更級日記の東海道の旅をもとに平安時代の古地形や文献で平安時代日本を再現
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三河の野を歩く

(1)三河の野原を越え志香須賀の渡りに至る


  寛仁4年10月27日(グレゴリオ暦1020年11月20日)

空がわづかに白んでから出発する。いつものように源造が注意を与える。
「これから登る猪鼻(いのはな)坂は狭くて一本道だ。村の者の話では両脇は藪だ。盗賊が隠れようと思えば、どこにでも隠れられる。わづかな気配にも、身構えろ」


高師山に登る


  村の裏山の細い道をたどるが足元は真っ暗だ。先頭の侍がたい松を灯し、そのあとを一列になって続いた。この坂は亥鼻坂というそうだ。この坂を上り詰めると峠に出て高師山のすぐ下に出るそうだ。宿の女将によれば、そこからの浜名の入江の眺めは絵に描いたようで比べるものがないという。とはいえ、この坂はずっと続きただひたすら足元を確かめながら登る。

一刻程経った頃、目の前がぱあーと明るくなった。峠に出たのだ。海の方を見ると昨日通ってきた浜名の入江が広がっている。目を上げると前方に山がある。道案内の村人が虎吉に山を指さしながら説明している。

「あの山を高師の山と申します。低い山ですが形もいいし、あの大海原が背景です。手前等のようなものは縁がありませんが、これまで、お通りになった貴いお方やお役人様はここで一休みされ、お歌をお詠みになります」

私たちは顔を見合わせ、小声で

「確かにいい景色だけど、ちょっと寒いねー」

この峠を下ると沢があり、これを渡ると三河の国らしい。岩がごつごつした、かなり急な道を下り沢に下った。後ろの方から、馬たちがいななきながら降りてくる。ようやく沢を渡り終えると、うっそうとした林が続き、ただ歩く。


高師の原と高師の浜


林が途切れ、少し開けたところに出て、小休止となる。(豊橋市二川)

この先は見渡す限り蘆荻の原だ。馬たちは荷物を下ろしてもらい小川で水を飲んでいる。鳶丸、犬丸、猪野の三人は十丈四方の草を刈り払い、人々が休憩できるだけの場所を作った。私たちも桶に汲まれた水を頂いた。大汗をかいて歩いてきたので冷たいお水は甘露の味だ。


地元では、この延々続く草原を文字通り「たかし(高葦)の原」と言っているそうだ。
午後になると雨混じりの風が海の方から吹き付け頬が痛い。草原をかき分けかき分け行くとついに崖っぷちに出た。下には一面に葦が茂った浜辺が広がっていた(現在の豊橋市小浜)。たかしの浜(高師浜)というらしい。崖沿いを歩いて、どんよりと暮れかかるころ、今日の宿り、坂津に着く。


※広重の絵では左の方に柏餅屋が描かれている。実際にはこの餅屋は静岡市にあったものではないかという。つまり二川には江戸時代に至っても一面の草原で何もなかった。それでは絵にならないので、芸術家の創作として描かれたものである。



志香須賀の渡り


寛仁4年10月28日(グレゴリオ暦1020年11月21日)

ここ坂津は棟数は多くないが、古くからの村だそうだ。昨夜は村長の家に泊めてもらった。今日渡る志香須賀の渡りは飽海川(あくみがわ)の河口を渡るので今までの川より何倍も時間がかかるという。特に馬を渡すのが大変で一日では終わらないかもしれないという。風は昨日よりは治まったが、それでも水面は白く泡立っている。渡し守と美代次が話している。

「波が高くなりましたら、渡しは中止します。とりあえず最初に荷物を渡して波の様子を見てきます。大丈夫そうなら、殿のご家族をお渡しします」

後ろで、腕を前で組んで寒そうに話を聞いていた、まま母さんが

「やはり、『しかすがの渡り』ね。来るときはお天気が良くて、なんだ、こんなものかとちょっと期待外れだったけど、今日は本当に命懸けになりそうね」と顔を曇らせて呟いた。

「しかすがの渡り、って危ないところなの」

「そうよ、雨風が強かったり、潮の流れがきつい時には、舟がひっくり返って溺れ死ぬ人も少なくないそうよ」

『行けばあり行かねば苦ししかすがの 渡りに来てぞ思ひわづらふ』中務

と姉さんが口づさんだ。

「その通りよね。今よりもっと波が高くなったら、ここは海を渡るのと同じよ。あんな小さな舟、木の葉のようにひっくり返されるよ」

「それで、舟に乗ろうか乗るまいかと迷っているのね。運悪くひっくり返ったらどうなるの?」

「もちろん、溺れて死ぬのよ。あなたは泳げないでしょう」

日が昇ってから、舟が戻ってくると、船頭は

「今は思ったほど波は高くありません。午後になると、どうなるかわかりませんので、できるだけ急いで渡しましょう」

という訳で私たちは急ぎ身の周りの物を手に舟に乗り込んだ。そのあとの船中のことはてんで覚えていない。



柏木浜


馬の船渡しで事件が起こった。人間ですら怖気づく志香須賀の渡しの渡りだから馬なら当然に思える。馬の目を袖で隠し水を見せないように首を押さえ励ましながら渡るのだ。私たちが柏木浜から上に上がり、村長の家の前で荷物を片付けていると、浜の方で騒ぎ声が聞こえた。


「蝉丸が海に落ちたぞ。助けてくれー」


「誰か綱を持ってこい。急げー」と浜で騒いでいる。


小半刻ばかり経って濡れネズミになった雑色を抱えるようにして数人の者が上がってきた。火の前に座らせると、美代次が話し始めた。


「浜のすぐ近くまで来たのですが、そこで海の方から大きな波がやってきてふわっと持ち上げられたかと思ったら、大きく傾き、馬と馬を押さえていた蝉丸がそのまま海に放り出されてしまったのです。舟はすぐ持ち直し、他の者は座って船べりにしがみついていたので放り出されずに済みました」


「何とか蝉丸は海から救い上げたのですが、…」


「助かってよかった。それで馬はどうした?」と父が尋ねると、美代次が、しどろもどろに


「申し訳ありません。実はみんな蝉丸を助けるのに精いっぱいで、馬の方は見ていなかったのです。馬は水に落ちて泳ぎ始め自分で陸の方に上がっていきました。後で捕まえるつもりだったのですが、浜に上がってみると、姿が見えません。今、手の空いた者が探しに行っています」


「その辺に居ればいいがな。確かあれは鹿毛の斑(まだら)だったな。目立つから、そのうち見つかるだろう」


とは言いつつも、心配そうだった。馬はとても高価だから。


結局、日が暮れても馬は見つからなかった。



三河国府


寛仁4年10月29日(グレゴリオ暦1020年11月22日)

しかすがの渡りはこれまでの渡しの中で一番大変だったが、何とか渡り終えた。馬の事を除けば。

父と虎吉が話し込んでいる。

「馬の事は弱りましたな。どうしたものでしょう」

「残念だが、これ以上ここにいるわけにもゆくまい。これから三河国府に向かう道中、探しながら行くしかなかろう。見つからんかもしれんがな」

「申し訳ございません。とんだ、大損害で」

「見つからんと決まったわけではない。それに人の命には代えられん。仕方あるまい」
という訳で、一行は三河国府を目指した。白み始めた空の下、相変わらずの時雨模様で北風が冷たい。足元は田んぼのようにぬかるみ、手はかじかんでひたすら頭を低くして進む。この辺りはあまり人が住んでいないのか、浜の小さな村を出てから人影をみることはなかった。

私たち家族は太陽が真上に来るだいぶ前に、古い三河国庁に着いた。しかし、ここには三河守様はおいでにならず、もう少し先の街道脇の国司館(こくしのたち)にお住まいだそうだ。地面が悪いせいか、荷物を運ぶのは大変で行列は遅れ、長く伸びている。休憩がてら遅れた人々を待つが北風が吹き付け寒い。


 兄「この正殿だけはかろうじて立っていますが、あとは壊れかけの破れ小屋ですね」

父「どこの国庁も同じようなもんだ。仮にこれを維持しても住みにくいだけで、穀潰しにしかならん」

「築地塀も崩れてほとんどないし、どこからでも入れるね」

父「こんな状態でも、建前はここが正式な国府だから壊して畑にしてしまう訳には行かんのだ」

兄「仮にこれが再建されても、ここで仕事はしたくないなあ。唐風は丹塗りで立派に見えるけれど、床は磚(せん)敷きで冬は寒いし落ち着かないよ」

確かに、この国庁の中庭は焚火にあたっていても背中が寒い。兄の言葉に納得だ。馬が一頭逃げたおかげで、その分、荷運びも大変になった。

 国庁から、北に向かい半刻程で三河の守様のお屋敷(国司館)に着く。ここが実際の三河の国庁でもある。先駆けしていた猪野次が門口に迎えに出てきた。屋敷は植え込みのある土手でぐるりと囲まれている。門口には侍が数人たむろしていたが、私たちが近づくとさすがに両脇に分かれ道を開けた。


宮路山に登る


寛仁4年10月30日(グレゴリオ暦1020年11月23日)

空が白む頃、いつものように行列は出発した。国司館は丘の中腹にあり、街道はその裾を巡る様に通っている。今日は、お天気が良くなりそうだ。私たち家族は列の最後の方を歩く。丘を下り沢を越え向こう岸に上がろうとしたとき、事件が起こった。

 行列の先頭の方で男たちが大騒ぎしている。近寄って見ると一頭の馬を囲んで一人の男が藤太に殴られていた。あと二人も地面に転がり侍に蹴られている。鳶丸が様子を見に行き、報告するには

「沢の向こう岸で後続の行列を待っていたところ、西の方から馬が全速力で駆けてきたそうです。どうしたんだろうと見ていると馬には男が振り落とされないようにたてがみにしがみついていたんです。後から男二人が追いかけてきます。藤太さんが道に出て馬の手綱を取って取り押さえました」

蓬が「それはよかった。怪我をしなかったんだね」というと、

「それが大変なことになったんです。馬をよく見ると、これは一昨日(おととい)行方不明になった鹿毛の斑(まだら)ではありませんか。藤太さんは馬から下りた男の胸倉を捕まえて殴り始めたのです。どうやら馬は私たちの行列を見つけて、一目散に駆けてきたのです」

「あっし等は盗んだんじゃありません。ただ、持ち主も見当たらず草を食べていたので、はぐれ馬だと思ったんです」

「それならどうして、役所に届けなかったんだ?鞍を着けた、はぐれ馬がいるか」

「いや、これから行くところでした」

「適当なことを言うな。馬泥棒がどんなことになるか知っているな。おい、この三人をあっちの道の端に連れて行け」

道端に縛り上げた三人を座らせると、藤太と入れ替わる様に源造が現れ、藪の前で三人の後ろに回り、ギラりと太刀を抜いた。


「えーっ、三人の首を斬るの!」と私は息をのんだ。

三人は腰が抜け、口をわなつかせ「お、お助けを」と声を絞り出した。
腰を抜かしたのは男たちだけではなかった。源造が太刀を振り上げ、血しぶきが上がるかと思った瞬間、思わず目をつぶって後ろを向いた。

一瞬の静けさの後、そっと目を開けると足元に乳母のユリが仰向けに倒れ込み、口をわなつかせている。

静けさを破って、しんがりに居た三郎が人を掻き分けやってきて、源造に何事か耳打ちした。すると不満そうに太刀を鞘に納めながら、源造は男達に言った。

「殿のお慈悲だ。ここで、てめえらの首を落とすと、穢れを祓うために旅が遅れる。今回ばかりは見逃してやる。さっさと失せろ」

男たちは、よろよろと来た道を引き返していった。見れば袴が濡れて尻に貼り付いている。三人の姿が見えなくなると、三郎は鹿毛の斑(まだら)の手綱を取って、まま母さんに向かい

「あれは、芝居です。本気で殺す気はなかったのです。でも、あのくらい脅しておかないとまたやりますから。上総でも時に同じ手を使いました」

「本当に斬るのかと思った。源造がやると芝居だなんて思えない」

栗女が口をはさみ、

「でもよかったですね。馬も戻ったし、これはいつも芳太郎さんが斑の鹿毛を可愛がっていたからですよ。馬は私たちの行列を見て一目散に駆けてきたんです」


これから宮路山に登る。このお山は昔、持統の帝もお出でになったことがあるそうな。本当かしら。東海道はこのお山の上を通っているという。目の前の沢を西に上ってゆけば、距離は短いが、いったん雨になったら溺れてしまうそうだ。
一刻程上って尾根に出た。人は何とか登れるが、荷物をたくさん背負った馬は狭い道を登るのが大変だ。特に尾根を乗り越すところでは、ずり落ちそうになったり、大騒ぎだった。

山頂は峠から少し上がったところにある。街道からは外れるが、父が

「ここでじっとしていても仕方ない。持統の帝(みかど)のご旧跡を見に行こう」と言い出した。

荷物の運び上げに手間取っているので、父もそんな気分になったのだろう。宮路山の頂上は木々に覆われ眺望はよくなかった。しかし南を見ると木の間から少しだけ海が見えた。頂上には特に何もない。少し木が切り払われている程度だ。

「ここは、どういう場所なの?」と父に尋ねると

「詳しくは知らんのだが、三百年ほども昔、持統帝が三河国に御幸された時ここから国見をされたというのだ」

「持統様はなんでこんな山の中にいらっしゃったの?」

「よく知らんと言っただろう」と父が答えると、まま母さんが

「私もよく知らないんですけど、ひょっとしたら、天武の帝との思い出がおありになったんじゃないかと、ちらっと、思ったんですけど、どうかしら」

「そういえば壬申の乱では、お二人は命懸けの思いをされているから、それもあるかもしれません」と、父。

ここで道案内の地元の男が呼ばれ

「この赤坂の地は壬申の乱の時に持統上皇のお子、草壁皇子様が一時避難なさった場所だと聞いております。宮の御所は麓にありますが、宮様はたびたびこのお山にお登りになったということです」

峠に戻ると、荷駄はほとんど登り終えていた。

宮路山の紅葉

尾根道を歩き始めると、そこは、まるで錦の世界だ。秋の日を浴びて赤や黄の打掛が一面に乾されているようだ。今日はもう十月の晦(つごもり)なのによく残っていたものだと思いつつ、すぐそばで見ると、ここの紅葉(もみじ)は葉が厚く、つやつやしている。麓にあるようなカエデではない。これは歌の題になるなと思いつつ、下りの道々心の中で、いくつか詠んでみる。山を下り沢近くまで降りたところで、さらに山裾を一刻程(2時間)歩き、本日の宿営地に着いた。山に囲まれてはいるが、少し開けた場所だ。ここは一体どこだろう。一足先に着いて庵の準備をしていた栗女に聞くと、

「なんでも昔、山綱という駅家(うまや)があった場所だと美代次さんが言っていましたよ」

「そうなの。それにしても、昔駅家があったところは築地が残っていたり、井戸があったり、それなりに何かの跡ってことがわかるのに、ここは周りの野原と区別がつかないね」
そこに草刈りを終えた鳶丸がやってきて、汗を拭きふき、

「虎吉様のお話では、ここが駅家でなくなったのは相当昔の話で、それも短い間で終わったとのことです。御覧の通りこの淋しい山間には村という程の集落はありません。駅家の負担はとても重いので、多少好条件で駅子に指定されても住民はすぐ逃げ出してしまうそうです。でも草を刈ってみると、建物の跡はありませんが、大体方形の敷地にはなっていました」

今晩はこの山裾の草原の中に庵を張って過ごすことになる。少年三人組は草を刈った空き地の真ん中に、手早く庵の柱を建て始めた。皆が準備をしている間、私たち家族は木の陰で風をよけながら、歌を詠むことになった。今日はお天気も良く、宮路山ではすばらしい紅葉の錦に巡り合った。多分、まま母さんが言い出すだろうなと思って歩きながら考えていた一首を、渡された半紙にサラサラと書いて、裏を向けて膝の上に置いた。

姉さんが

「あら、茜さんは早いね。さては考えていたのね」

作品が出揃って、母さんが各人の歌を詠みあげると、父以外はみな紅葉を詠んだものだった。

嵐こそ吹き来ざりけれ宮路山 まだもみじ葉の散らで残れる

家族の歌会では評者でもあるまま母さんは

「茜さんの歌はいいね。宮様のお通りになった宮路山だから、嵐だって遠慮して吹いてこないって訳ね。十月の晦(つごもり)に詠んだってことも、『まだ~残れる』という言葉で、それとなく思い出せるようになっているね」と褒めてくれた。

父は宮路山で話していた『壬申の乱』をしのぶ歌を作ったが、歌にはさほど興味がないのか、その故事について語り始めた。

<壬申の乱の話>

「今から三百年以上も前のことなど、普段は世間話にもならんことだが、学者の家に生まれると、六国史は暗唱するくらい読まされる。学者の家でなくとも、貴族の家なら古事記、日本書紀、続日本紀くらいは必須で勉強させられる。大体退屈な内容だが、その中で『乙巳の変』辺りから『壬申の乱』の時代だけは、男の子なら誰しも胸騒ぐ思いで勉強したものだ。あの時代は今の世の中の決まり事や儀式、税の仕組みの基本が決まった時代でもあったし、何より外国、つまり唐や新羅、高句麗、百済との付き合いが日常行われていた。今は外国のことなど、物語の中の話だが、あの時代は陸奥、出羽の国と同じように唐や半島との往来があり朝廷を悩ます事件が相次いでいた。壬申の乱はその最後となる事件だった。天智の帝と天武の帝はこの国の帝の中でも最もご苦労された”お上”と思う」

ここで兄が

「あの時代には、帝が今の摂政や関白様のように政(まつりごと)をおやりになっていたのですね」

「そうだ、しかしあの時代については腑におちないことが多いんだ」

「といいますと?」

「そもそも、なんで『壬申の乱』というのか?日本書紀には『乱』という語は書いてない。実は、俺は小さいころ親父殿の資忠様に『戦を仕掛けたのは天武の帝の方なのに、乱というのはおかしい』と生意気に言ったことがあるんだ。すると、意外にも『そうだよなー』と黙り込んでしまった。大人になって調べてみると『壬申の乱』というようになったのは、どうも桓武帝の次の次、嵯峨帝辺りからの事らしい」
兄が首をひねりながら、

「それはどういうことですか?」

「天智帝のご崩御後、帝位を継ぐのは大友皇子であったことは子供にもわかる道理だ。それを大海人皇子は戦(いくさ)を仕掛けて大友皇子を殺してまで帝位に着かれたのだ。これを乱と言わずしてなんだ。しかし奈良が都の時代には誰もそれを口に出すことはなかった。それが天武帝の血筋が絶え天智帝の血筋に皇統が戻ってから、自然と『壬申の乱』というようになったらしい」

「しかし、乱の時、有力豪族のほとんどは天武帝についたのですよね。大友皇子だって若いとはいえ優秀な方だったというではありませんか。ということは、天武帝は圧倒的に優れたお方だったのですか」

「それはわからん。しかし、血筋としては天武帝こそ、この国の大王(おおきみ)にふさわしいお方だったかもしれんのだ」


「父上ますます、わかりません」

父は苦笑しながら、まま母さんに向かい、次の歌を口ずさんだ。

大王(おおきみ)の遠(とお)の朝廷(みかど)とあり通ふ 嶋門(しまと)を見れば神代し思ほゆ』(万葉集巻三、304)

「それは柿本人麻呂様のお歌ですね。筑紫の太宰府にお使いの旅で詠まれたのですよね」
「そうです。ここの大王の遠の朝廷(みかど)とは一体何だと思います。実は文章生の頃仲間と議論したことがあるんです」

「何をですか?」

「恐ろしいことです。この国の正統の朝廷は筑紫の太宰府にあったのではないかと。そして天武帝はその血筋を引く皇子であり、帝位に着く資格ではこちらが上だったのだと」

まま母さんは仰天して、

「そしたら天智帝と天武帝はご兄弟ではなかったと」

「そういうことになります。これも悪童仲間の話ですが、当時、外国との戦いを控え、筑紫の大王(おおきみ)は大海人皇子を飛鳥に派遣し、戦争準備に協力を命じてきたのではないか。その際、筑紫の大王に対し斉明帝は異心なきことを示すため、大海人皇子を自分の子供とし、中大兄皇子(天智帝)の娘を2人も大海人皇子の妃に入れたのではないかと。大海人の皇子は既に九州の有力豪族胸形君徳善の娘尼子娘を娶り、高市皇子をもうけていたのですよ」

「信じられない話ですが、そういう背景で先程の柿本人麻呂様のお歌を考えると、辻褄が合いますね。人麻呂様は筑紫の大王との折衝のため、どなたかのお供で飛鳥と太宰府の間を頻繁に往復されていた…」

父は大きくうなづいた。

そこへ、栗女が食事の知らせにやってきて、話は終わりとなった。

 

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