美濃路を行く。野上でひと時の休息、息長まで
墨俣の宿を出て大井荘に向かう
寛仁4年11月8日(グレゴリオ暦1020年12月1日)
目が覚めると雨の音がしている。外は暗いが昨夜来の雨がまだ降り続いている。寒い上に湿っぽく、起きるのが辛い。心の中で「いつ迄こんな旅が続くんだろう?」とため息が出る。
「今日は大井荘(現在の大垣市)までだから、明るくなって準備しても間に合うだろう」と父の声。
「そうですね。昨日の川越えで皆、随分くたびれていますので、ゆっくりさせてもらえば助かります。この雨もそろそろ止むでしょう」
「大井荘泊りなら、少しはゆっくりできるだろう。荘司の大中臣氏はこの辺では知らぬもののない長者だ。屋敷も広いしな」
「はい、濡れたものを乾かさないことには、この冷たい雨では病人が出てしまいます。匠の赤牛師匠が、最近元気がなく心配です」
結局、本日の出発は夜明けから一刻(2時間)後となった。馬たちはといえば朝から粟、麦等をふるまわれ、ご機嫌だ。実は毎日、馬を観ていると、馬が人ではないかと思えてくることがある。おいしいものを貰えば、嬉しそうにするし、こちらが雨に打たれて辛そうにしていると、ちらと、こちらを振り返り、「苦しいね。でも、もう少しだから頑張ろうね」と目で励ましてくれる。自分らの方が余程大変なのに。
今、大井荘の荘司屋敷(大垣市林町)だ。雨は上がったが、今日は大変だった。沢渡(さわたり)という辺り(大垣市小野(この))は川ではないのに、水が溜まりまるで田んぼの中を歩くようだった。5丁ほどもあったかなあ。足を踏み入れたら、ずぶっと刺さり抜けない。抜くために、もう片っ方で踏ん張るとこちらが沈む。こんな事を繰り返し、やっと堅い地面に上がった時は、どっと疲れが出て腰が抜けてしまった。
大井荘の村に入り私たち家族は長者屋敷の母屋に招き入れられた。長者は在宅で、一応の挨拶はしたものの、父は落ち着かない様子で
「いやあ、泥だらけで済まぬ。ちと身の回りを整えたいので、場所を貸してもらいたい」と上がるのを断り、納屋に移動した。それぐらい私たちの格好はすごかった。納屋で蓬と栗女の世話で、ようやくまともな身なりになった。囲炉裏のある部屋に通されると
「前司様、いやいや、お疲れでございました。あいにく昨日雨が降りましたので、沢渡から乎野(この)にかけてはドブ田同然です。いっそ川なら舟で渡れますが、歩くとなるとどうにもなりません。不便なので杭を打って板を渡して歩きやすくしようという話もあったのですが、国衙にお願いしても、聞き届けては頂だけません。そうかといって、自分らでやっても、費用がかかる割には、役に立つのは雨の季節だけ、湿地に打った杭はすぐ腐りますので頻繁に修繕が必要です。とても、やってはいられません。そんなわけでお通りになる方にはご不便をかけています」
「それを聞くと、こちらも耳が痛いな。国司の役割には、通り過ぎる旅人の利便を図る事もあるのだが、目先の水路やため池の修理に追われ、街道にまでは目が行き届かないんだよ」と美濃の国司でもないのに父が答える。
私たちは、そんな会話より、目の前の囲炉裏に薪がくべられ火が大きくなっていくことに神経が向かう。とにかく寒くて落ち着かない。
夕食のあと、虎吉がやってきて、父に何かささやいている。暫く席を外していた荘司が戻ってくると、父はこう切り出した。
「荘司殿、一つ頼みがあるのだが、聞いてはもらえまいか」
「何事でしょう。手前に出来ることでしたら何なりと承ります」
「実は、うちの者で身体の具合が悪いものが一人居て、これ以上どうにも旅を続けられそうにないのだ。無理に連れて行くと命に係わるかもしれんので、貴公の所で差し支えなければ治るまで養生させてもらえまいか」
「もちろんでございますとも。そういう事なら、どうぞ良くなるまで、御養生ください。こちらでお預かりします」
それを聞くと父はほっとしたように
「それはありがたい。赤牛と申す匠なのだが、何分齢なので、この寒さが身に応えたようだ。よろしくお頼み申す」
「匠(大工)とおっしゃいましたが、都にお帰りのあと何か造作でもなさるのですか」
荘司は一行の中に匠が居ることに興味をひかれたようだ。
「いやいや、元々都の匠なのだが相模でどこそかの社を作るのに招かれて、仕事が終わり都に帰る所だったのを同道させているのだ」
「そうでございますか。最近は田舎でも社や寺の造営をする所が増えているのですが、なかなか腕のいい匠はいません。できることならこちらでも仕事を頼みたいくらいです」
寛仁4年11月9日(グレゴリオ暦1020年12月2日)
久しぶりに冬晴の日を迎える。今日は荘司屋敷にとどまり、殿方は、”取引”、侍たちは馬の世話、女たちは衣類の洗い物、繕い物で大忙しになる。少年三人組はいつものように、食事のお給仕をしていたが、そのうちどこかに姿を消してしまった。いつも、蓬のや栗女の片づけを手伝っているのにどうしたのかしら。
「あの三人はどうしたの」と栗女に尋ねると、
「実は、昨日こちらに着いてから赤牛おじさんの具合が急に悪くなり、看病しているんです。夕食もほとんど食べなかったようです」
聞けば着いたときは他の者たちと一緒に屋敷の隅にある農具小屋にいたのだが、荘司が特別に離れの一室に上げてくれたのだという。それだけでなく、寒さで身が持たないからと火桶まで用意してくれたとか。猪野は親代わりの師匠に付きっ切りで看病している。鳶丸と犬丸も夜具の準備や師匠の身体を拭いたり着替えをさせるのを手伝っているらしい。
屋敷の庭には外の小川から、水が引き込まれ、そこで汚れ物を洗うことができた。とにかく、伴の者の衣類を含めれば大変な洗い物だったが、からっとした風の御蔭で何とか陽が落ちる前に乾かすことができたようだ。蓬や栗女の他、家の者が流れに沿って総出で洗濯するのはそうある事ではない。みな貴重な晴れ間を逃すまいと必死の様子だった。
夕食の時、兄はこんな事を言って皆を驚かせた。
「今日、取引の計算は猪野がやったんだ。いつも赤牛師匠に頼んでいるんだけど、なにぶん病で頼めない。自分でやるつもりでいたら、鳶丸が師匠の言付けをもってきた。
『猪野に計算を手伝わせてください。お役にたちます』と言うんだ。
それで半信半疑でいくつかやらせてみると、ちゃんと正解だ。それで今日の取引は、猪野に計算をやらせ、扱いも少なかったので、早々に片付いた」
一座のみんなは目を丸くして感心することしきり。
この後、荘司が酒を持ってきて酒盛りになったので私たちは部屋の隅にしつらえられた寝床に移動する。
「荘司殿、これまであちこちを旅してきたが、この大井荘程豊かに見えるところは多くなかった。こちらは南都、東大寺の荘園と聞くが、さすがは聖武の帝が施入された田地(勅旨田)だ。施入されたのは相当昔だから、その後の開墾で耕地は相当増えているのだろうな」
「滅相もない。大して増えてはおりません」
「隠すことはない。わしも上総の国司を勤めていたから、荘園がじわじわと周辺の荒地を開墾して田地を増やし収益を増やすことぐらい知っている。不輸租の権を有する荘園が含まれていれば、新たに周囲で開墾した部分も不輸祖だ。申請時の実入りと現在の実入りの差が領家の東大寺と荘司で分けられる。そうでなければ、苦労して荒地を開墾する気にはならんだろう。それはわかるが、国衙の立場から言えば、水路、ため池、道路は共通で使う部分も多い。なのに田租を収めない田が増えて行くのは困ったものよ」
「お察しの通りですが、この大井荘に限ってはそう簡単ではないのです。西を杭瀬川、東を沢渡の湿地で挟まれ何年かに一度大水が出るのです。そのため西の方に田を増やそうとしても、数年たってようやく収穫が上がる頃に、ほぼ間違いなく流されてしまいます。それどころか古くからの田地にも流れ込むので、それを防ぐ堤防の整備が第一優先なのです。実は、今も低い堤防では心もとないので、もっと高くて堅固な堤防にと思っているのですが、費用の事もあり、なかなか思うにまかせません。現状では修理だけで手一杯で、新田を開くどころではありません。東の方はと言えば、ご存じの通り沢渡(さわたり)の湿地です。結局、東西方向にはほとんど開拓ができる余地はありません。一方、南北は逆に山ですから、畠作物しかできません」
「そうか、なかなか難しいものだな。そういうこともあって、ここでは蚕を飼って絹を織る様になったのか。桑なら山で栽培できるからな」
「さようでございます。作物としては米の方が簡単ですが、いつ流されるかわからない田んぼを増やすより、土手にからむし(苧麻)を植え布を織ったり、蚕を飼って絹を織る方が確実なのです。それに、お寺に納める施入の品としても、布、絹の方が好都合です。美濃国の場合、米を直接南都迄運ぶわけにはまいりませんので、布や絹に替えて納めなければなりません。そしたら手数料分だけ目減しますからな」
「なるほど、しかし布(苧麻布)はともかく、絹はいいものを織るのは大変だろう」
「殿は何でもご存じですな。確かに帛(絹布)は糸の太さ、色が均一でないといいものができません。下手すると全部絁(あしぎぬ)、つまり悪し布(あしぎぬ)になってしまいます。私どもでは都から、糸繰と織機の職人を招いて、できるだけ質の良い品を作らせるようにしております。東大寺様でお使いいただける品は、他に売るときでも高く売れますので、それだけの価値はあるのでございます」
「では敷地内にある、大きな建物は絹織りの作業場なのか」
「お察しの通りです。農家の娘たちの冬場の仕事になり喜ばれております。東大寺にお納めした残りは、美濃国の都への納税品としてお買い上げいただいております」
野上の宿
寛仁4年11月10日(グレゴリオ暦1020年12月3日)
荘司屋敷のすぐ北隣にある荻(おぎ)神社にお参りして出発する。このお社の境内には梛(ナギ)の大木が林立していて、一昨日(おととい)苦闘した乎野(この)の湿地からもよく見えていた。
具合が悪くなった赤牛師匠はここに残して行くことになった。虎吉は猪野を呼び、
「お前には、師匠の看病を頼む。歩けるようになったら、後を追ってくるのだ。費用の事は荘司によく頼んであるから心配は無用だ。大変だが頼んだぞ」
虎吉は荘司だけでなく、直接世話になりそうな屋敷の女たちに縫い針を1本ずつ渡してきたそうだ。虎吉の気配りには感心する。このような者が居なかったら、とても田舎の長旅はできない。
村はずれで南北一筋に築かれた堤防に行き当たった。これが昨夜、荘司が話していた堤防のようで丁度私の背丈ぐらいだ(笠木堤、鎌倉時代に3m以上に嵩上げされた)。
土手の上から見渡すと一面、葭の原だ。ここからは見えないが、この原の先が杭瀬川らしい。葭原をかき分けるように一本の踏み分け道をたどる。杭瀬川の河原に出るとそこには渡し船が一艘つながれていた。見た所そう深くもなさそうで、馬は浅瀬を探りながら渡っている。
「ここは、赤染衛門様の歌にある場所ではないかしら。
『夕闇のう船に灯(とも)すかがり火を 水なる月の影かとぞ見る』」
とまま母さんが口ずさんだ。
「その歌は夏に詠んだんだね。今は水が少ないけど、夏には満々と水をたたえ、夕暮れになると鵜飼が行われるのね。素敵だわ」と姉さんが辺りを見回しながら感じ入っている。
<岡山を過ぎる(大垣市勝山かちやま)>
葭野の中にポッコリと目立つ山がある。私たちの前で虎吉と父が話している。
「殿、この山が壬申の御事の時、天武の帝が登られ西方の様子をご覧になった場所です。ここは目立ちますので、各地から散々伍々集まってくる兵士たちはここを目印にしたそうです。帝はここから一団となって本営となる野上に向かわれたのです」
「東に下った時には気にも留めなかったが、ここはそんな場所だったのか。そういえばここには伊勢から上ってくる道があったな」
虎吉は北の方を指し乍ら、
「あそこに見える山が鉄の原料になる石が取れる金生(きんしょう)山です。あの山の石はとても品質がいい鉄が作れるので有名です。天武の帝は、これを先に近江の朝廷に押さえられれば武器の調達が出来なくなるので、吉野を抜け出し脱兎のごとく美濃においでになったのですな」
父はうなずきながら納得した様子、
「さすが、百戦錬磨の天武帝だ。兵と武器を合わせて手に入れること、これが戦(いくさ)を勝ち抜く要諦であると確信しておられたのだ」
(余談:岡山は現在「勝山」と呼ばれている。関ヶ原合戦時、徳川家康が桃配山に陣を進める前に陣を置いた場所と言われる。合戦勝利後、地元民により勝山と改称されたと伝えられる)
青墓という所で小休止。ここには数軒の家がある。水場の場所を聞きに行った美代次が、水桶を抱えた村の女と一緒に戻って来た。
「馬たちは近くに小川があるそうで、そこで水をやります。皆さまはここでお水を召しあがってください」
虎吉が女に
「ここは青墓というそうだが、どなたのお墓なのか」と尋ねると
「いえ、地元では”大(おお)墓”と呼んでおります。誰の墓かと言われても、名前は分かりませんが、昔この辺を治めていた偉い方と聞いています。お墓の長さは一丁くらいありますから、それはお大尽だったのではないでしょうか」
「そうか、ところで、これから野上に行くのだが、目の前の青野ヶ原を西に突っ切っていけば近道ではないのか?」
「はいその通りでございます。原の中には今でも昔の東山道だという細い道が通じております。地元の者は相当近道になるので冬から春にかけては今でも使っておりますが、雨が降る様になると通れません。ぬかるむだけでなく、葭原の中にいくつも川筋が出来て渡れなくなります。それだけではありません、夏になれば、ものすごい蚊や虻が湧いて歩くどころではございません」と身振りで蚊を追う仕草をしながら答えた。
「それで北にある円興寺のある山の方を迂回するのだな」
「さようでございます。急がば回れと申しますからね」
「ときに、4年前に通った時、国分寺は修理工事中だったが、工事は終わったのか?」と父が口をはさんだ。
「はい、一応出来上がっております。しかし、…私は昔の立派な伽藍を存じませんが聞きます所では、昔のような壮麗なものではないそうです」
「そうか、でも一応は出来上がったのだな。それはよかった、通るのが楽しみだ」
丘の縁をなぞるような道を進み国分寺、美濃国府を経て、陽が傾く頃、漸く野上に着いた。
寛仁4年11月11日(グレゴリオ暦1020年12月4日)
昨夜は野上長者の屋敷に宿泊。お天気も良く、距離はあったけど上り下りが少なく、楽な旅だった。皆は着くとすぐ虎吉から一言耳打ちされるや、片付けや食事の支度に大車輪で取り掛かった。そうだ、今晩、”遊び”の芸が披露されるのだ。そういえば野上も有名な”遊び”の里だという。誰も、ずっと、苦しい旅を続けてきたので、何か気分を晴らすものが欲しかった。
屋敷母屋の庭に面する戸が開け放たれ、三つの篝火が焚かれた。私たち家族や長者の家族は広間の中に桟敷が用意された。庭には寒気をわずかでも紛らわそうと、莚や蓑をかぶった供の者たちが勢ぞろいした。
開演だ。扇を持った三人の若い遊びが登場した。
演目は地元、美濃国の歌から始まり、都のはやり歌で盛り上がっていった。
『南宮の宮には泉出でて 垂井の御前は潤ふらむ 濁るらむ 中の御在所の竹の間葉 一夜に五尺ぞ生(お)ひのぼる』(梁塵秘抄250)
『南宮の本山は 信濃の国とぞ承る さぞ申す 美濃の国には中の宮 伊賀の国には稚き児(ちご)の宮』(梁塵秘抄262)
『美濃山に 繁(しじ)に生ひたる 玉柏 豊明(とよのあかり)に会ふが楽しさや 会ふが楽しさや』(催馬楽55)
都ではやっている歌というのは
『遊びをせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけん 遊ぶ子供の声聞けば わが身さへこそ揺るがるれ』(梁塵秘抄359)
ここでは庭にいる者たちも手を打ち、身振り手ぶりの大合唱となった。
この夜の最後の演目は意外なものであった。
足柄という曲が3つ披露された。『足柄』は元々神前で奉納する神楽歌とか。ちょっと期待していたが、言葉もよくわからないところがあったし、この前、関本で聞いた『遊び』の歌とは違うものだった。でも、悲しい歌の調べは似通っていた。
不破の関
寛仁4年11月12日(グレゴリオ暦1020年12月5日)
今、不破の関に向かっている。明るくなる頃、雪が舞い始めた。
『氷をたたきて水掬(むす)び 霜を払ひて薪(たきぎ)採り 千歳の春秋(はるあき)をすぐしてぞ 一乗妙法聞き初めし』(梁塵秘抄112)
そばで、蓬と栗女が口ずさんでいる。昨夜の演目で二人が一番気に入っていた曲のようだ。
「ねえ、その歌がそんなに気に入ったの?」と声をかけた。
蓬は「ええ、この歌は上総でも歌っていたんです。歌の文句もいいんですが、この拍子が仕事の動きと丁度合うんです。それに、毎日うまずたゆまず仕事に励んでいれば、最後にはいいことがあるよという意味なんでしょう、この歌は。それで元気が出るんです」
「茜様は何が一番良かったですか?」
「私は足柄かな。歌の意味はよく分からなかったけど、悲し気な節回しが、前に通って来た関本の一夜が思い出されて懐かしかったの」
歩き始めて一刻(約2時間)程で、不破ノ関に着いた。ここは関とはいうものの実際に関であったのは遠い昔のことで、今は神社のようなものらしい。一応関守はいるが、正式な役人ではないとか。
関の西の端に立ってみると黒々と大きな山々が行く手に立ちふさがっていた。梓(あづさ)の山という。
父と兄が下の崖を覗き込みながら、こんな話をしている、
「この関は有名無実というか、何のためにあるかわからん関で実際役人も置いていない。しかし、帝が践祚されるときには、ここで固関(こげん)の儀式が行われるので、そのためだけに建物が維持されているんだ。大きな声では言えんが全くの無駄だ」
「しかし、そこまでして維持するからには何か表に出来ない理由があるのではないですか?」
私も兄の脇から、下の崖を覗いてみた。かなり切り立った崖だ。下には藤川という川が流れている。
「この関はどこから何を守ろうとしていると思う?」と父が兄の顔を見て言った。
「そうですね。普通にこの防壁を見れば西から攻めてくる敵をここで防ぐんでしょうね。でもおかしいな、西は朝廷のいらっしゃる都ですよね」
「この関が実際に役に立ったのは一度だけなんだ。壬申の乱の時だけだ。大海人の皇子はいち早く自分の領地のある美濃に入り、西から攻めてくる大友皇子の朝廷軍をここで迎え討った。もし大海人皇子軍が負けていれば、大海人皇子は乱の首謀者として処刑されていたはずだ。しかし勝利されたので、帝として即位された。その後も、いざとなれば、自分の皇統を守るための城として残されたのかな…」
「しかし、それなら(天智系の皇統に戻った)桓武の帝の御世になって破却されてもよかったのでは」と兄が首をかしげる。
「ま、よくわからんな。いづれにせよ、関としては延暦8年に廃止され兵もいなくなった」
そこに鳶丸が
「関守の屋敷でご休憩の支度が出来ていますので、お越しください」と呼びに来た。
熱い湯をすすりながら、父は関守に
「貴公らは役目として、普段は何をしているのだ?」
「そうですな。もちろん普段は百姓仕事をして自分の食い扶持を稼いでおります。農閑期には敷地の草取り、建物の修理、道の補修などが仕事です。これには役所から多少の御手当が出ます。何か儀式がある時はそれは大変で、ご覧の通り人もおりませんので、近在から手伝いに来てもらい準備に当ります。でも、それは数年に一度あるかないかです。あとは身分の高い方がお通りになる時に、壬申の御事績の跡を御案内したりもします」
外に出ると雪はやむどころか、うっすら道に積もり始めた。皆大あわてで関の西口から坂を下る。ここからは暗い山道が続く。森は風でざわめくものの不思議と雪は落ちてこない。その代わり「ゴウォー」という恐ろしい声が森の奥から響く。私たちは神様のご機嫌を損じたのかもしれない。
途中、柏原荘で短い休憩をとったが、その頃には雪はやむどころか本降りになってきた。やっとの思いで息長の長者屋敷に着いた時には、皆、雪の塊かと思うばかりだった。足は雪に濡れ感覚がなかった。
屋敷の前では猪野次が心配そうに待っていた。雪まみれの人群れは何かの化け物かと見まごうばかりで、母屋に入る前に山のような雪まみれの蓑を脱ぎ雪を払った。