わりそうだ。

 



計算に悪戦苦闘



寛仁4年10月7日(グレゴリオ暦1020年10月31日)



お天気は上々だ。気持ちのいい秋晴れの日が続き、納屋には荷物が積みあがっている。昨日の午後の便で虎吉もやってきた。殿方はいよいよ取引で大変だ。食事時もピリピリして父や兄には話かけるのもはばかるほどだ。今日は早いうちから父、兄、虎吉、美代次が連れ立って出かけた。

「そこまで冨士の嶺を見に行ってくる。甲斐の商人(あきんど)が顔を出したらすぐ戻ると伝えてくれ」

姉さんが声を落して 「あれは、作戦会議よ。ここで話すと、牛養に聞かれるから。美代次の話では、あの牛養も普段はにこやかで愛想がいいけど、取引の話になるとガラッと人相が変わるんですって。かなりのやり手らしいよ。商売の相手は商人だけではなく、ここの長者も一枚加わって三つ巴の売り買いになりそうよ。」

 昼もすぎた頃、栗女が外を走り回っている。

「どうしたの?なんでそんなに走ってるの?」

「匠の赤牛様を探しているんです。虎吉様がすぐ呼んでくるようにとのことです。でもそこら中、覗いて見たんですが居ないんです」

「猪野はいないの?いつも匠の尻にくっついているから知っているんじゃない」

「そうですね。猪野さんならさっき水汲みに行ったから聞いてみます」

暫くすると今度は猪野と栗女が母屋の前を走り抜けていった。一体何があったんだろう。

日が傾く頃、父と兄がくたびれた顔で取引が行われている納屋から戻り食事になった。

「やれやれ、やっと一日が終わったな。定義はもう少し計算の修行が必要だな。あれじゃ一つ売り買いするうちに日が暮れるぞ」

「申し訳ありません。割り算が苦手で一つ引っ掛かると、頭の中が真っ白になってどうしていいか分からなくなって…」

「しかし、あの赤牛には感心したな。あんな風采だが、さすが、匠の棟梁だ。算木と布一枚で加減乗除はもちろん、歩合計算まで一瞬のうちだ。髭をひねりながら、なんでもござれと余裕しゃくしゃくだ。上総の役所にも算法上手は居たが、あれ程正確で早いものは居なかった」

「いやあ、来てくれて助かりました。向こうの商人が、こちらではこういう計算になっておりますがと言われて、検算の答えが出せず面目丸つぶれになる所でした」

ははあ、兄は苦手な計算で四苦八苦し、見かねた虎吉が匠の赤牛おじさんを助っ人に呼びにやったのだ。

「でも、あの商人は最初はこちらを見下したような態度だったのが、赤牛殿に『こちらの計算では1割ほど少額になりますが』と言われて慌てだしたのは痛快でした。あとはすっかり、こちらの言い値通りでした」

父は笑いながら、

「算法に通じると取引だけでなく、迷った時に正しい道を選ぶ判断力もついてくる。単に商売だけの事じゃないぞ。大きな声では言えんがな、都に帰れば、昔のしきたりはどうだとか、歌会の題がどうとか、受領にとってはくだらないことばかりだ。今度の旅が終わるまでにしっかり記帳、計算など実務を修行することだ。」

好奇心を抑えきれず、まま母さんまで話に割り込んで、

「ところで定義様、今日はどんなお宝が手に入りましたか?」

「今日のところは、お宝というより予定していた品物です。鹿皮、狐皮、牛革、馬革など獣の皮です。これは僕の眼で見てもなかなか良いものがありました。猪の脂、鹿の干し肉、胡桃(クルミ)油もありましたが、これは旅の途中でも売れそうです。それから最後に出してきたのが、いろんな石です。透明の物、紫がかったもの、赤いの、縞模様があるものなどいろいろです。僕には子供のおはじきにしか見えませんでした。虎吉も『大したものはないが、袋ごとまとめて塩ワカメ一俵でどうだ』というのです。僕にはそれでも高過ぎじゃないかと思いましたが相手は不満気でしたね。」

父はにやにやしながら、これを聞いていて、

「定義は玉石混交という言葉を知っているか?まさに文字通りだ」

兄は驚いて声を上げそうになった。

父は唇に指を当て、小声で

「玉磨かずば光なし…というだろう。京に持ち帰ればどんな値がつくか自分の眼で確かめてみよ」

姉さんも興味深々で、話に加わり

「ところで、物の値段はどうやって決めているの?都の市場なら銭と米、布、絹等、主だった商品は見本があって交換する比率が決まっていて、その他の商品も類推で決めているでしょう。でも、田舎では産物も様々だし、絹をとっても大きさ、品質がまちまちだよね。どうやって取引を進めるの?」

「基本的には都と同じだが、取引を始める前に品物を相互に全部見せあって米との交換比率をあらかじめ決めるのさ。大体、ここで揉めて時間がかかる。決まったら米一升を1として他の商品にその比率を書いた木札を付けてゆく。たとえば大きな鹿皮が米15升、狐皮が2升であったとする。こちらは塩一俵が20升、鉄鋋1個30升を持っている。

大鹿皮2枚と狐皮10枚を買う場合、米で50升の価値だ。これを塩俵一俵と鉄鋋一個 であれば等価になる。もし他の物を買ったりして、端数が出たら米で支払う。こういう商品価値を取引前に帳面に記帳して、それを使って精算する」

「定義様も大変ですね。精算の際に算木を使って検算もするんですよね」と母さんは兄さんに同情することしきり。

「そうなんです。今日のところは、赤牛殿にほとんどやってもらったので助かりました」

「計算と言えば、栗女から面白い話を聞いたよ。猪野は都に着いたら匠の赤牛のところに弟子入りするんだって。ただ、条件があって掛け算の九九を覚え加減乗除を旅が終わるまでに自由にできるようになることだって。歩きながら念仏を唱えていたでしょう。あれは掛け算の九九だったの。それでね、夜、仕事が終わって匠のところに行っては、掛け算の次の段を教わっているんだって」

父は感心したように

「そうか、鳶丸、犬丸、猪野の3人の中では、おとなしくて一番目立たないが、それもいいかもしれん。上総に帰っても田を耕すだけだからな。赤牛の眼にかなうなら支度をして弟子入りさせてやろう」



信濃からやってきた不気味な猟師たち



寛仁4年10月8日(ユリウス暦1020年10月26日)



冷え込みが一段と厳しくなってきた。足柄峠からは既に全員下りてきて、昨日人足達や相模の侍たちも帰って行った。朝の支度をしながら蓬(ヨモギ)がしんみりと山で死んだ若者の事を話してくれた。

「あの人は武蔵からずっと一緒だったんですが、里には、いい人と生まれたばかりの女の赤ん坊がいるんだそうです。それで今度の仕事でたくさん稼いで冬を暖かく迎えたいんだと言っていました。それが、こんなことになって本当に気の毒です。」

ユリが口を挟み、

「その者は、頭はザンバラ髪で垢抜けたとは言えないけど、何か元気がいい、あの若者かね?」

「そうです、見かけはいかにも田舎者って感じでしょう。でも話してみると頭が良くて、仲間の面倒も良く見てるんです。女から見ればちょっと頼もしい人ですよね」

「蓬(ヨモギ)も、ちょっと気になっていたというわけね」

ヨモギは慌てて手を振り

「そんなことないですよ。でもほかの男たちの中では目立ったでしょう。」

 「それにしても残された家族はどうなるのかね。突然もう男が帰らないと言われても病気で亡くなったわけでもなく、信じられるかしら」

「そうなんです。報酬の布は頭(かしら)が届けてくれると思うんですが、遺体は山に埋葬したので、せめて形見に、着ていた衣類くらい返してやろうということになり、私が、血や泥が着いた衣類を洗って持って行ってもらいました。」



その後、取引の方は近在の商人が出入りしていたが、もう概ね終わったようで少しゆったりした気分が漂っていた。ところが、昼過ぎ、外で大騒ぎが始まった。

犬丸が駆け込んできて

「大変です。山賊がこちらに向かっているようです。すぐ家に入り戸を閉めるようにとのことです」

ユリが顔を出し

「何事なの、犬丸、もう少しゆっくり話しなさい」

「なんでも村の者が甲斐の親戚を訪ねた帰り道に、弓矢、薙刀を持った十人以上の盗賊らしき一団を見たというんです。馬も十何頭かいたそうです。全員髭面で恐ろしげな形相だったと言います。峠で一休みしているところで下の方を見ると、街道を上ってくる連中が見え、一目散に村に帰ってきたというわけです。奴らは、今晩真っ暗になったところで村を襲うつもりではないかと言っていました。これから村の木戸を閉め、村の男たちと、上総の侍で守りを固めるそうです。」

「それは大変だ。侍たちが戻っていてよかった。姫様方、早く戸締りをしましょう。蓬に栗女、それから犬丸あんた達3人も母屋に入りなさい。早くみんなを呼んで来て」



いつかこんなことが来るかもしれないと思っていたが、いよいよやってきた。どうなるんだろう。外では男たちの怒鳴り声や弓の弦を鳴らす音もする。父や兄は外で何をやっているのかしら。女たちだけでは心細い。

一刻(2時間)ほども経ったかしら。暫く音がしなかったが何やら、また外で騒ぎ声が上がる。まだ暗くなってはいないが、いよいよやってきたのかしら。どうしよう。みんなで部屋の隅に固まっているが、皆、足が震えてる。

 壁に耳を付けていた鳶丸が、

「笑い声が聞こえます。どうも、盗賊が襲ってきたのではないようですよ。ちょっと外に出て見てきます。」

息を切らして戻ってきた鳶丸は

「皆さん、大丈夫ですよ。やってきたのは、信濃から来た猟師と山師、馬飼の博労です。ものすごい恰好してますが、怪しいものではないそうです。ここの横山長者の知り合いで取引のために、はるばるやってきたそうです。」

それを聞くなり、腰が抜けてしまった。みんなも顔を見合わせ笑いがこみ上げてきた。



今日は少し夕食が遅れた。兄は帰って来るなり、

「今日は長かった。3日経ったような気分だよ。でも持ってきたものもすごいんだ。毛皮はもちろん、連れてきた馬の半分は売り物だ。干し肉とか矢羽など山の産物。山師はメノウなどの貴石類それに黄金も持ってきたらしい。」

父が口を挟み、

「商人の長旅は盗賊に狙われやすい。特に黄金を持っっているとわかったら、餌をぶら下げて狼の前を歩くようなものだ。だから自分らも武装して、山賊のような恰好で旅をしてきたわけだ。猟師と山師は普段は別々に仕事をしているが、産物を売るときには仲間を募ってまとまって旅をする。でないと一年かけて稼いだものを奪われかねないからな。」

「父上が、ひとしきり取引が終わったのに出発しようとなさらなかったのは、ひょっとしたらあの山師たちを待っていたのですか?」

「もちろんそうだ。しかし、あんな山賊姿で来るとは思ってもみなかった。正直俺も腰を抜かしたよ。それに来るかどうかも分からないし、もう数日待ってみるつもりだったんだ。」

「明日の取引が楽しみです。ですが検算の事ですが、明日も赤牛殿を頼んでもいいでしょうか。記帳と検算の両方をやると頭がこんがらがって間違いが多くなるので…。」

匠の赤牛おじさんを兄はいつの間にか「赤牛殿」と呼ぶようになっていた。父は苦笑しながら 、

「まあ、いいだろう。お前も赤牛に弟子入りするか?」

赤牛おじさんはこの村に着いてから、村長の弟が今度家を建てるので、その相談に乗っている。この田舎では、地元の匠でも小屋のようなものは建てられるが、屋敷や寺社と呼べるものは難しいという。地元の匠に無理にやらしても何かみすぼらしいものしかできないとか。それで、たまたま京から来た匠が通ると、引き留めて図面を書いてもらうのだという。

兄は話を赤牛おじさんのことから、話題を変えさせるように  

「ところで、黄金は何で買うのですか?信濃の連中は何を欲しがっているんですかね?」

「とりあえずは米、布、塩、海産物、鉄だろうが、どれをどの位欲しいかは相手の事情にもよるのでわからん。明日、虎吉、美代次がどんな取引をやるのか、やり方をじっくり見ておくのだ」



出発の準備

朝から女たちは総出で旅の準備を始めた。糒(ほしいい)作り。ユリと姉さんは冬の上着の仕立て。少年3人組は庵の補修や工具、刃物類の手入れ。草鞋編み。縄ない。ママ母さんは帳簿の清書。皆大忙しだ。でも、どんなに急いでもあと数日はかかりそう。

日が暮れるのが早くなり早めに夕食をとった。今日で最後の取引が終わり父や兄もほっとした様子だった。

「殿、今日はいかがでした?お取引は上々でしたか。」

「大体こちらの目論見どおり運んだかな。こちらに持ち込んだ物資の残りはほとんど黄金と馬に変わったというところかな。これで残りの旅が楽になる」

「馬は何頭お買いになったのですか?」

「馬の事では手を焼いたが六頭だ。葦毛の斑(ぶち)、栗毛、鹿毛の斑、黒栗毛、連銭葦毛、黒毛とみんな毛色が違うので見分けやすい。源蔵と藤太が実際に鞍をつけて騎乗したが、侍が乗る馬としてはいまいちのようだ。体格はそこそこだが、乗馬としての調教がなってないというのだ。荷物を運ぶ馬としてなら馬体が大きい分だけ力があるので駄馬の2、3割増がせいぜいだろうというんだ。」

兄が口を挟み

「あまりいい買い物ではなかったかなあ。たとえば三郎が乗っている馬は上総ではいくらぐらいするのですか?」

「実際にいくらで手に入れたかは知らんが、侍が騎乗する馬は駄馬の2倍らしい。虎吉が駄馬の2割増しでどうかと言ったら、あの馬主、顔を真っ赤にして怒り始めた。いろいろ言っていたが最後に、

『わしら家族の生活は馬の売り上げにかかっているんです。家族十五人が、借金を払い、これから一年食っていくためには、その値段ではあんまりです。一生懸命大事に育てて来た馬達に対してもあんまりです』

と泣き落としにかかってきた」

ママ母さんが

「で、結局おいくらでお買いになったのですか?」

「二人が争い疲れた頃を見計らって、『今手元に残っておるのは虎吉が言うように米二十俵、鉄鋋三十丁布二十端だけだ。それに旅の用にとっておいた上総の上等の塩を二俵付けるがどうだ。それでもだめなら残念だがこの話はなしだ』と言ったら、やっと承知した」

「私には値段が相応かは良くわかりませんが、でも何か、ずいぶん安いお買い物のようですね」

父はにやにや笑いながら

「元気で京まで連れて帰えれればの話だが、一体いかほどになるか、後のお楽しみというところだ。源蔵の言うことはたぶん正しい。しかしだ、都のお大尽達はどうお考えになるかな。フッフッフ」と意味深だ。



今日の夕食には猪汁が出た。村の猟師が持ってきた猪一頭分の肉と横山長者の家で作っている大根と里芋、ネギを入れて煮込み塩ワカメで味付けされていた。猪肉は体が温まるらしい。生まれて初めての猪汁でおっかなびっくりだったが、正直こんなにおいしい汁は始めてだった。今夜は温かい食事をたっぷりいただき、ゆっくり休めそうだ。






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