三河国を横断し尾張に入る
木枯らし吹く(山綱駅家跡)
寛仁4年11月1日(グレゴリオ暦1020年11月24日)(後世の矢作東宿泊)
暗いうちから寒さで目が覚める。庵の布がバタバタとはためき顔に風が当たる。敷いていた筵(むしろ)を体に巻いて外に出る。こんな風の中で、どうして小用を足せばいいんだろう。後からユリがついてきて、
「お小用でしょう。昨日いい場所を見つけておきましたから、お供しますよ。でも、足元が暗いので、あの焚火をたいている不寝番のところで続松(たいまつ)をもらってきますから、ちょっとお待ちください」
待っている間に姉さんも出てきた。寒さと風の音で眠れなかったようだ。三人揃って、用足しに行くことになった。敷地の境界辺りは立木が多い。そこに着くとユリは筵の下の方を足で踏み、上を手で持って手早く囲いを作った。
「さあ、私が筵の端を押さえていますからこの陰でお済ませください」
たい松と筵を代わり番こに持って何とか寒風の中で用を足した。庵に戻り暫くじっとしていたが、寒さはますます募り、外で蓬や栗女が食事の支度を始める気配がすると、庵を飛び出した。
女と少年達が出てくると、入れ替わり、不寝番をしていた侍たちは食事迄自分の庵で休む。
蓬もさすが寒いのか肩をすぼめ、木切れを火にくべながら、
「冬も本番ですね。木枯らしが吹くと、これから雪も降る様になります」
「今朝は本当に冷え込むね。耳が痛い」
「もっと火を大きくしたいんですが、この風だと火の粉が飛んで危ないので煮炊きできるだけにします。もっと火の近くにおよりになってください」
昨日、草刈りした広場の真ん中で焚火をしている。小さな炎でも周囲の枯草が波のように揺れ動いているのがわかる。これに火が着いたら逃げ場はない。みんなまる焼けだ。
鳶丸たちが汲んできた水で湯を沸かし始めた頃、庵から人々がぞろぞろと出てきた。みんな、眠れなかったのだ。虎吉は美代次を相手に
「今日は、風はあるが天気はまずまずだから、準備ができ次第すぐ発とう。鷲捕駅家迄行ければいいんだが、無理をせず矢作の渡しでもいい」
「みんなこの寒さで寝ていないので、渡しまで行かず、少し手前にある丘を下りたところにある草堂のところで宿営した方がいいかもしれません。渡し場は吹き曝しで寒いので」
「そうだな、無理をすべきではないかな」
「それに、寒くなってから川に入って身体を洗わないので、できものだらけです」
「そうか、どこか場所を探して身体を洗わせないといかんな。着るものも配ろう」
そこに父が現れ、虎吉と言葉を交わし、手のひらを擦りすり焚火に当たりにきた。白い息を吐きながら私たちに向かって、
「今日の旅は昼までにしよう。お前たちの髪もだいぶ汚れてきたな。皆にも身体を洗わせ着るものをあるだけ出そう。これからもっと寒くなるからな」
灰色の空で、お昼かどうかもわからないが、宿営地に着いた。ずっと同じような芦荻の生える野を越え丘を越えを歩いてきた。最後の丘を下ると、ここは丘の陰でずっと風が弱い(現在の岡崎市明大寺町)。ここには住民の小屋が数軒あるだけで、取り立てて何もない。それでも、早速農家の女たちが物売りにやってきた。庵の準備が終わってから、姉さんと二人だけで、見物に出かける。
売り物は野菜が中心だが、ここでは変わったものを売っていた。衣類である。大部分は粗末な普段着だ。猪野次が女を相手にこんなことを言っている。
「この衣類全部買おうと思うんだが、替わりに何が欲しい?」
「お米と鉄製品でお願いできますか」
「ほぉ、この辺では米はいくらでもあるだろうに」
「例年なら今頃はお米は穫れたばかりで何の心配もなかったのですが、今年はこの矢作流域では野分(台風)のために稲は半分近くが水に浸り腐ってしまいました。あと一月で刈り入れできたんですけどね。これから一年どうして生きて行けばよいのやら。だから少しでも米を蓄えておきたいんです」
「この衣料は、自分たちで使うものではないのか?売ってしまったら困るだろう?」
「税で納める米が余った分はいつも布に替えて、冬に備え着物に縫って取っておきます。でも今年は食べ物を確保する方が優先です。1年くらいは古いので我慢します」
女たちは一様に疲れた様子だが、食料の確保に必死だ。そこにユリが迎えにやってきた。「姫様方、庵の準備ができましたから、お戻りください」
庵では着ているものを脱がされて、濡れた布を渡され身体を拭いた。脇や股はずっと着替えないから赤く腫れていた。ずっと痒くて気になっていたが、改めて赤い肌を指先でさすってみると我が身体ながら哀れになる。着替えが終わるやいなや、栗女がやってきた。
「お着替えになった着物を洗いますから、お渡しください。まだ陽のあるうちに出来るだけ乾かしたいので」
私たち女が終わると庵の外に外に出され、今度は父と兄が入れ替わりに入った。私たちの身なりも旅の垢でひどいものだが、供の者たちのなりは、更にひどくて地元の者たちとさして変わらない。洗濯している栗女のところで、
「供の者たちは着替えはしないの?」と聞くと
「着替えを持たない人が多いんですよ。猪野次様がさっきいくらか買い入れたので少しは回ると思いますが、全員分はないので…。私や蓬姉さんは親たちが寒くなるからと、持たせてくれたので着替えはあります」
三河薬王寺を訪れる
寛仁4年11月2日(グレゴリオ暦1020年11月25日)鷲捕駅家跡(長者屋敷)泊
東の空が赤くなりわづかに明るくなる頃、矢作の渡しに着いた。川岸に立ってみると、この河は洲が多く、洲を避けながら渡るので時間がかかりそうだ。曇っているが風は治まり、まづまづのお天気だ。
河を渡って、いつものように皆を待つ。驚いたことに、ここで、山のような筵(むしろ)や草鞋(わらじ)を売っている。見れば売り子は子供ばかりで大人はいない。みんな汚れて、ひどい身なりをしている。
「草鞋買ってけれ」
「筵(むしろ)買って」
鳶丸が少し年かさの子に声をかけ
「ここの売り物は藁製品だけかい」
「そう、これだけ。お米に替えて!」
そこに猪野次がやってきて
「お前たち親はいないのか。子供ばかりじゃないか?この筵や草鞋は子供が編んだものじゃないだろう」
「父ちゃんも母ちゃんも、よその村に働きにいっている。この前の野分(台風)で、川のこちら側の田んぼは全部水に浸かった。稲はみんな腐っちまった。使えそうな稲藁だけ乾かして筵や草鞋を編んだんだ。おいらたちが藁を乾かしたり、叩いて柔らかくするんだよ」
「でも、親はいつも働きに行って家には居ないんだろう?」
「野良仕事ができない雨の日に編むんだ」
猪野次は虎吉のところに行って何やら相談していたが、戻ってきて
「それ全部買おう。米(玄米)5升ならいいだろう」
子供たちの表情がぱっと明るくなり、5、6人もいたろうか、小さな笑顔はまるで花が咲いたようだ。年かさの子が二人がかりでコメ袋を持ち、その尻について、小さな子たちがはしゃぎながら戻っていった。
鳶丸は筵の山を担ぎながら、横を歩く草鞋の山を背負った犬丸に
「ちょっと高いと思ったけど、これからもっと寒くなるから役立つぞ」
「だよな。夜は上にかけるものが一枚でも欲しいもんな」
「でもよ、虎吉様もお優しいな。大人が相手だとぎりぎり値切るのにな」
今日の道は一面の草原だがほとんど起伏がない。その代わり水たまりが多くぬかるんでいる。途中、日長(ひなが)の神のお社を経て、薬王寺というお寺に着く(現在の杵築嶋姫神社)。ここで小休止。泥団子のようになった草鞋を脱いで足を乾かす。
このお寺は築地も山門もなく、本堂だろうか茅葺きの堂と庫裏の他いくつか建物があるだけだ。先駆けしていた美代次が出迎え
「ここで少しお休みください。宿営地迄いくらもありませんが一息いれましょう」
家族の身なりが整ったところで本堂のお薬師様を参拝に行く。そこにはこの寺のご住持が扉を開けて待っておられた。薬師様の前に一端の布を布施する。家族は一列に並んで深く頭(こうべ)を垂れて、これからの無病息災を祈った。日ごとに寒さは厳しくなる。誰も病気にならなければいいが。この前、自分の病気のために5日も旅が遅れた。
ご住持は庫裏に私たちを招き、あけ放った縁側に座る様に勧めてくれた。出された湯をすすりながら、僧の話を聞く。四十過ぎであろうか、墨染の粗末な法衣をまといゆっくりと話される。
「こんな田舎寺にお立ち寄り下さり、ありがとうございます。この寺は天平15年に行基菩薩によって創建されたと伝えられております。往時は瓦葺きの立派な伽藍だったといいます。この寺が建てられた、そもそもの目的は病に苦しむ衆生を救うための、薬草を栽培し薬を作って配ることでした。そのため歴代の住持は大変な努力を続けて参りました。もちろん、建物は年を経るごとに傷んで参りますので必ず補修や建て替えが必要です。維持をするには地元の長者の方々の寄進が不可欠でございます。ところが延喜以降の事でしょうか、大きな税制の変更があり、この長者、富豪の方々が次々に没落されていったのです。そのため、寄進が減り、破損しても元のように再建することが難しくなりました。御覧のように現在は粗末な茅屋しか建てることができません。日々の費えも周辺の農家の寄進で細々と運営している状態です。この地域の人々にも仏の救いは必要でございます。また旅の途中、心ならずも病に冒された人を救済することも拙僧どもの役目でございます。ここは街道沿いなので行倒れる人も少なくありません」
「最近、往来はどのくらいあるのだ?」と父が尋ねる。
「多くは納税の運送、諸国の国司様の赴任帰任のご一行ですが、商人(あきんど)の往来も少なくありません。其の外、修験者、僧も通ります。公用のご一行は人数も多く護衛もいますので行倒れはほとんどありませんが、商人は狙われやすく身ぐるみ剥がれて行倒れる例が少なくありません」
「この辺でも盗賊は多いのか?背丈より高い一面の草原だし身をひそめる場所はいくらでもありそうだな」
「さようでございます。昨年の丁度今頃です。大事件がありました。吾妻に下る商人の一隊が襲われ10人のうち9人が殺されました。生き残ったのは走り使いの少年だけです。必死に逃げ出して当寺に駆け込んだのでございます」
「すぐに助けは出なかったのか?」
「もちろんこの寺には武者はいませんので、ここから前司様が今夜宿営される鷲捕駅家まで行かねばなりません。昔は駅家でしたが今は長者の屋敷になっています。急ぎ寺男を使いに出しましたが、助けが来たのは翌日の早朝です。生き残った少年に道案内をさせ現場に向かったのですが、現場には何もありません。暫く周囲を探し回って茂みの奥に10人の死体を見つけたのです。9人は商人で、もう一人は賊の一味です。商人はあちこちを斬られ血まみれの無残な姿でした。聞けば商人たちは弓矢と太刀で武装していたそうですが、賊にはかなわなかったのです。生半可に抵抗して相手を一人殺してしまったのでしょう。逆上した賊に皆殺しにされてしまったようです。気の毒なことです。遺体はこの寺の裏の墓地に運び埋葬いたしました」
「盗賊は物さへ奪えば、無駄な殺生はしないものだがな」
「商人も人数が居たので追い払えると思っていたのでしょう。大事な荷物なら、護衛の武者を雇ってくればよかったのです。武器を持っていても、普通の人間は人を傷つけたり殺すことを一瞬ためらうものです。その瞬間に殺られるのです」
「この前の父上と虎吉が話していた通りですね。『武者とはためらわず人を殺せる者たちだ』という事でしたよね」と兄が口をはさむ。
「いやな言い方だが武者とはそういう役割なのだ。ご住持、これは仏の目から見たら外道かの」
「いや、武者が具足を着け武器をちらつかせて旅をするというのは、仏法に背く行ないにも見えますが、実は賊も襲うのをためらいます。結果的には非道を未然に防ぐ善行なのです」
「なるほど、そういえば、仏の世界が四天王*という武神によって守られているのはそういう訳なのだな」 *持国天、増長天、広目天、多聞天(毘沙門天)
「盗賊事件は稀なことですが、この東海道にはいろいろなお方がお通りになります。ご存じかと思いますが、先代の住持の時には慶滋保胤(よししげやすたね)様がお立ち寄りになり、当寺の事をお書きいただきました。御蔭様で都の文人墨客の方々にも知られるようになり、わざわざこの寺を目的にご来訪頂き、ご喜捨いただくようになりました。お話が長くなりましたが、前司様もどうか恙なく旅を終えられるよう、念じております」
寺を後にしてさらに背丈を越える野原をかき分け、野や丘を越え今夜の宿営地、鷲捕(わしとり)駅家跡に着いた。駅家はとうにないが、敷地の一角にこの地の長者の屋敷があり、今夜はそこに泊めてもらう。これまでの駅家跡とは違い、長者の屋敷があるため築地も手入れされて、人の気配がある。今日は草刈り作業もないので、先駆けしていた、鳶丸と犬丸が水桶を抱えて出迎えた。
「お疲れ様でございます。殿、このお屋敷には立派な井戸があります。いつも
は川や池まで汲みに行かなければならなかったのですが、今夜は清らかな水を好きなだけ汲めます」蓬がやってきて
「奥様、姫様、今日はこのお屋敷の一部屋をお借りできましたので、早速お体をお拭きください。今日は久しぶりにお髪(ぐし)も拭かせていただきます。準備ができておりますので、こちらへどうぞ」
旅に出るというので、髪は短くしてきたんだけど、この長さでも毎日汗かいて埃をかぶっていたら汚れて気持ち悪い。全部洗いたいところだけど拭くだけで我慢しよう。蓬や栗女は肩より少し下くらいまでなので、洗髪の苦労はなさそうだ。私たちは短めにしたといっても腰より下まであるので、真夏でもない季節には丸洗いなどできない。旅の空ではせいぜい濡れた布で拭くくらいだ。
着替えを手伝ってくれるユリがこのところ元気がない。疲れが出てきたのか、動きが鈍い。蓬には芳麿とママ母さんのお世話に回ってもらって髪拭きは私と姉さんで代わる代わるにやることにした。
二村山の一夜
寛仁4年11月3日(グレゴリオ暦1020年11月26日)二村駅家跡泊
昨夜は冷え込んだ。お天気は良くなり、あかつき前の空には、まだ満天の星が輝いている。今日は国境を越えて尾張に入るそうだ。父と虎吉は荷造りの様子を見ながら、
「皆も疲れが出ているようだな。本来なら鳴海迄行けるところだが、今日は荷物もあるし、二村ぐらいまでにしようか」
「そうでございますな。二村まではほとんど山もありません。無理をせず参りましょう」この鷲捕駅家跡の長者の家では特に取引もなかった。宿営のお礼として虎吉は上質の紙を一締めと墨、筆を届けてきた。いずれも上総の特産品だ。
歩き始めて空が完全に明るくなる頃、小さなお堂に着いた(後の熊野神社)。昔ここにいた長者の屋敷跡だそうだ。ここでも小休止をかねてお参りする。ここから一刻もたたないうちに八橋に着いた。名高い在原業平様の歌枕の地だ。ところが、目の前に一面に広がるのは茶色に枯れた水草の広がる湿地だ。水が深そうな所には橋とも言えない板が渡してある。なるべく水が浅そうなところを選び枯草をつかみながら慎重にわたってゆく。沼を渡り終えて一息入れながら来た道を振り返る。
「少しは期待してきたけど、ただの沼だね。春になれば花が咲いて、きれいになるのかしら」
まま母さんは業平様のお歌を口づさんだ。
『から衣きつつなれにしつましあればはるばるきぬるたびをしぞ思ふ』(在原業平、伊勢物語九、東下り)
「カキツバタがないのは残念だけど、私たちも上総から”はるばる”来たものね。だいぶん都に近づきましたよ」
姉さんは「そうねえ、もうひと頑張りね」
と話しを合わせているが、私の方はそれどころではなかった。この八橋は橋のかげもなく、枯草の間をくるぶしまで水に漬かる苦行の場所だった。倒木に腰掛け、一息入れる間も冬の冷たい風が吹き付け、足は自然に足踏みする。濡れた足は感覚が鈍い。でも誰もこのくらいの水濡れでは、足袋や草鞋を履き替えない。男たちは、そもそも足袋など履いていない。
見るべきものが何もない八橋を後にして、またひたすら草原の中を歩く。先頭で馬にまたがった藤太らしき侍を目印に、ただ歩く。背の低い私には何も見えない。草原が尽きたのは三河と尾張の国境の境川に着いた時だ。
ここで休憩となる。皆に水と餉(かれいい)が配られる。
「その沢のほとりの木かげにおりゐて、かれいひ食ひけり。その沢にかきつばたいとおもしろく咲きたり(伊勢物語)」と姉さんが呟いたので、
「この川のほとりの木かげにおりゐて、かれいひ食ひけり。この川に尾花いとおもしろく咲きたり」と催馬楽風に返すと皆爆笑した。
国境の川にしてはさほど大きな川ではない。川岸では荷物を下ろしてもらった馬たちが水を飲んだり草を食べている。西の方には山が見える。この川には渡し舟はない。男たちは川にそのまま入っていった。水は膝まででさほど深くない。私たち女、子供は輿で渡された。
今夜の宿営地は川からさほど遠くもなく山の入り口のような場所だった。二村駅家のあったところだという。高い木で囲まれているが中には草が生えた広場がある。風はこの中では嘘のように感じない。草は生えているが時々刈られているのか、草丈はさほどでもない。日が高いうちに着き、宿営の準備も早々に片付いた。冬の弱い陽を背に虎吉は男達を集め、
「今日は早く着いたからゆっくり休め。まづ、身体をきれいにした方がいいな。この宿営地は駅家(うまや)の場所だから、裏山からきれいな水が流れてくる。寒くて水浴びは無理だろうが、よく拭くぐらいはできるだろう」
馬たちも刈られた草をゆっくり食べ、見るからにくつろいでいる。私たちも日が暮れるずっと前に食事を終え、庵の中で休むことにした。ユリは今日も元気がなく庵の支度ができると、早々に横になっていた。
ところが暗くなっての事だ。風が出てきたかと思ったら、庵の上にボトッと何かが落ちてくる。暗がりの中で家族も起き出して騒ぎ始めた。兄が庵から這い出して様子を見ていると、ほかの庵からも男たちが顔を出し、
「これは柿だぞ。柿が木から落ちてきたんだ!誰か続松(たいまつ)を持って来い」
そうこうしているうちに不寝番の侍が続松を持ってくると、そこら中に熟した柿が散らばっていた。そこに折敷を抱えた犬丸がやってきて、柿を拾い始めた。
翌朝の食事には、折敷や籠一杯に盛られた柿が出た。父も一個を手に取って食べると
「これはうまい。こんな甘いものにありつけるとはまさに天の配剤というものだな」と上機嫌だ。
庵の上を見上げると葉を落とした木にはまだ柿の実がいくつか残っている。柿の木は立木の手前に敷地を囲うように何本も植えてある。虎吉の話では駅家にはほとんど何かしら、その地に合った果樹が植えてあったという。柿は中でも寿命が長く百年を超えるのも珍しくないそうだ。