平安時代の旅を現代に再現する
更級日記の記述を基に、当時の地理、文化、技術を考証しながら平安時代の東海道、国司帰任の旅を再現する歴史探訪サイトです
このサイトは平安時代の日本を紹介する歴史紀行です。更級日記紀行の本編『平安時代東海道を京に上る』では、その時代を平凡ながらも真剣に生きた更級日記の作者、菅原孝標の娘を語り手に千年前の日本に皆さんをお誘いします。菅原家の家族が上総の国府(千葉県市原市)から東海道を京に上る日々、いろんなことに遭遇します。平安時代中期の時代背景を知るために当時の文化、地理、技術に関連する記事を掲載しています。人間の生き様は旅という行為の中に赤裸々に表れます。源氏物語で繰り広げられる宮廷生活をいくら研究しても平安時代社会は理解不能です。
ところで
平安時代の旅ってどんな旅?
古代東海道と言えば主として奈良時代に建設された計画道路、駅路・伝路が思い浮かびますが、歴史的に見れば、駅路は実用的な旅の道としてはさほど役立たなかったようです。実際に使われる道は、やはり歩きやすく、維持に費用がかからないコースに収斂してゆきます。平安時代の旅といっても400年間にわたる平安時代の前期と後期では目的も規模も変わってゆきます。それに伴い東海道のコースも変遷し、鎌倉時代に入ると、これが官道”鎌倉街道”として整備されます。更級日記に描かれた東海道の旅は鎌倉街道の原型ともいえるコースをたどります。平安時代には固定した宿泊施設がなく、道路も整備されず、当時の旅行とは、生活用具一式を担いで旅する山行(トレッキング)或いは軍隊の行軍に近いものです。
とはいえど
変わらぬ人の心と、大きく変わった日本の自然環境
とんでもない昔話のようですが千年の昔でも日本はやはり日本です。そこに生きた人々の苦労や悩み、喜びや悲しみは現代の私達の話ではないかと思うくらいです。反面とてつもなく変ってしまったものがあります。ひとつは自然環境です。つい百年前でも日本は緑なす国と言われていましたが、千年前にはさらに深い深い緑に覆われた国でありました。そこでは人間の営みなど大自然の前のほんの小さな点景に過ぎなかったのです。ところが今の日本はどうでしょう。ありのままの自然を見い出すことはほとんど不可能になってしまいました。また一つ大きく変わったものは死生観です。現代は医学、経済の発展により人々は死の恐怖から解き放たれ、安定した人生を享受しています。しかし千年前には明日何が起こるかわからない「無常」の闇が広がっていました。天皇、貴族といえども、病気にかかったりちょっと大きなケガをすれば即、死が待っていたのです。庶民であれば常に餓死の危険にもさらされていました。更級日記の作者も多くの悲しい別れをしています。千年前の日本、そこに生きた人々の生き様は、”しあわせボケ”した私達に何かを訴えかけて来ないでしょうか?これから更級日記の作者とともに古代東海道をたどりながら、大きく変ってしまった国土、変らぬ人の心について考えて行きたいと思います。
墨俣を出発し、いよいよ東山道の本道を都に向かいます。寒さは厳しくなりますが、野上では遊女の歌に疲れも癒されます。不破の関を越え柏原荘を過ぎるころには吹雪となり、やっとの思いで息長の里にたどり着きます。
二村を出発し、鳴海では潮が満ち始めた浜を大慌てで駆け抜け、ようようの思いで熱田の宮にたどり着いた。ここから広大な枯野を北上縦断し一宮を経由し墨俣たどり着く。墨俣の渡しでは冷たい雨に見舞われ、それでも何とか無事たどり着くことが出来た。
菅原家の旅の一行は三河の国に入ります。難所である「しかすがの渡り」も無事に過ぎ、東海道は宮地山の尾根にかかります。ここでは素晴らしい紅葉の錦が一行を待っていました。