天竜川(天中川)を渡り遠江を行く
寛仁4年10月25日(グレゴリオ暦11月18日)
川風が強い。巻き上げられた砂が顔に当たる。今日からまた旅が始まる。穴蔵の中で休んでいる間に、外はすっかり冬になっていた。今、外に出て仮屋を眺めて見ると本当にモグラの穴だ。よくも、こんなところに何日も潜っていたものだ。東の空が赤黒くなってから、人々は河原に下り始めた。何日も寝ていたせいか、足がふらつき以前の感覚が戻らない。
(1)天中川を渡る
河原に下りると、川岸には、これまでよりも少し大きめの舟が2艘つながれていた。馬たちは先に下りて草を食んでいる。崖の上からは続々と荷物が下され積み上げられた。
虎吉が駆け寄ってきて、
「ご家族は最初の舟でお渡り願おうと思います。犬丸と栗女も同道させますので、向こう岸でごゆっくりなさっていてください」
「姫様、よかったですね。またお供させていただきます。だんだん京の都が近づいてくると思うと、私胸がわくわくして来るんです」
栗女は足踏みしながら、白い息を吐き吐き張り切っている。 河に漕ぎだすと舟は滑らかに進まない。冬は水が少ないので、浅瀬があちこちに顔を出すので、水の深いところを探すように舟を操るのだとか。
河を渡り土手を越えた風の当たらない窪地でみんなを待つことになった。犬丸は枯れ木を集め、栗女は五徳に鍋をかけ湯を沸かし始めた。犬丸は少し離れた所にも枯れ木を積み始めた。
「あれは炊事に使うの、犬丸」
「いえ、これは、みんなが荷物を舟に積み下ろしする時、どうしても川に入らねばなりません。河の水は冷たくてすぐ、感覚がなくなってしまいます。それで、時々足を火にあぶって温めるんです」
そうこう言っているうちに、荷物を担いだ人足たちが
「寒い、寒い」と言いながら、荷物を下ろすなり、火の回りに座り足をあぶり始めた。 今日は昼近くまで荷渡しにかかるらしい。寒さが体の芯に届くころ、どたどたと地響きがしたかと思うと侍が馬の轡を持って、駆け込んできた。
「川に落ちたんだ、犬丸、なんか筵かなにか馬の身体を拭くものはないか」
見れば侍も馬もずぶ濡れだ。
「川の真ん中あたりで浅瀬に乗り上げ、馬がもんどりうって水に落ちたのよ。馬は何とか体勢を立て直して泳ぎ始めたが、この冷たい水じゃすぐ、くたばってしまう。俺も川に飛び込んで手綱をとって川を渡ったんだ。幸い水が少なく、背が立つので助かった」
侍は自分もしずくを滴らせながら、犬丸が差し出した筵を丸めて馬の背を拭き始めた。犬丸が焚火に枯れ木を足して炎が大きくなると、馬の背から湯気が上がる。
馬の背をこすりながら
「早く乾かさないと、冷え切って死んでしまう」
父が近寄り
「大変なことだったな。よく助け出してくれた。礼を言うぞ。お前も早く着替えないと風邪をひくぞ」
と言いながら、足を乾かしていた人足に向かい、
「おい、お前たち、芳太郎と代わって馬を拭いてやれ」
<余談>
上の渡船の図は『西行物語絵巻』(日本の絵巻、中央公論社)所収の一場面である。
場面は天竜川の渡しで、満員の舟に乗り込んできた武士に下舟を強要された西行が鞭打たれても無言で血をぬぐい怒ることがなかったという、故事を描いたものである。
『十六夜日記』ではその故事を取り上げ、以下のように述べている。
『廿三日、天竜の渡りといふ、舟に乗るに、西行が昔も思ひ出でられて、いと心細し。組み合せたる舟たゞ一にて、多くの人の往来に、さし帰る暇もなし』
この絵で注目すべき点は
①鎌倉時代には板を接合した”構造船”が出現し、舟の大型化が可能になった。「組み合わせたる舟」とは構造船のことで、絵巻では明らかに十六夜日記の記述を参考にしている。
②馬の輸送では二人掛かりで馬を押さえ一人は、袖で目隠しをして水を見せないようにしている。馬が水を嫌う動物であることによる。
(2)引馬の村
渡し場から先は砂地の原をただ歩く。砂が舞い上げられ顔に当たり目を開けていられない。今日の宿は引馬と言って古くからの村だという。私たち家族は村長の家に泊めてもらう。他の者たちも村のあちこちの家に分宿させてもらった。村長の家には火が起こされ暖かくしてあった。早速兄と美代次は村長と商談を始めた。
天中川で逗留したので食料が残り少なくなっていた。
「まづ、欲しいのは米だ。それから乾し大根、蓮根、小豆、大豆など豆類。それと馬の餌用に粟、稗、干草などだ」
「ほとんど揃うと思います。で、お支払いはなんでお願いできますか」
「絁(あしぎぬ)でどうだ。極上品があるぞ。一端で替えるられるだけ仕入れたい」
いつもと同じような、やり取りをして取引は続いた。
食事がすみ、くつろいでいるところに村長が現れ、よもやま話を始めた。
父が、
「久方ぶりに、うまいものが食べられた。昨日まで天中川の仮屋でモグラ生活よ。 ここは、飯も柔らかくてうまいし、ゆり根も久しぶりに食べた。いや、ありがとう」
今晩の食材は村長の提供だ。いい材料を見ると蓬の目の色が変わる。腕によりをかけて調理してくれた。
「ところでこの村は家も多いし、実りが相当よさそうだな」
村長は言いにくそうに、
「幸いなこと、この数年大きな災害がありませんでした。何もなければ税はそんなに高くありません。遠江のお役人には内緒ですよ。 御蔭様で分家して新しい家を建てることもできるようになりました。それから、ここは旅のお方がたくさん通られますので、宿専用の棟を用意しています。 でも前司様、昔の村はもっと南の田んぼの真ん中にありましたが、古い村は今ほど豊かではなく、年中、水害に遭って苦労していたそうです。場所はここから少し南の伊場に在ったということですが、今は水田になっています。野分や五月雨が来なければ、田んぼに近く仕事がしやすかったそうです。ところが年々、村が水浸しになることが増え、流されるようになったというのです。村を引っ越すということは大変なことなので、何年ももめた挙句引っ越すことになったそうです。それがこの引馬です。ここは周囲より少し高く水がつくことはありません(現在の浜松城下)。この場所は東西に東海道、北は信濃、美濃に通じています。御蔭さまで、ここで獲れない産物もやってくるので、取引での収益もあります」
「この場所に引っ越したのは、いつの話だ?」
「はっきりしたことは存じません。相当前の話です。ただ伝え聞いていることは、 一度に引っ越したわけではなく、引っ越し派が抜けた後も古い村は残っていました。 分村した十年後に大きな野分が来て移転反対派の主だった者が流されてしまいました。 生き残った者は詫びを入れて新しい村に住むことを許されたそうです」
浜名の入江
寛仁4年10月26日(グレゴリオ暦11月19日)
今朝も暗いうちに出発した。暫く丘の裾に沿って歩き、海岸に出た。浜には灰色の海から大きな波が押し寄せてくる。ひたすら今日は海岸伝いに歩くそうだ。足が冷たいので足袋を履いて草鞋を履いている。風が冷たいので、ひたすら身体を動かしていないと寒い。御蔭で今日は早めに浜名の渡し場に着いた。4年前にここを通った時には、たしか、黒木の橋があった。今は橋がなく渡し船で渡る。振り返ってみると、ここは入江になっていて川で外海につながっている。外海の波が浜辺に押し寄せ、こちらから見ると散った波が水玉のように浜に生えた松のてっぺんを越えてくる様はとても面白い。入り江にはあちこちに洲があるが特に変わったものが生えているわけでもない。
浜名川を渡ってすぐの山蔭に猪鼻駅、いや、駅家の趾にある村に着いた。ここに十軒ほどの漁師の村がある。これが今日の宿だ。今晩泊めてもらう網元が出迎え、
「お疲れ様でございます。よくお出で頂きました。あいにくこんな季節でお寒かったでしょう。今日はこんな灰色の景色ですが、春から夏にかけてはこの入り江の美しさといったら地元の我々でも毎日ため息が出る程です。ともかくどうぞお入りください」
夕食には新鮮なブリのお刺身が出た。振り塩をしていただくと旨味が出て箸が止まらない。これは、この家のおかみさんが折敷いっぱいに捌いてくれた。ワカメとアワビのお汁もおいしかった。
おいしいものを食べてお腹がいっぱいになると、あとはお愉しみ、おしゃべりの時間だ。まま母さんが
「ねえ、今日渡しで舟を待っているとき、外海の波が浜に生えた松よりはるか高いところまで波しぶきを上げていたでしょう。 あれを見てある歌を思い出したの」
『君をおきてあだし心をわが持たば 末の松山波もこえなむ』(古今集 東歌 詠み人知らず)
姉さんが、「末の松山?、私こんなのも聞いたことがあるよ」
『契りきな形見に袖を絞りつつ 末の松山浪こさじとは』(後拾遺集 清原元輔)
「末の松山?それはどこにあるの?」
「陸奥の国よ。昔そこでとても恐ろしいことが起こったというの。地震なら上総でもちょくちょくあったけど、そんなものより、比べ物にならないくらい激しく震って、陸奥国府の多賀城までもつぶれてしまったの。そればかりか、暫くして真っ黒い海が大きく盛り上がって押し寄せ、人、牛馬はもちろん田も畠も村もみんな飲み込んで海に引きさらっていったというの。後には草木一本残らなかったそうよ。そんな時多賀城の近くにあった小山だけは水に飲まれなかったらしいの。そこには松の木が生えていたので、「末の松山」といって、今でも陸奥国府の近くにあるそうよ。(貞観津波)」
「でも本当に、そんな大きな波が押し寄せることってあるのかしら?大げさに言っているということはないかしら」
「確かに清原元輔様は時代がずっと後だし、陸奥の国にいらっしゃったことはないので末の松山という言葉も「技巧」でしょうね。でも古今集の東歌の方は、本当にそれを見た人か、体験した人から聞いた人ではないかと聞いたわ」
「末の松山って、どのくらいの高さなの?」
「高さは十丈か二十丈かそんなものらしいよ。でも海から何十里も離れているのに、水が上がってくるなど想像もつかないでしょう。でも陸奥国府の報告で都に伝えられたことだから、噂話ではないよね」
いつも歌の話などには加わらない父が深刻な顔をして
「わしらは、本当に幸運だった。それほどの大災難でなくても、野分(台風)一つでもまともに食らったら、その年の収穫は台なしだ。四年間何もなかったことは神の助けだ。都に帰ったら真っ先に、みんなで北野の天満宮にお礼参りに行くぞ」
兄が横から口を出して
「父上、帰ったら来年あたり北野天満宮への祈年穀奉幣使になれませんか?」
「さあ、どうかな。五位というだけで選ばれるものではなし、こっちから願い出るものでもないし…」
「でも、もし実現したら道真公以来、嫡流なのに、傍流のような扱いを受けてきた我が家が氏の長者であると認められるということではないですか」
父は苦笑しながら
「実現すればな。故郷に錦を飾るというところだが、この世の中、簡単ではないんだ。いろいろな人に、そうせよと言って頂かないといかんのだよ」
殿方を脇において、私たちは都で流行っているという桜柄の小袖の話で盛り上がった。
京都が近づくにつれ、皆それぞれに新しい生活への思いで胸が膨らみ、夜が更けていった。
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