更級日記の東海道の旅をもとに平安時代の古地形や文献で平安時代日本を再現
文字サイズ

病気で旅を中断して天竜川河畔の仮屋にとどまる

旅に病みて夢は枯野をかけめぐる



寛仁4年10月18日(グレゴリオ暦11月11日)

  朝、目覚めるとけだるい。お天気はまづまづのようだが身体が重い。

村長の家に泊めてもらった。中は結構広くその一角を私たち家族に空けてもらった。昨夜は夜具をほとんど全部持ち込んで寝たので寒くはなかったが、この家の赤ん坊が夜中に泣き出して眠れなかった。

   身支度を整え、いつものように、お日様が上るころに出発。少し坂を上るとずっと野原(権現原)が続いている。今日はここを歩き抜けるのだそうだ。一刻(2時間)ほど歩いたところで、小休止。道端に座り込むと体が重く体も熱っぽい。水を一口飲むと、意識がもうろうとなって、その後のことは覚えていない。姉さんが何か叫んでいる…。


「茜さん、どうしたの。大丈夫? あ、熱があるわ。ユリ、父上を呼んできて」

「殿、大変です。茜様が気を失って倒れられました」

「お父様、今朝から、元気がなくて、ふらふら歩いていたんです。昨日、川を渡って身体を冷やして風邪を引いたんじゃないかしら」

「とにかく、ここで止まっても仕方がない。輿を空けて、それで連れてゆこう」



  このような次第で茜こと菅原孝子は輿に乗せられ旅を続けます。虎吉は孝標と相談し、その日は菊川という流れのほとりにとどまり、早めに宿営の準備を始めます。孝子の意識はすぐに戻りましたが、熱は上がっているようです。この場所には宿を借りる集落はなく、風が漏れる庵で一晩を過ごさねばなりません。とはいえ、これから病人を伴い、さやの中山を越え、次の宿泊予定地の横尾駅家趾までは少し無理な行程です。仮に無理をして日暮れまでに着いても、宿営の支度に十分な時間が取れません。これまで輿を使って荷物を運んでいた雑色4名が孝子を担ぐことになるので、その分は他の者が余分に担がねばなりません。たった一人の病人が出るだけで旅の計画は大きく狂います。



  平安時代までは菊川には集落や宿泊施設はありませんでした。鎌倉時代に入ると宿場が設けられます。初倉駅から一日で現在の掛川まで達するのは多少無理があったからでしょう。建久元年(1190年)源頼朝上洛の折にはこの菊川に投宿します。その後、菊川宿は承久の乱の戦後処理(承久3年1221年)で捕らえられた上皇の側近、葉室(藤原)宗行が残した漢詩で有名になります。葉室宗行は宿の柱に下の詩を書き残した後、富士山麓、藍沢(御殿場市)で首を打たれました。

  昔は南陽県の菊水 下流を汲みて齢を延ぶ

  今は東海道の菊河 西岸に於いて命を失ふ



寛仁4年10月19日(グレゴイオ暦11月12日)

(虎吉)「殿、とにかくこの山中ではどうにもなりませんので、すぐにでも横尾駅家まで下りましょう。まづいことに、ユリさんも今朝から咳が出て喉が痛いと言っています。この上何人も病人が出たら旅どころか、途中で立ち往生してしまいます」

(孝標)「そうだな、出発して、もう一と月以上になる。都まであと半分だ。皆も疲れが出てくるころだ。寒さも厳しくなったので、まづは夜、寒さをしのげて、ゆっくり休める場所を探そう」

(美代次)「これから”さやの中山”に上がってしまえば、あとは下るだけです。ただ、初倉で聞いた話では、横尾駅はもちろん、その先の見付国府にも宿になるような建物はないそうです。実際に現地に行って見ないことには段取りがつけられませんので、私が先に様子を見に行ってまいります」

  菊川から坂を登ったところに「さやの中山」がある。ここは奈良時代からの歌枕だ。この場所について古今集に次の歌がある。

甲斐がねを さやにも見しか けけれなく横をりふせる 小夜の中山』(古今集1097、読み人知らず)

(甲斐の山々をはっきりと見たい、なのにお構いなしに横たわって視野を遮るさやの中山よ)




(継母)「普通は坂を上って峠に出れば、見晴らしがよくなるものだけど、この『さやの中山』は逆に深い森に入ってゆくようね。中山は元は長山と言っていたと聞いたよ。これでは駒ケ根が見えるどころではないね」

(姉)「そうね。でも北の方には木々の間からチラチラと遠くの山がのぞいているじゃない。ちょっと清々しいよね。だから『さや(清)』の中山というんじゃないかしら」

(継母)「この場所で、そういうことを考えながら古今集の『甲斐がねを さやにも見しか けけれなく横をりふせる小夜の中山』を読むと初めて意味が分かるね。都では何のことかわからない」



  お昼前に昔、横尾駅家があったという集落に到着した。先に出発していた美代次が出迎え

「お疲れ様です。早速ですが、こちらで聞いた話では、ご覧の通り穴屋(竪穴住居)が3軒と作業小屋(平屋)が4棟しかありません。とてもうちの人数が居候できる余地はありません。殿のご家族だけは宿を頼みますが、残りは庵を張って野営するしかありません」

「困ったな、それでは、休むどころか、この寒空で野宿同然か」と虎吉は腕組みをしてしまった。

「それで、今晩は仕方ありませんが、村の者がいうには、この先の天中川まで行って仮屋を建てたらどうかというのです。それも最初から作る必要はなく、昨年どこぞの納税使の一行が足止めを食って、その時作ったものがあるそうです。屋根は落ちているが、少し直せばすぐ使えるのではないかというのです。広さも馬を入れても納まる程の大きさがあったそうです」

「それはいい話だ。明日、手の空いた者を全員連れて行って取り掛かってくれ」



天中川河畔に仮屋を建てる



※タイトル画像に描かれた土の仮屋は管理人の想像の産物である。そのような遺跡、文献は発見されていない(念のため)。



寛仁4年10月17日(グレゴリオ暦1021年11月13日)



  仮屋建設隊には孝標の息子定義も加わった。本来ならこのような作業に若殿が加わることはないのだが、若い定義は何もない村でじっとしているのは苦痛だった。

建設隊は早朝に出発し、見付を経て一刻半(3時間)で到着した。見付で天中川の仮屋趾を知っている男を道案内に頼み同道した。現場は天中川の土手の上でとにかく風が痛い! 土手の下には侍の藤太を先頭に道具や宿営資材、食料を積んだ馬が続々と集まってきた。もう行列が終わったかと思った頃、一人の男と子供がよろよろと辿り着いた
。匠の赤牛と弟子志願中の猪野だ。今日の建設作業の主役だが、どうも昨日から体の具合がよくないらしい。

   仮屋の趾は土手を少し降りたところにあり、大きな窪みには草が生い茂って、いわれなければ誰も気づかない。匠の赤牛はあえぎながら尻を猪野に押されて上ってきた。
その草叢を一目見るなり、

「とにかく草を刈ってくれ。どうするかはそれからだ」と言って土手を下り木の下にへたり込んだ。

(藤太)「鳶丸、川から水を汲んできて皆に、水をやってくれ。そのほかの者は馬の荷物を下ろし、草刈りだ。この辺全部刈ってくれ。馬の担当は河原に下りて水を飲まし、ついでに屋根に葺く葭の苅場の目星をつけといてくれ」

美代次と兄は地元の男を捕まえ

「この辺の渡し場はどこだ?舟は毎日出ているんだろうか?」

「渡しはここから少し上流です。雨風がひどくなければ毎日出ますが旅人が少なければ出ないこともあります。前司様のご一行などは目立ちますから、先触れがなくとも、ご案内の者がやってきます」

「これから仮屋を建てるんだが、縄とか筵(むしろ)をまとめて仕入れられるところを教えてくれないか」

「それは見付の長者のところで揃いますよ。馬に食わせる雑穀もついでにお求めになったらいいですよ」

(定義)「ところで見付には国府はないのか?今朝、通ったときにはそれらしき建物は見えなかったが…」

「昨年の野分でお館が壊れ、国司様は今は他の場所においでとのことです。手前は詳しくは存じません」



  草刈りの終わった土手には長方形の窪みがあった。幅は10丈(30m)、奥行き2丈(6m)くらいもあろうか。赤牛はじっと穴を見つめていたが、

「穴の底に積もった土を掘り上げてくれ。多分、丸太が転がしてあるか、硬い土の面が出てくるから、そこまで掘り上げてきれいにするんじゃ。穴を囲うように立っている柱をよく調べ腐っているものは抜いて代わりの柱を立てる。横木はまだ腐っていないようだからそのまま使う。穴に落ち込んでいる垂木も使えるものは利用する。不足の柱は近くにある木を切り倒して丸太に加工する。屋根、壁を葺く葭は河原で刈ってきて木工事と同時に進めてくれ。屋根を葺く葭の束は縄でしっかり固定する。この上に土盛りすれば外の工事は終わりじゃ」

ここまで言うと赤牛は足元にへたり込んでしまった。藤太は赤牛を助け起こしながら、

「わかった、仕事は俺たちに任してくれ。おい猪野、師匠を頼むぞ」

藤太はてきぱきと人々を穴を掘り上げる”土木班”、丸太を用意する”伐採班”、葭を刈り取り採る”河原班”の3班に分け仕事に取り掛かった。鳶丸と猪野は赤牛おじさんを風が当たらない茂みの陰に寝かせ、傍で飯を炊き始めた。作業をするときは飯を食べさせないと力が出ない。



食事をはさんで2刻(約4時間)あまりで太陽は傾きかかってきた。男たちは日没に追われるように奮闘し、屋根には葭束が載せられ仮屋の形ができ上っていた。この仮屋は川の土手の中に半分潜った穴屋である。最終的に屋根、壁は、入口を除いて土で覆われる。建物というより土の山に見えるが中に入ると風は完全に防がれ暖かい。床には丸太が転がしてあったが、意外と湿っておらず、屋根用に刈ってきた葭の束の残りを敷いて筵(むしろ)を敷けば寝心地は悪くなかった。



丁度、この頃、源造を先頭に孝標の本隊が到着した。行列の輿が2丁に増えている。乳母のユリも病に倒れて歩けなくなった。仮屋は人の入る部分だけは葭の屋根が葺かれていたが、馬小屋の部分はまだ青天井だ。藤太は蓬と栗女を呼んで出来たばかりの仮屋の中を見せ


「疲れているところをすまんが、急いで姫様とユリ様のお休み場所をしつらえてくれないか」

仮屋の周辺では馬たちが積み上げられた刈草を食べている。一方、人の方はつらい旅に仮屋の建設作業まで加わり、空腹も限界に達していた。男たちのわづかな楽しみは食事だけだ。先ほど、少年たちは突然虎吉から、今日の食事作りを任された。しかし少年たちは何をどう作ればいいかわからない。思い余って仮屋の内装をやっている蓬に泣きつくと、蓬は虎吉に蒲原の浜で仕入れた塩のきいた干貝を一カマス使う許しを得てきた。干貝の炊き込みごみご飯に、今日、見付でもらった青菜とネギを刻んで散らして、それらしきものが出来上がった。夕闇迫る中、風は冷たさを増したが、今宵ばかりは棟上げの祝いとばかり、暖かいご飯が腹一杯ふるまわれた。仮屋は土盛り作業を残し、人の住む部分はとりあえず寒い思いをせずに宿泊できるまでになった。匠の赤牛は少しばかり食事をとったが、早々に出来たばかりの仮屋の奥に寝かされた。



天中川河畔にて旅の中休み


寛仁4年10月20日(グレゴリオ暦11月13日)


旅の一行は今日は夜が明けるまでゆっくり眠ることができた。少年たちは虎吉から食事の支度は明るくなってからでいいと許しが出ていた。もっとも水汲みに行くにも天中川の河原まで崖を下りなければならないので、明るくならないと足元が危ない。一昨日来の疲れもあり、皆正体なく眠りこけていた。河原には相変わらず冷たい風が吹き荒れているが、半地下に設けられた仮屋の中は人いきれで暖かかった。

   鳶丸が外に出てみると仮屋の屋根には臨時の天幕がかけられていた。食事のあと、仮屋の仕上げが始まった。仮屋の周りに堀上げられていた土が屋根に上げられ踏み固められてゆく。表面に現れている壁も土で覆われる。こうしてお昼前には仮屋が完成した。崖上(河岸段丘の縁)から見下ろすと土の山にしか見えない。

外では虎吉と源造、藤太が話し込んでいる。


(藤太)「泥屋根はそのままだと雨で流れてしまうんで、普通ならこの上に萱を葺きますが、どうしますか?」


(虎吉)「いや、それには及ぶまい。天気も暫くはもちそうだし、姫様はお若いし、そろそろ回復なされるだろう。とは言ったが、心配なのが赤牛師匠だ。だいぶ弱っているし齢も齢だし、いつ悪くなるかもしれん。それにユリ様もお若くないし。さて、どうするかな」




(源造)「馬は外に出してその間に床に葭を敷いてやりましょう。こんなに風が強いところだと馬も身体を痛めます。これを作ってくれた納税使には感謝ですな。馬小屋まで作ってくれて助かりました。これがなかったら、馬の何頭かは死にかねません。侍達には今日はとりあえず葭刈りと馬の世話をさせておきます」




 

女たちも大変だった。孝子だけでも大変なのに乳母のユリまで寝込んでしまった。まだ幼い芳麿の世話はユリがしていたが、今は栗女がやっている。孝子やユリの看病は蓬がしているので、食事作りは少年三人組に回された。少年たちは水汲みや薪集め、食材の下ごしらえ、給仕、片付けなど雑用を全部引き受けていたので、飯を炊くだけならともかく、調理などどうしてよいかわからない。この時代に料理という概念はなかったが、食材をおいしく調理しなければいけないことは今と同じである。炊事係がまづい食事を出し続けたら、恐ろしいことが起こる。はしため(婢)にすぎない蓬と栗女でさへ毎日それなりに、手持ちの食材をいかに調理するか頭を悩ましていた。少年たちはそれを知っているので毎日厳しい労働をしている男たちの拳骨が怖かった。鳶丸は孝子が倒れてから毎朝、蓬にお伺いをたて、その日に作る食事を決めるのだが、米以外の食材といっても乾物くらいしかない。近くの農家を回って野菜や漬物を分けてもらえた時は肩の荷が下りる気分であった。おいしいものがない時代には漬物のひとかけでも食事は引き立つのだ。



 



三人の容態とその後の経過



  仮屋ができて翌々日には孝子はかなり回復し食事もとれるようになった。朝、目が覚めると周囲は真っ暗である。

「ここはどこ?夜なの?」とおびえていたが、傍で夜具を整えていた栗女が

「茜様、ここは天中川の川っ縁に作った仮屋の中です」と声をかけると

「旅はどうなったの? みんなどこに行ったの?」

「ユリ様はお隣にお休みです。他の方は外でお食事されています。姫様もお腹が減っていらっしゃるでしょう。お持ちしますね」

「そう、私、夢の中でずっと枯れ野の中を一人であっちへ行ったり、こっちへいったり歩き回わっていたのよ。よかった、もう戻れないかと怖かった」

「では、お食事をお持ちしますね。すぐ戻って来ますからお待ちください」

目が慣れてくると、入口から漏れる光でぼんやりと中の様子が見えてきた。

「お食事をお持ちしました。暫くここに逗留するそうです。この仮屋は結構暖かなのでゆっくり休めますよ」

「奥のほうで、何か寝息がするけど、誰か居るの?」

「あれは匠の赤牛師匠です。あのおじさんも具合が悪くなってしまったんです。おとといから寝込んでいます。これ以上病人が出ても困るので、殿が少し休もうとおっしゃたのです。それはそうと、姫様、ここで京まであと半分だそうです。よく来ましたね」

傍で、目を覚ましたユリが起き上がり、

「姫様、すみません。私まで倒れてしまって」

「ユリも疲れたのよ。栗ちゃん、ユリにもご飯を上げて」

「はい、ちゃんと、ご用意していますよ。どうぞこちらから。それから、このご飯はあの三人組が作ったんですよ。蓬姉さんの手を空けるために虎吉様がお命じになったんです。でも、結構おいしいですよ。フフフ」



  かくして菅原家一行は天中川(天竜川)河畔の泥の家で、現代人が心配するほどのこともなく暖かく過ごし、三人の病気も回復した。外では、秋が終わり冬の強い風が川面から吹き上げていた。


 


前のページ「駿河なる蔦の細道をたどる」へ戻る

 

カテゴリ一覧

ページトップへ

この記事のレビュー ☆☆☆☆☆ (0)

レビューはありません。

レビューを投稿

関連記事